3-10 言葉にできない
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夕食前に飲む、という薬包を手に握りながら、僕は自分の部屋でしばらく考えた。
すでに日が暮れかかり、夕食になろうとしている。例の毒々しい匂いはどこかへ消え去り、美味しそうな匂いがはっきりと漂っていた。今日はハンバーグのようだとわかっている。肉が焼かれる匂い、それから煮込まれる匂いは、涎がどうしても出てしまう。
つい数時間前のリコの様子をもう一度、想像した。
平然と「精力」と言っていたけど、あるいは深い意味もなく、ただ「元気になる」という程度のことかもしれない。そう、そう考える方が自然だ。リコが精力云々などというのは、彼女らしくない。
僕もいつの間にか、変なことを想像するようになったものだ。アールの影響だろうか。いやいや、人のせいにしてもいけない。
部屋には常に水の入ったボトルとグラスが用意されている。
ゆっくりとグラスに水を注いで、なかなか踏ん切りがつかずに薬包をいじっていると、ドアをノックする音がして危うく薬包を落としそうになった。
夕食の時間だと告げる声は、ここ一週間、まるで姿を現さなかったサリースリーの声だ。
それもあって、僕は慌てて薬包を手で握りこんで隠すと、ドアに飛びついた。
開けると、何も変わらないサリースリーがいる。
「何だ、その顔は」
憮然としている少女に安心して、「どこに隠れていたわけ?」と言葉を向けてみると、彼女はあからさまに明後日の方向に視線を逃した。
「言えないってこと?」
「余計な混乱を避けただけだ。妙な客が二人もおるのでな」
「別に厄介でもないと思うけど」
「それは、それぞれの判断だろう」
まだ苦々しげな表情をしている少女に、ズバリ、踏み込んでみる。
「別にアールさんもリコ殿も、きみのことを特別に気にしないよ。ちょっと変わった人造人間、という程度にしか見ないんじゃないかな。実際、僕もそう見られてるし」
「お前は限りなく人間だ」
「サリースリーだって、まぁ、人間の形をしているじゃないか」
冗談でもなかったが、露骨に舌打ちされた。申し訳ない。言葉が悪かった。
「サリースリーは人間より上位なんだから、堂々とすればいいじゃないか」
言い直してみると、今度は大丈夫だったらしい、彼女は鼻を鳴らしてから答えた。
「我らは必要以上に人と関わることはない。クロエスが例外の中の例外なのだ」
まあ、それはそれでいいのだけど。
「食事が冷めるぞ、早う行くがいい」
ああ、そうか、サリースリーは話をしに来たわけじゃなかったのだ。夕食の時間を告げに来たのである。
その視線が僕の手元に向く。
「何だ? 何をその手に握っているのだ?」
ぎゅっと右手を握りしめていたせいだろう、サリースリーが目を眇める。
「いや、その、きみが嫌がっている客人、リコ殿からもらった、その、えーっと、薬なんだ」
ますますサリースリーが不可解げな顔になる。
「なんだ、アルカディオ、どこか具合が悪いのか? それならクロエスに報告せよ」
「違う違う、その、病気のための薬じゃない」
「じゃあ、なんのための薬なのだ? 何に効果がある?」
あー、もう、自分の会話能力が恨めしい。
「元気になる、らしい」
珍しく、ぽかんとした顔になり、サリースリーは僕の全身を眺めるようにした。
「元気ではないか。どこか元気ではないのか?」
参った、本当に参った。
「精力が出る、と言われた。正直、僕にも意味がわからない」
一転して冷ややかな眼差しになり、サリースリーは軽蔑しきった声を発した。
「人間は常に発情期なのだとは聞いていたが、お前もそうだとは思わなかった」
「発情期じゃないよ……。きっと何か、別の目的があるんだと思う」
「しかし、精力が出る薬を、あの娘がお前に渡す以上は目的は一つしかあるまい」
実に大胆な少女である。
「それはちょっと、困る」
「困るのか? 何故だ? なかなか器量はいいし、若いし、アルカディオくんにも不満はあるまい。では、楽しい夜を満喫したまえよ」
ポンポンといかにもな感じでサリースリーは僕の腕を叩き、階段を降りて行った。
もう、なんでこうなるかな……。
本当に困る。ややこしいことだ。
僕は部屋に戻り、薬はテーブルに置いて、結局、飲まなかった。
冷静になること、そして頭の中にある語彙を発掘し、検討し、いつでも最適に使えるように整理して、一歩、一歩と階段を降りて行った。
食堂に入ると、すでに僕以外の三人は席に着いている。
クロエス、アール、そしてリコ。
リコがちらっと僕の方を見たけど、これは薬を飲んだか確認するような眼差しだった。
反射的に視線を外したのは、僕もまだ経験不足ということか。
食堂の自分の席に座ると、クロエスと僕、リコが「いただきます」と言葉を発し、アールが一人で十字を切った。
食事自体はいつも通りだった。
やっぱり煮込みハンバーグで、揚げたジャガイモが添えられている。どことなくダーモット商業国風の料理である。主食は細い麺で、ベーコンと卵、牛乳などで作られたソースと絡められている。胡椒が効いていてうまい。
飲み物は酒だった。リコが市場で買ってきた葡萄酒。赤い色をしている。
僕が断ったものの、リコに勧められたクロエスとアールはそれぞれグラスで一杯、それを飲んだ。
食事が終わると、この日は紅茶が出てきた。ミルクが添えられている。
話もおおよそ終わり、それぞれが退室を考えるタイミングに、それは始まった。
クロエスが咳き込み、唸り声を上げた。
「変な酔い方をしたようだ。久しぶりに葡萄酒を飲んだからかな」
リコがあくびをしたかと思うと、その額がいきなりテーブルの上に落ち、大きな音がした。クロエスが席を立とうとして、しかし立ち上がれずに姿勢を乱し、椅子を倒しなから床にへたり込む。
なんだ? 何が起こっている?
僕は慌てて立ち上がろうとして、しかしその時にはもう両脚に力が入らなかった。椅子から落ちそうになり、テーブルを掴もうとしたけれどその手にさえ力が入らない。
みっともなく僕も床に倒れていた。
「やれやれ、これでやっと仕事ができる」
幾重にも反響する声は、アールの声だった。
僕は目が霞んで、状況がよく見えない。どうしてアールは無事なのか。クロエスとリコは酔ったわけではない。葡萄酒を飲んでいない僕さえも体に不調をきたしている。
状況は簡単。
答えははっきりしている。
アールが毒を盛ったのか。
しかし何故? 何のために?
僕はどうにか腕に床を突っ張った。ブルブルと震えて、まるで骨が抜かれてしまったようだ。
だけど、まさか、寝ているわけにもいかない。
ぼやけた視界で、アールが腰から剣を抜いたのが見えた。
(続く)