3-11 企み
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倒れているクロエスを、唯一、まっすぐに立っているアールが見下ろす。
「異端の錬金術師クロエス、その賞金は俺がいただく。死体じゃ賞金はもらえないが、例えば指がないとか、あるいは片腕がなくても、賞金はもらえるだろう」
例のアールの腰にあった使い込まれた短剣の刃が不気味に光を反射する。
僕は動けない。リコも倒れている。
つまり誰もクロエスを守れない。
そうアールは思ったはずだ。
「この下衆め」
その声に反応できたのも、やはりアールだけだった。
食堂のドアが薄く開き、それに背を預けて少女が一人、立っている。
サリースリーだった。
「なんだ? どこから入ってきた?」
狼狽したアールの問いかけに「元からの住人だ」と応じて、超然とした歩調で彼女は食堂へ入ってきた。
そこはアールも場数を踏んでいるのだろう、油断なく短剣を構え、強気を向ける。
「悪いがお嬢ちゃん、ここは取り込み中だ。黙って他所へ行っていな。でないと痛い思いをすることになるぜ」
「痛い思いをする?」
サリースリーが足を止めたのは、怖気づいたわけではなかった。
ただ驚いただけなのだ。
たかが人間風情が、自分を如何様にもできるという余裕綽々な態度でいることに。
それを証明するように、歩調はいっそ軽快になり、彼女はアールとの間合いを詰めていく。
「私が痛い思いをするとは、それはそれで興味がある場面ではあるな。どのような痛めつけ方をするのかえ?」
ここに至って、アールも目の前にいるただの小柄な少女にしか見えない存在が、異質すぎるとわかってきたのか、ぐっと腰を下ろし、臨戦態勢に変わる。いつでも飛びかかれる姿勢だ。
それにサリースリーが笑みを深くする。
嗜虐的な笑みだった。
「なんだ、怖くなったのか、小僧。まだ私は何もしておらんぞ?」
言いながらも足を止めないサリースリーは、ついにアールの間合いに無造作に入る。
サリースリーは何も武器を持っていない。服も薄手のもので、刃を止める余地など微塵もない。
しかし彼女は躊躇しない。
ただ足を送る。
この時、たったそれだけのことが、アールの本能を刺激したのだろう。
わずかに遅かった。
アールの体が跳ね、少女に襲いかかるのと同時に、サリースリーの姿が霞んでいた。
短剣が空を切り、跳ね上がり、サリースリーの影を追う。
切った。
影だけだ。
「遅いのう」
彼女の姿はアールのすぐ背後にあり、アールが振り向き様に短剣を横薙ぎにしても、もはや切るのはその影だけだ。
「先ほどの威勢はどうしたのだ、下衆な小僧よ。痛い思いをさせるのではなかったのかえ? それともあれは何かの冗談、言葉遊びだったのかね? ほら、私はここにいるぞ。そのちゃちな刃で切りつけてみせよ、ほら、ほら」
アールを中心に、サリースリーの声が反響する。
サリースリーが動き続ける。影だけを残して。
まるで少女の幻が無数にあるようだった。
「動きを止めろ!」
叫んだアールの言葉にサリースリーが従ったのは、アールがクロエスの体を引っ張り上げて短剣を突きつけたからだ。切っ先は今にも首筋を抉らんばかりの位置にある。
しかしサリースリーは足こそ止めたもののまだ笑みを浮かべており、アールはアールで余裕のない表情でびっしょりと冷や汗をかいている。
「両手を上げて、後ろを向け、この小娘!」
「両手を上げて、後ろを向く。こうか?」
おどけた口調で言いながら、万歳をしたサリースリーがアールに背中を向ける。
アールは容赦しなかった。腰の帯から小さな投剣を引き抜きざまに、少女の背中の中心に飛ばした。
サリースリーには本来的に見えない位置だ。
この時、アールには別の選択肢があった。クロエスを拘束したまま逃げるとか、サリースリーにもっと致命的な一撃を与えるとか。
だからアールは選択を間違ったというしかない。
飛翔した投剣はサリースリーの背中に切っ先を食い込ませることもできなかった。
跳ね返されて軽い音を立てて刃物が床に転がった瞬間、アールの表情は完全に凍っていた。
この時、同時に幾つかのことが起こった。
サリースリーが振り返り、それにアールが釘付けにされた。何故、刃物が刺さらなかったのか、この少女は何者なのか、そもそも人間か、人造人間なのか、そういったことを目まぐるしく考えただろう。
だから彼の背後にリコが立ち上がっているのに気づけなかった。
リコは全く静かに、まるで影が忍び寄るようにアールに近づき、組みついて短剣を叩き落とすと、小柄な男に抵抗する間を与えない見事な締め技で首を圧迫し、その意識を奪った。
「見事なものではないか、人間の割に」
サリースリーがそんな感想を述べてから、僕の方を見た。
「いつまで死んだふりをしているつもりだ、アルカディオ」
いや、死んだふりはしていないんだけど。実際、まだ足が痺れていて、立ち上がれない。
アールを床に寝かし、リコがクロエスの様子を確認している。
「水をいただけますか」
静かなリコの声に、「どうして私が」と愚痴っぽく言いながら、それでもサリースリーが足早に食堂を出て行く。水を汲みに行ったようだ。
僕はといえばどうにか座り込み、まだぼんやりする頭を強く振って、なんとか意識の鮮明さを取り戻そうとしていた。
「薬を飲まなかったのですね」
リコの声がする。
「ああ、うん、あの薬は飲まなかった」
「あの薬には毒を中和する効果があったのです。クロエス殿も飲まなかったようですが」
え? あの薬に、そんな意味があったのか。
想像もしなかった。あの薬をダーカのところでもらう時、すでにリコはアールの目論見に気づいていたのか? でもどうやって? まさか心が読めるわけもないはずだが。
「クロエスには、なんと言って薬を渡したの?」
何気なく問いかけると、ちょっとだけリコが戸惑ったけど、返事はあった。
「精力がつくと、お話ししました。信じてもらえなかったようですが」
何か、重大な齟齬があるな。
最初から、毒を中和する薬です、とか、そもそも、アールが毒を盛ります、とか、そういうことも言えたんじゃないか?
それからサリースリーが水を持ってきて、リコがクロエスに薬を飲ませた。
僕も薬をもらったけど、サリースリーに「この軟弱者」と叱られた。
なんかもう、何もかもがすれ違っている。
間違いなく、すれ違っている。
(続く)