1-3 老人
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老人はつかつかと食堂へ入ってくると、僕の目の前に立った。
反射的に席を立って、僕は直立した。
じっと老人の瞳が僕の瞳を覗き込み、まるで頭の中を探られているようだった。
その視線がつと外され、クロエスの方へ向く。彼はまだ席に座ったまま、しかし退屈そうに頬杖をついていた。
老人の鋭すぎる眼光もこの錬金術師をしゃんとさせることはできないようだ。
「クロエス、これはどういうことだ?」
「そこにいる少年」
怠惰そのものの演技で、クロエスが僕を指差す。
「それがあなたの容れ物になるはずだった存在です」
い、容れ物?
もう一度、老人が僕の瞳を見て、次に体をさっと眺めやってから、もう一度、館の主人の方に視線を向け直す。
「はずだった、という表現が気に食わんな。正直に申してみよ」
「正直に申していますよ。失敗、ということです」
その一言により一層険しい顔に変わり、ピクピクと老人の眉が震える。
「正直なのは良いことだ、異端の錬金術師よ。しかし、失敗で済むのか?」
「これは失礼」
頬杖する手を右から左へ変えて、そっぽを向きながらクロエスがはっきりと応じる。
「失敗したように見える、というのが現状です」
「詳しく説明せよ」
まだ何も分かっちゃいませんけどね、と頬杖をやめると、詰問されているのもなんのその、指を組んだりほどいたりしながら、青年の口から言葉が紡ぎ出される。
「どうも記憶に障害があるように思えます。言葉は喋れるから、完全に情報の転写に失敗したわけでもない。錬金術や人造人間といったものも素直に受け入れるので、やはり記憶に不具合があるというよりは、その引用がまだできていない可能性があります」
「わからんな。この人形は、では、全てを継承しているのか?」
僕の知らない情報が錬金術師と老人の間でやり取りされるけど、話されているのは紛れもなく僕のことだ。
情報の転写。記憶の不具合。引用。
全てを継承……。
えーっと、つまり、僕が自分の名前を思い出せず、過去の記憶がない、というところが問題なんだろうか。
もっとも、そこが問題だ、と指摘されても、都合良く記憶が復活するとは思えないけど。
老人がぼんやりしていた僕の腕を急に掴んだので、これには短く悲鳴が漏れてしまった。それでますます老人が不機嫌そのものの気配を発散する。
「このような幼い体、ひ弱な体で、技など使えるものか。それに軟弱な悲鳴をあげるような人格では、先が思いやられるわ」
「そう言わないでくださいよ、ベッテンコードさん。体の成長は後からでも促進できます」
その言葉、クロエスの言葉の途中で、僕の背筋を電流が走った。
ベッテンコード。
その名前を知っている。どこかで聞いた。もしかして過去のどこかで?
それはいつだ?
思い出せ。思い出せるはずだ。
どこで……、どこで……?
……ダメだ。思い出せない。
「クロエス。この人形はどうするのだ? 処分するのか?」
冷酷そのものの老人、ベッテンコードの言葉を前に、慌ててクロエスが立ち上がりこちらへやってくる。
「まさか。冗談でしょう? まだ何の検証もしていませんよ。もしかしたら情報転写はうまくいっているかもしれないし、それ以外にも仕込んだ性能が生きている可能性もある」
「わしが求めているのは、本当の使い手、本当の継承者だ。このような子どもではない」
きっと、この場面のベッテンコードは僕を突き飛ばそうとしたのだろう。
掴んでいるままだった僕の腕を押し出すようにして。
瞬間的に僕の手が勝手に動いていた。
掴まれていない方の腕がしなり、ベッテンコードの僕の腕を掴む手の、その手首を握る。
無意識の動き、反射的な行動は、相手の勢いも利用しての投げ技だった。
ただ、ベッテンコードは異常な対応をして、僕の投げは不発に終わった。
自分の手首を掴んだ僕の手首をとっさに掴み、投げに行った僕の勢いも合わせ、同時に足も払い、僕の方が見事に宙に舞ったのだった。
背中から床に叩きつけられ、胸から空気が全部、吐き出される。
痛みと酸欠でクラクラした。
その意識の中で、さっきの自分の技、それに対するベッテンコードの技、それを検証してもいた。
僕は投げ技を知っていた。覚えてもいた。忘れていただけで。
ベッテンコードの技も知っているような気がした。
全てがグニャグニャに歪んで見える視界で、こちらの顔をクロエスが覗き込んでいる。何か言っているようだけど、声もぼやけて、遥か遠くから響いてくるようだ。音がどこまでも反響し、いくつにも重なっていて聞き取れない。
ぼうっとしてる僕の視界の端で、ベッテンコードが顔をしかめ、足を振り上げ、クロエスが制止するより早く僕の胸に突き刺すように蹴りつけた。
時間が止まるような衝撃と激痛。
だがそれで、急に視界がはっきりした。
自然と咳き込む、というか、さっき食べたものを全部嘔吐してしまった。反射的に体をひねったから良かったものの、もし仰向けで嘔吐したら吐瀉物が喉に詰まって窒息したかもしれない。
「軟弱かと思えば、意外にというべきか、さすがに頑丈だったな」
乱暴はしないでくださいよ、と傲岸不遜な老人に指摘しながら、錬金術師が僕の背中をさすってくれた。
「廃棄するかは、これから決めるとしよう」
顔をあげるけど、涙が止まらないので今も視界は不明瞭だ。
それでもベッテンコードが苦り切った顔は苦り切った顔でも、さっきまでとは少し違う感情を顔に浮かべているのはわかった。
僕の視線から目をそらし、老人は来た時同様、肩で風を切るように去って行った。勢いよく扉が閉められる。
困ったお方だ。
クロエスがそう言って、給仕の少女に水を持ってくるように指示を出した。
(続く)