3-5 狭い世界
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早速、館に部屋を確保した翌日、アールは僕を道案内に山に分け入った。
と言っても、僕はこの山のことなら何でも知っていると言っても過言ではないので、道案内以上のことができた。
例えば日がよく当たるところを知りたい、と言われればそこに案内した。
例えば地面がずっと湿っている場所に行きたい、と言われればそこに案内した。
他にも、岩が張り出した崖みたいなところはないか、とか、地面が砂利になっている辺りはあるか、とか、とにかくアールの注文は多岐に渡る。
そのいくつもの要望に僕はほぼ正確に応じることができた。
山を案内するのは薬になる薬草を探すためで、アールはしきりに地面に生えている大小の草、場合によっては苔にさえも注目していた。手で触り、匂いを嗅ぎ、場合によって少しだけ口に含む。
本当に薬を作るには、良い鼻と良い舌が必要らしい。
半日ほど、山の中を行ったり来たりして、昼過ぎに休憩をすることにした。
周囲は鬱蒼とした森で、僕たちは適当な岩に並んで腰掛け、持参した焼き菓子を食べながら、水筒の水を飲んだ。
「あの街にいる薬屋というのは、根っからの商売人らしいな」
そんなことを言ってアールが焼き菓子をこんなところでも丁寧に口に運ぶ。
「この山はなかなか、宝の山だぞ。色々な植物が生えてる。珍しいものさえある」
「つまり薬は作れる?」
「材料は揃いそうだ。少し加工に時間がかかるかもしれない。一朝一夕というわけにもいかないんだ。煮立てたり、乾燥させたり。クロエス殿から受け取った薬草の一覧で、手に入りそうもないものは一つか二つ。しかしそれも念入りに探せばあるかもしれない。こちらもただ半日、探しただけで見つかるわけでもない」
それもそうだ。
僕は剣術を通して、時間を使うことを覚えていた。
短い時間で全てが身につき、全てに対応できるようになれば、それが一番いいんだろうけど、人間は時間の中で技を磨くし、知識を深める。その時間というものを省くことはできない。
天才と呼ばれる人は最初から出来るのかもしれないけど、そんな人間は滅多にいない。
焼き菓子半分ほど残して包み直すアールを見て、彼の指先が少し黒ずんでいるのに気づいた。
草を触って汚れたようでも、泥に触って汚れたようでもない。
僕が見つめているのに気づいたんだろう、これか? とアールがこちらに手を差し出す。やっぱり色が変わっている。
「薬草をいじり続ける中で、変な毒草に触ったらこんな色になっちまったんだ。別に痛くも痒くもないが、不気味だろ?」
「いえ、そんなことは思いません」
「アルカディオ、お前はちょっと坊ちゃんすぎるな」
坊ちゃんすぎる? どういう意味だろう?
さっさとアールが立ち上がったので、僕も手元の包みを元に戻し、立ち上がる。
アールの後について進みながら彼の言葉の意味を考えてみた。
僕は今まで、外部の人とそれほど接してきたとは言えない。アールは初めての、大陸にルーツを持つ他人だ。
市場にいる人たちの一部は大陸から渡ってきた人だけど、どこかアールとは違う。
市場のみんなは、的確な表現かはわからないけど、カル・カラ島という家に住む、大きな家族のようなもの、と僕は思っているところがある。
でもアールはその家に外から訪ねてきた人で、お客さん、になるのかな。
アールは僕を、坊ちゃん、と表現した。
言葉の意味を推し量ってみると、大事に育てられた、という意味かもしれないけど、それはつまり、甘やかされて育っている、と解釈してもいい。
アールが言いたいことは、言葉が最適かはわからないけど、僕が優しすぎる、ということなのか。
僕が相手を尊重しすぎるというような、そういう意味も含めて。
急に自分がどういう人間なのか、気になり始めた。
人に優しくすること、思い遣ることを、僕は当たり前のことと思ってきた。だから優しくしたいし、助けたいし、もっと言えば、愛したいとさえ言えるかもしれない。
逆に、人に辛く当たったり、否定したり、拒絶することは、今までやってこなかった。そういう感情をぶつける相手がいなかったし、そもそも、そういう感情や衝動は間違いだと思っていた。いや、今も思っている。
これはおかしいことなのか。
人間はもっと、好悪を同時に胸の中に収めているものだろうか。
僕ももっと広い世界に踏み出せば、何かを理解して、自分への評価を変えることになるのか。そうでなければ、人間への評価、社会への評価を、変えることになるのだろうか。
アールは本当に多くのことを知っていると、そう思わずにはいられなかった。
彼は一人で生きていると、前日の夕食の席でクロエスに話していた。大陸を放浪し、たまたまカル・カラ島へやってきた、とも。
彼が見てきた世界を、僕は実際にはほんの少しも、一片たりとも知らない。
僕の世界は、カル・カラ島という小さなものしかない。
「アルカディオ、ちょっといいか」
アールの言葉で僕は我に返った。
彼から、木ができるだけ密集しているところを教えてくれ、と言われて、僕は先に立って森の中を進んだ。
結局、その日は日が暮れる頃に屋敷に戻った。二人で洗濯をして、一緒に風呂に入ることになった。誰かと一緒に風呂に入るのは初めてのことだ。
他人と一緒に風呂に入る文化は知ってはいたものの、ちょっとだけ抵抗があった。だけど、アールがあまりにも堂々としているので、僕は流された形だった。
脱衣所で服を脱いだ時、「うわっ」とアールが声をあげたので、僕もびっくりした。
「な、何? どうかしましたか?」
「その体だよ」
そう言われ、やっと自分の体の傷跡に思い至った。
「すごい傷の数だな。剣術の稽古って感じでもないが、どうしたんだ?」
いや、とか、これは、とか言って誤魔化すしかない。
まさか稽古として、殺し合いじみた斬り合いをしていた、とは言えない。もちろん、傷がすぐに癒えることもだ。
「不思議な奴だよ、お前は」
あまりにも僕が狼狽えたからだろう、アールはそれ以上、深入りしなかった。
風呂で体を洗い、十分に温まってからそれぞれに平服に着替えて、夕食の席へ向かった。
食堂に入ると、この日はクロエスが先に席について、珍しく本を読んでいた。僕たちが入っていくと、顔を上げる。そう、彼は本に顔を向けているのだ。眼帯で目は見えないはずのに、まるで目があるような素振りをするのは、ちょっと興味深い。今までもそう思うことは何度もあったけど、やっぱりこの時も、訊ねたりはしなかった。
この世界には不思議なものが多くある。
知らなくていいことも、多くある。
そしてきっと、知って欲しくないこともあるだろう。
それぞれに三人の前に料理が並べられる。魚の揚げ物、ジャガイモのスープなどなど。主食はパンだった。
僕とクロエスが「いただきます」と声を揃え、アールが十字を切り、食事が始まる。
「アールくん、今日の収穫を教えてくれ」
食事の合間にクロエスが声をかけると、アールが例の蛇みたいな笑みを浮かべる。ほんの二日で、僕はそれを不快には感じなくなっていた。そもそも、不快に感じる方がおかしいのだ。
「思ったよりもうまくいきそうです」
そのアールの言葉に、ほう、とクロエスが興味を惹かれたように声を漏らす。
僕はやっぱり黙って二人のやり取りを聞くことにした。
錬金術師と奇妙な薬屋は、この日も専門的なやり取りを交わし始めた。
(続く)