3-9 薬包
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クロエスは朝食の後、小さな袋をリコに渡したが、受け取った途端、リコはそれをそっと押し返そうとした。銀が入っているはずで、つまり、それだけ貸すというクロエスの姿勢に、額が大きい、と無言で示した形だ。
でもクロエスは彼女の手を包み込むようにして、袋を握らせた。
二人の間でのやり取りはそれだけだったけど、リコが折れたのは明らかだ。
「アルカディオ、市場を案内してあげなさい」
その言葉で、僕がリコと一緒に市場へ行くことが決まった。
ただ、こう付け加えられた。
「彼女に世間というものを教えてもらうんだよ」
世間を教えてもらう?
この時、すでにアールの姿は消えており、朝食の最中にクロエスに調理場をもう半日貸して欲しい、と頼んでいたらか、もう作業を始めているのだろう。
僕は身支度をして、玄関でリコを待った。ほどなく彼女もやってくるが、わずかに顔に赤みがさしていると思ったら、頬紅をうっすらとつけたようだ。唇も光を艶やかに反射している。どこに化粧の道具なんてあったのか。
ともかく、彼女が女性ということが意識されるけど、別に彼女だけが世界で唯一の女性ではない。
では、世界で唯一の女性ではないんだけど……、なんと言えばいいだろう?
どちらからともなく並んで歩き出し、リコは真剣な様子でベッテンコードについて質問を始めた。僕としても黙って歩くのも気まずいし、かといって妥当な話題もなかったので、質問を向けられるのはむしろありがたい。
ただ、今度は答えが僕の中にはないという問題があった。
ベッテンコードはどこの出身か? 知らない。
ベッテンコードは誰に剣術を習ったのか? 知らない。
ベッテンコードはどんな仕事をしていた? 知らない。
年齢は? 正確には知らないけど、たぶん、七十代。
いつからベッテンコードはこの島にいる? 知らない。
クロエスとベッテンコードの関係は? 協力関係にあるらしいけど、それ以上は知らない。
ベッテンコードの好物は?
……好物?
「あの人は、そう、なんでも食べましたね」
僕がやっと答えるとき、すでに道の両脇は森林というには木もまばらで、市場の外れの建物が見えてきていた。
リコは僕の無知に呆れるようでもなければ、咎めるようでもなく、いつも通りだった。
「お酒などを嗜まれたことは?」
「酒? いや、飲まなかったんじゃないかな。あまり飲みそうな人格じゃない」
「厳格なのですか?」
「うーん、というか、無駄を嫌う性格というべきか。酒を飲んで、どんな効果がありますか?」
僕の質問が可笑しかったんだろう、彼女は口元を手で隠した。
「どんな効果があるのでしょうね。普段は言えないことを言えるようになる、ということはあります。他にも、よく眠れるとか」
「ベッテンコード先生は、歯に衣着せぬ物言い、というのが自然ですから、お酒を飲まなくても言いたいことは言いますよ。なので、言えないことがそもそもない。眠りに関しては、あまりわかりませんけど」
そんなやり取りの間に、市場へ入った。
まずは服を商う店に行く。市場にはいくつかあるけど、高級店なんてない。ついでに言えば、どの服を商う店も商品は島で女性たちが主体となって生産している。
といって、質が悪いなんてことはない。どれも丈夫だし、柄も工夫されたりして、ちゃんとしている。
リコはすぐに数着を選び出し、会計をしている。店のものに何かを聞いたかと思うと、僕に先立って歩き始める。市場は初めてではないんだろうけど、どこへ行くんだろう。
背中を追ううちに、わかってきた。ダーカのところだ。
ダーカの病院は市場の真ん中にあり、しかし裏通りなのでやや薄暗い。ここだけ切り取ると、後ろ暗い闇医者、という感じだけど、実際には島の住民の病気や怪我を最も治療している医者がダーカだ。
「よくここが分かりましたね」
