3-8 幻の声
◆
僕とリコはどちらからともなく屋敷へ戻り、二人で調理場の方へ行った。
二人ともが暗黙のうちに、漂う匂いに興味を惹かれていたこともある。剣術以外のことを話題にしたかったこともある。
調理場を覗くと、アールの小さい背中が見えた。かまどの前に立っていて、湯気が立ちこめている。それと、廊下もすごい匂いだったけど、調理場の匂いはかなり酷い。
本来の調理場の主人と言っていい人造人間は壁際に立ち尽くしていた。所在なさげ、といったところだ。
僕はゆっくりとアールに歩み寄る。別に気配も消してないし、足音もしているから、自然、アールが振り返った。しかし彼が顔の半分を布で覆っているのにはびっくりした。
「ああ、アルカディオと、リコ殿か。何か俺に用事かい?」
いつも通りのアールだが、声はくぐもっている。
「すごい匂いだけど、何を作っているわけ?」
「もちろん、薬だ。やっと今朝、患者を見せてもらえたんでね」
どうやら僕とリコが剣を返したり何やらをしている間に、クロエスがアールをベッテンコードと面会させたらしい。
「どんな風に見えましたか? その、患者は」
こちらから確認すると、鍋に向き直り、それを混ぜる動きは継続させながら、アールはすぐには答えなかった。焦らしているのではなく、答えあぐねている、という様子に見えた。彼の肩越しに、小さな手鍋で黒に近い緑の液体が煮立っているのが見て取れる。
「アルカディオ、人は誰もが老いていく。老いれば体は弱くなり、病気にも罹りやすい。そもそも体が本来の機能を失っていくこともある」
「ええ、それは、わかります」
「あのご老人は、もう十分に生きたように、俺には見えるね。生ききった、と言ってもいい」
「助からないというわけですか?」
自分の言葉にハッとしてしまった。
強い口調、叩きつけるような言い方をしてしまった。
僕は、苛立っているのか。
アールは特に気にした様子もなく、努力はするよ、と飄々と応じる。それにもカッと頭に血が上り、その感覚があまりにも明瞭だったために、逆に際どいところで僕の理性は保たれた。
意識して呼吸しようとして、吐瀉物みたいな匂いをもろに吸い込んで、こちらが嘔吐しそうだった。
「薬は作れるんですよね?」
「今、こうして作っているじゃないか。これで少しは生きていられるはずだ」
助かりはしないということか。
「医者をやっているとな」
鍋の方に視線を向けたまま、僕には背中を見せているアールが言う。
「悔しくてたまらない時がある。助けたいのにどうしたらいいのか分からない、分かっていても薬がない、手術をしたくてもそうしたら患者は死ぬ、そういう場面があるんだ。俺は患者を前にして、ただ、待つだけさ」
「待つ……」
「そう。命が目の前で消えるのを。あの瞬間は、背筋が凍るよ。声ではないけど、声より明瞭な怨嗟が、俺を地獄へ引きずり込もうとするような錯覚がある。不思議だな」
アールはそこまで喋ると黙り、僕も黙り、背後に控えるリコも無言だった。
静かな空気は汚臭じみた匂いが濃密で、音はアールの手元の小さな木製のヘラが鍋をかき回す音だけだった。熱がこもって蒸し暑く、それが余計に気分を暗くさせた。
「よろしくお願いします」
やっと僕はそれだけ言って部屋を出た。
僕は一度、自分の部屋へ戻ろうとしたけど、ベッテンコードのことが気になった。
いつもは時間を見つけて訪ねているが、ここ数日はそれもままならなかった。
もっとも、ベッテンコードはここのところはずっと眠っている。食べ物も重湯ばかりで、体は以前から痩せていたが、最近では筋や骨が張り出し、目立つようになっていた。
死ぬなんて、悪い冗談としか思えない。
クロエスが診察しても、アールが診察しても、やっぱり僕には変な冗談のように聞こえる。
ベッテンコードのいる部屋に通じる階段を上がろうとした時、気を利かせたのだろう、ついてきていたリコは「ここで待っております」と言ってくれた。
僕は頷き返して、先へ進んだ。らせん状の階段は、登っていくうちに僕の歩調を早めさせる。焦ってしまうのは、何故だろう。
部屋の中に入ると、人造人間が一人、待機していた。世話をするための一体だ。
僕に頭をさげる彼に、僕も頭を下げる。
部屋の中には調理場とはまるで違うけど、違和感のある匂いが立ち込めていた。
寝台の上でベッテンコードは身じろぎもしない。
目を閉じ、安らかに呼吸している。今は熱も高くないようだ。頬の朱色が薄いのでそれがわかる。
今にも起き出してきそうだった。
そして僕に剣術の稽古をつけてくれそうだった。
僕を圧倒して、死の恐怖を繰り返し繰り返し、教えてくれそうだった。
でもそれはきっともうない。
世界中の医者を集めても。
世界中の薬を集めても。
魔法使いも、錬金術師も。
誰も何もできないのだ。
寿命。
終わりの時。避けられない、終着点。
僕はそっと寝台の上のベッテンコードの手を取った。いつか、僕の腕をはね飛ばしたはずの手は、柔らかく、暖かく、そして頼りない。
ほんの半年しか過ぎていない。
僕は目元が熱くなり、ぐっと目を閉じた。
今、まさにベッテンコードが口を開くのではないか。
「何を女々しいことをしている」
そんな声が聞こえた気がした。
恐る恐る顔を上げると、ベッテンコードは、寝台の上で目を閉じていた。
幻の言葉。
僕が望む言葉。
僕には僕のできることをやるしかない。
涙はこぼれなかったけど、ぐっと袖で目元を拭った。「後をよろしく」と人造人間に声をかけ、彼が無言で頷くのに頷き返し、僕は部屋を出た。
螺旋階段の下でリコが待っていた。
「あの、お願いがあるのですが」
彼女の方からそう声をかけてくれたのは、正直、助かった。どういう言葉を口すればいいか、迷っていたのだ。
「なんですか? 大抵のことには答えられると思います」
「着替えが欲しいのですが、明日にでも、街へ行ってもいいでしょうか」
「ああ、そうか、気付かなくてすみません。男ばかりでしたから。ついていきましょうか?」
ちょっとだけ申し訳なさそうに、リコが肩を窄ませた。
「銀をほとんど持っていないので、できれば、その……、貸していただけますか? 掃除でも料理でも、なんでもお命じください」
僕がやっぱり答えに迷ったのは、あまりにも彼女がへりくだっているからで、僕が知る限り、ベッテンコードも、アールも、そこまで腰が低くはなかった。みんな、僕に対してはもっと砕けていた。
いや、リコの様子こそが態度としては正解か。他の人がちょっとおかしいのだ。
クロエス先生に話しておきます、と告げるとリコはホッとしたようだった。
そして調理場での薬作りも終わったようで、夕食の匂いが空気に乗ってかすかに感じ取れた。
(続く)




