3-6 二人目
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アールが滞在し始めて三日目、驚く来客があった。
朝食の席で、アールは眠そうに、クロエスはいつも通りに食べ進めていて、もちろん僕も、自分の食事をしていた。アールは夜遅くまで、薬作りに躍起になっているようだった。
僕がちょうど焼きたてのパンにバターを塗り、林檎のジャムを塗りつけていた時、不意にクロエスが顔を上げたので、僕も、そしてアールもそれに自然と反応した。
しばらくクロエスは壁しかないところを見ていたが、
「来客のようだ」
ボソッと、そう低い声で言うと席を立つ。アールがぽかんとしているのは無視して、彼は僕の方を見てかすかな笑みを浮かべた。
「アルカディオ、ついてきなさい」
そう声をかけてくるではないか。僕には事情は全くわからなかった。
来客? なんで僕が?
でも疑問を向けるのをわざと躱すように、クロエスはまっすぐに食堂を出て行こうとしている。僕は慌ててパンを一口かじり、残りは皿に置いて席を立った。唇の端にジャムが付いているのを指でぬぐって舐め、その指をどうしようか、少し迷った。
結局、行儀悪く服の裾で拭うしかなかった。
リズムを刻むようにクロエスは廊下を進み、一直線に玄関へ出た。
その扉をそっと開いた時、涼しい朝の空気が吹き込んで、僕とクロエスの髪の毛をかすかに乱した。
外へ出ると、ちょうど森の中を抜ける石畳の道を、二人の人物が進んでくるところだった。
一人は不機嫌そうな初老の男で、もう一人は女性だった。若く、上背がある。でも、誰だろう? 知らない顔のような気がするけど、何かが引っかかる。
初老の男は見間違えようがない、ダーカだった。
彼はクロエスの前まで来ると「流れの医者を匿っているそうだな」と乱暴な口調で言葉をまさにぶつけてけてきた。その強い言葉を受けた当のクロエスは微笑みを崩さない。
「匿っているというか、客人のようなものですな。食客、というのかな」
「言葉を弄するのに長けた奴だ」
忌々しげな口調が示す通り、ダーカがクロエスに否定的なのは、僕も以前から知っていた。
クロエスは錬金術師であり、人造人間にまつわる技術を扱っている。それは医者には、生命への冒涜として見える場面が多い。アールがクロエスに肯定的なのは、全体から見ると極珍しい態度のはずだ。
僕とダーカの間にはそれほど遺恨はないし、むしろダーカは僕に同情的ですらある。勝手に、クロエスの犠牲者、と僕を見ているんだと思うことにしている。
今はクロエスとダーカの関係より、何故、そのダーカがここへ来たのか、だ。
「ご用件を承ります、ダーカ殿」
クロエスの言葉に舌打ちして、ダーカはさっと身振りで女性を先へ進ませる。
ほんの数歩の動き、それだけで彼女が剣術の使い手だと僕にはわかった。クロエスも気づいたかもしれない。
「リコと申します」
すっと女性が頭を下げる。長い髪の毛は今、高い位置で結ばれている。
リコという女性は顔を上げ、何故か僕の方を見た。
「あなたがアルカディオ様ですか?」
これには僕だけじゃなく、クロエスも困惑したようだ。この館へ僕を訪ねてくるものは今までに何人かいたけど、当然、島のもので、クロエスは相手がどこの誰か、把握している。
しかしおそらくリコはクロエスの知らない人物だし、僕とリコがどういう関係か、想像できないのが当然だ。
だって、僕自身、関係がわからない。
「ええ、僕が、アルカディオです」
「あなたが私を見つけてくださったと聞いています。感謝申し上げます」
私を、見つけた……?