こちらからそう訊ねると、リコが首を傾げる。
「クロエス様のお屋敷に向かう前、ここで世話になっていたのです」
あ、そうだった。リコは海を漂流して、ダーカが治療したのだ。
治療費はどうしたのだろう、と思ったけど、そうか、クロエスから銀を借りたのはこのためでもあるのか。
僕たちが病院に入ると、ちょうど患者は誰もいなかった。看護師であるダーカの母親という老婆が椅子に腰掛けているのが真っ先に目に飛び込んでくる。皺だらけの顔をしていて、目が開いているのか閉じているのか、一見しただけではわからない。
リコが話しかけると、老婆がかすかに頷く。
二人の会話を聞いたからか、診察室からダーカが顔を出した。リコを見て表情が少し明るくなり、僕を見てちょっと険が浮かぶ。
同席しない方がいいか。でも今、そそくさと出て行ったらそれはそれで不愉快だろう。
僕はできるだけリコとダーカのやり取りを聞かないようにしたけど、ダーカの声が大きくなる場面が何度かあった。「本当か?」とか「ありえなくはないが」とか「首を突っ込まない方がいい」とか「出て行けばいいじゃないか」とか、本当に断片的で何を話しているのかは判然としない。
わかったのは、ダーカがかなり真剣になっていて、リコをかばうような姿勢でいることだ。
うーん、盗み聞きも中途半端になると、もどかしいな。
やっぱり退室するべきだったな。
ちょっと待っていろ、とダーカが診察室に消える。リコが待合室の椅子の一つに腰掛け、老婆と今度は本当に世間話を始めた。リコが市場にある店について色々と質問を向け、それこそ六十年はここで過ごしていそうな老婆は、気後れした様子もなく流暢に答えていた。
二十分ほど待ったか、ダーカが戻ってきた。封筒を持っていて、やや膨らんでいる。リコのための薬だろうか? ダーカは念を押すようにリコに何か言ってから、銀と引き換えに袋を彼女に渡した。
彼女が「行きましょう」と僕の横を抜けるまさにその時、ダーカが「待てよ」と声をかけてきた。反射的に振り返ると、彼は僕をまっすぐに見ていた。
真剣で、緊張した面持ちだった。
「無関係なものを巻き込むなよ」
どういう意味だろう?
答えられずにいると「行け」と追い払うように手を振られたので、結局、何も言わずに頭を下げて僕はリコに続いた。
表の通りへ出ると、「お酒を買って帰るとしましょうか」とリコが言ったので、ダーカの不思議な言葉を検討するのは脇へおかないといけなかった。
「お酒って、僕も飲まないし、クロエス先生も飲みませんよ。アールさんは知りませんけど」
「私が飲みます」
無意識に彼女の顔を見ると、口元に笑みがある。意味深で、しかし魅力的な笑い方だった。
僕はこの時もどう答えるか迷った結果、こっちです、と酒屋へ案内したのだった。
酒屋では店主に「アルカディオが女連れとは珍しいな!」という一言から始まり、だいぶからかわれた。最後には僕はうまく笑えなくなり、店主が気を悪くしないか不安だったけど、それでも酒は安く手に入った。最後にリコが値段交渉したこともある。
荷物を抱えての帰り道、酒瓶二本は僕が持った。自分だけ何も持たずにいるのは、落ち着かなかったので持たせてもらったようなものだ。
石畳の道を歩いて上っていく。太陽は中天を少し通り過ぎたところ。でももう息苦しいほどの暑さは感じない季節だ。心地いい気候だった。風の温度さえ、その感触さえもが優しげだ。
館の前で「ちょっと待ってください」とリコが僕を呼び止めた。
何か買い忘れたのか、と思ったけど、彼女は例のダーカから受け取った封筒から、三つの薬包を取り出した。それが僕に差し出される。
「夕食の前に、これを飲んでくださいませんか」
「薬を? 何故?」
リコはちょっと視線を外し、それから僕をまっすぐに見た。
「精力が付きます」
……なんて言った?
リコは平然としている。
僕はこの時も言葉を見つけられず、黙って薬包を手に取った。
何が起こるんだろう?
精力……?
(続く)




