3-7 見えない剣
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曲刀を返すのは、リコの部屋が整ってからになった。
アールが何をしているかは知らないけど、つい昨日、腰に吊るしたカゴいっぱいに草を採集していたから、それを処理しているのだろう。
それはそれで重要な仕事だけど、ちょっと手伝って欲しかった。
もっともそう思ったのも最初だけで、片付けを始めてみるとリコはその長身に見合った力を発揮して、物置として部屋の半ばを埋めていた種々雑多なものを、軽々と二つ隣の部屋に運んで行った。
ちょっと僕では一人で持ち上げられないものを、リコはひょいと持ち上げたりする。
上背はあっても細身なのに、よくあれだけの膂力があるものだ、と内心、感心しきりの僕だ。
そうして予想より早くリコの部屋は整い、僕は自分の部屋から曲刀を持ってくると言おうとしたが、何故か自然と、リコが僕の部屋に来ることになった。
一応、片付いているけど、どこか気恥ずかしい。
でも断ることもできず、彼女は僕の部屋に入って、興味深そうに窓の外の光景を見ていた。
「これですよね、どうぞ」
布でぐるぐる巻きにされている曲刀を差し出すと、彼女は視線を僕の手元にあるものに向けた。
ゆっくりと、彼女の手が剣を取り、布を解いた。
僕も鞘代わりの布で巻いた時にはよく見ていなかったから、この時、初めてその刃を確認できた。
見れば見るほど、吸い込まれるような光り方をしている。なかなかな切れ味を発揮しそうだ。海水に塗れたはずだけど錆など浮いていないのには安心した。バツの悪い思いせずに済んだ。
光にかざすようにしてから、「鞘はないんですね」とリコはどこかぼんやりとした口調で言った。
「リコさんが身に帯びていなければ、きっと海に沈んだんだと思います。大切な鞘でしたか?」
「いいえ、普通の鞘です。ないと不便だな、というだけで」
この時にはリコの視線の焦点は現実に戻っていた。
そのリコに布を手渡し、彼女はそれで曲刀を包んだ。
「失礼ですが」
彼女は布を巻き終わると、僕を静かな眼差しで見た。
「アルカディオ様は、剣術を使われるのではないですか?」
「ええ」
どう答えるべきか、すぐに判断ができない。
別に隠すつもりはないし、隠す必要すらないんだけど、でも僕が身につけたものが剣術かと問われると、それは疑問だった。
剣をうまく振ること、相手を確実に切ることはできるけど、それは剣術として不完全ではないか、と時折、思うのだ。
でも剣術以外に、表現する方法がない。
「とある方の、指導を受けました」
「その方はどちらに? この島におられるのですか」
参ったな。答えづらい問いかけだ。
うーん、これも隠すことじゃないか。
「実はこの館にいるんです。ベッテンコード先生は今、病気で臥せっています」
ベッテンコード、という名前に、かすかにリコが反応したようだが、しかし彼女は何かを確認したり、追及することもなく、「そうですか」という一言で話題を変えた。
「私も剣術を学んだ身です。アルカディオ様の剣術というものを、見てみたいと存じます」
「え? 見てみたい?」
どんどんおかしな方向に話が進んでしまうのに、僕は思考がどんどん複雑に絡まり合うのを感じていた。
剣術を見せる、ということは今までなかった。
僕にとっての剣術は、ベッテンコードと刃を向け合って、そのベッテンコードに殺されないようにするものだった。
演武というものがあるとは聞いているけど、ベッテンコードがそれを見せてくれたことはないし、僕だって学んでいない。
実践、実戦だけが僕とベッテンコードの間にある剣術というものだった。
「失礼しました」
僕が黙ってしまったからだろう、リコが僕が断りたがっていると見たようで、深く頭を下げた。これには面食らった。
どうも僕はひどく混乱していたようだ。
「無理を言ってしまったようですね」
混乱して、僕は返事をしてしまった。
「見せるほどのものではないですけど」
少しだけ、リコの顔に喜色が浮かんだ。
「ぜひ、見せていただきたいのです。よろしくお願いいたします」
僕は自分のお人好しさに呆れながら、数日ぶりにベッテンコードから借り受けたままの剣を剣帯ごと手に取り、リコと一緒に館の裏手へ向かった。
外へ出ると、かすかに奇妙な匂いがする。何かが煮られているようだけど、普通の料理ではない。草が煮られているような……。
匂いのことは頭から追い出して、僕は一人で進み出て、まっすぐに立った。
剣の柄に触れる。
心に、凪がやってくる。
静寂。
世界が動きを止め、色を失い、細かな糸に解れていく。
剣を乗せるべき筋が、風のように流れ、揺らぎ、砕け、消える。
呼吸は細くなり、体はわずかに重く、しかしその重さはいつでも重力を無視できると確信できる。
足の位置をわずかに変える。それだけのことなのに、ゆっくりと変化していた周囲の景色は、唐突に塗り変えられ、そのまま再び、緩慢な変化へと移行する。
剣は自由だった。
まだ鞘から抜いていない。それなのに、僕には自分が相手をどこに置いても切れる様子が、はっきりと見えた。
「アルカディオ様」
声がする。
ゆっくりと閉じていたまぶたを持ち上げる。
僕はかすかに両足を少し構え、しかしまだ剣を抜いていない。
本気で柄を握りしめてさえいなかった。
自分が立っている場所が遅れて理解できる。
館の裏手で、リコが立っている。
いつの間にか彼女は汗にまみれていて、それが太陽の光をキラキラと反射している。
何故だろう。
「お見それしました」
うまく舌が回っていないような口調でリコがそう言ったので、彼女が恐怖していることが僕にもやっと理解できた。
何がそんなに恐ろしい?
僕は剣を振っていない。抜いてもいない。
技は何も、見せていないのだ。
「お許しください」
リコが頭を下げ、それでは足りないというように片膝を折った。
「何もしていませんよ」
僕はそっと剣の柄に置いたままだった右手を離した。それから安心させるために剣帯を腰から外しさえした。
途端、自分が何か、酷い仕打ちをしたような気持ちになった。
「立ってください、リコさん。こちらこそすみませんでした。許して欲しいのはこちらです」
僕はリコの前で膝を折った。二人の視線の位置がほぼ水平になる。
視線と視線がぶつかる。
リコの目は涙で潤んでいた。
彼女はその涙がこぼれるのを防ぐように、目を閉じて、少し上を見た。
「凄まじい剣でした」
振ってはいない。抜いてもいない。
しかし見えないはずの僕の剣術を彼女は見たのか。
リコには、見えたのか。
なら、彼女は僕に近いということか。
ゆっくりとリコは瞼を開く。
もう涙はない。
僕は笑顔を作った。
うまく笑えたかは、わからないけれど。
リコも笑みを見せた。彼女もどこか、強張った笑みだった。
静かに風が吹いていた。
ざあっと木々が揺れ、僕はここが現実だと再認識した。
(続く)