急に記憶が蘇った。
「ああ! そう、あの、海を漂流していた人ですね」
僕が確認するのに、女性が柔らかい笑みを見せる。慈愛に溢れた笑みという奴だ。
少し、ときめいたかもしれない。
「お陰様で、命拾いしました。ありがとうございます」
「いえ、あれは、たまたまです。お互いの幸運が重なっただけです」
どうやら彼女は礼を言うためにここへ来たようだ。
咳払いしたダーカがクロエスを見据える。
「食客とやらが一人いるそうだが、もう一人増えても困るまい、クロエス」
この時は珍しく、クロエスが即答しなかった。口元に手をやり、何度か撫ぜてからやっと答えた。
「まぁ、一人ほど増えても、困りませんね」
決まりだ、と手を打ち、短い挨拶の後に背中を向けるとつかつかと速いリズムの足音を残してダーカは去って行った。
三人でそれを見送るけど、クロエスは苦笑い、僕は困惑、リコは申し訳なさそうな顔をしていた。
「申し訳ございません、無理を言ってしまって。クロエス様」
リコが深く首を垂れるのに、「何も申し訳なくないよ」とクロエスはもういつも通りの態度に戻っていた。
「朝食の最中なんだ。一人分くらい、なんとか用意できるだろう。ついてきなさい」
そう言ってクロエスは館の中に戻ろうとして、しかし足を止めるとからかうような笑みでこちらに顔を向けた。
「アルカディオ、あまり客人を集めないように。空室にも限りがあるんだからね」
どう答えるか迷っている間に、「冗談だよ」と今度こそクロエスは館の中へ戻り始めた。僕はリコと並んで後についていく形になった。
質問が口をついてしまったのは、僕も冷静さを失っていたせいだろう。
「リコさんはどこから来たんですか?」
彼女は優しい顔つきで答える。
「大陸のダーモット商業国から船に乗ったのです」
「ダーモット商業国から? 直接?」
「ええ、大陸の西海岸を南下して、そこから今度は陸地を北に見て、東へ進みました。その途中で嵐に見舞われて、遭難したのです。最後には船は難破して沈みました」
なにやら、すごい旅をして、とんでもない事態に遭遇したようだ。
館に入り、そのまま三人で食堂へ戻った。すでにアールは食事を終え、お茶を飲んでいた。リコの姿にちょっと目を丸くした彼は、この時だけは蛇っぽくなかったけど、すぐに蛇の顔の笑みに変化してしまった。
自己紹介が済み、その間にリコにも料理が出された。しかしパンとバター、練乳、それと生の野菜と果物である。魚を焼いたものは人数分しかなかったし、すでに三人の腹に納まっている。
リコは滞在費を払う、と言い出したけど、それはクロエスが断った。銀には困ってないから、と簡単に言ったけど、クロエスの収入源は僕の中でも謎の一つである。
食事の間にリコのことはいくつかわかってきた。生まれは汗国だけど、各地を流浪してきたという。隊商の一員だったこともあれば、大道芸じみたこともしたり、もっと簡単に荷運びもしたそうだ。女性らしい仕事、と彼女が表現する仕事もあったらしい。
そういうことは全部、アールの質問で明らかになった。クロエスは黙って聞いていたし、僕もアールに任せた。やや癪だけど、僕の会話能力ではそこまでいっぺんには聞き出せなかっただろう。
まだアールは質問が尽きないようだったけど、クロエスに「アールくん、日の高いうちに仕事をしないとね」と釘を刺されたことで、彼は「これは失礼」とおどけて見せてから颯爽と食堂を出て行った。
残された三人で笑い合ったのも束の間、リコが居住まいを正した。
「アルカディオ様、私の剣をお持ちではないですか?」
剣。
曲刀か。
僕が剣を預かったことにうまい言い訳が思いつかないまま、正直に「持ってます」と答えた途端、リコの表情が一段と明るくなった。
それに安心して、僕は正直に謝罪することができた。その謝罪だけで、少しだけ彼女への気負いも薄れたような気がした。
こうして二人目の客人が、館で暮らし始めたのだった。
(続く)