3-1 悪い予感
第三章:少年は出会う
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空気からは強い日差しが象徴する夏の気配が消えた。
まとわりつくような湿っぽさが、静かな、奥行きのある心地よさに場所を譲り、その秋の空気に身をさらして、呼吸を整える。
腰には剣が下がっているが、抜いてはいない。
館の裏手は僕とベッテンコードの激しい稽古の結果、そこだけ地肌が露出し、草の一本もない。小石までいつの間にか消えていた。
そこに一人で立って、風が吹き、周囲の木々が軋むのを意識する。
少しだけ紅葉が進み、地面のそこここに多くの落ち葉が層となり山になっている。
風に舞って足元を枯葉が流れていく。
小さな旋風がぐるぐると数枚の葉を翻弄し、解け、葉は地に落ちる。
ゆっくりと目を閉じる。
ベッテンコードの記憶が蘇ってくる。
様々な相手と剣を向け合い、そして切ってきた。
勢いが先走る若者もいれば、自信に満ちた壮年のものもいる。
腕力のあるもの。俊敏なもの。
大柄か、小柄か。
右利き、左利き。
ありあらゆる武器の使い手が僕の前に立ち、倒れていく。
最後に見えるのは、ベッテンコード自身だ。
繰り返し繰り返し、空想の中の自分とベッテンコードが剣を向け合う。
切ること、切られること。
剣を抜いて、向けた以上、結末は一つしかない。
生きるか、死ぬか。
空想の中ではそれは絶対ではないが、自分が倒れることを思い描くのは、背筋が冷える。
ベッテンコードが僕の前にいたのが、いつの間にか、そこにいるのは誰でもない、僕自身に変わっている。
僕は僕と戦っている。
いや、戦ってはいない。
両者が剣を構え、動かない。
殺せないことを知っている。それが勝負を根本から否定する。
相手が構えを変えるのに、ほとんど同時に僕も構えを変える。
足を送り、円を描いて進む。
真っ暗な世界の中には二人しかいない。
相手が飛び込んでくる。
こちらも飛び込む。
剣と剣が交錯し、二人がすぐそばをすれ違い、跳ねる。
二つの切っ先が弧を描き、閃きが光の尾に変わる。
しかし決定的な結果はない。
膠着。
決着がつくことはない。
僕は僕を知っている。僕も僕を知っている。
僕の身につけている技を、僕の体が繰り出せる技を、知っている。
ああ、そう。
ベッテンコードは僕を前にして、同じことを思ったはずだ。
自分が目の前にいる。
幻ではなく、実際に少年の形をして。
僕は今、何を思っている?
喜び? それとも、反発? そうでなければ、苦悩?
「アルカディオ」
背後から声がして、僕は顔を上げる。
僕は一人だけで館の裏に立っており、今、扉を開けてサリースリーがやってきていた。
ゆっくりと振り返ると、彼女がちょっと眉をひそめた。
「ひどい顔をしているぞ。何をしていたのだ?」
何をしていた?
「立っていた」
答えてから、思わず笑いが漏れてしまった。そんな僕をサリースリーは気味悪そうに見ているが、気を取り直した。
「食事になる」
「そんな時間?」
言われて、周囲がいつの間にか薄暗くなり、空に星が一つ二つ、瞬き始めているのが理解された。さっぱり気づかなかった。サリースリーだって、影の中に見えるのに。
どうやらここに立って、二時間ほどが過ぎていたようだ。そんなに自分が思考と空想に没頭していたのは、僕自身にも不気味に思えるな。
「あまり思い詰めない方が良いぞ、アルカディオ」
そっけない口調の奥には労わる響きがあった。
「別に思い詰めてはいないけど、ありがとう、サリースリー」
不快そうな表情でもう何も言わず、サリースリーは館に入って行った。僕もそれについていく。
食堂の前でやっぱりサリースリーは去って行った。未だに一緒に食事をしようとしない。
食堂の中では二人分の料理が用意され、クロエスの姿はない。
僕は自分の定位置の席で、今は空席で、配膳もされないベッテンコードの座っていた場所を眺めた。
ベッテンコードが病に倒れて、すでに一ヶ月が経過している。
それは突然のことだった。ある朝、食堂へ降りてくることがなく、その時には彼は尖塔の上の自室で、熱にうなされて寝台から動けずにいた。
クロエスは錬金術師で、錬金術師は医療に近い分野を修めている。
能力としては群を抜いている錬金術師のクロエスの手でベッテンコードは治療を受け、その翌日には意識を取り戻したが、動くことは苦しいようだった。食堂まで降りてきたのは三日だけで、それからは自室で食事をするようになった。
もちろん僕の剣の稽古も中止になった。
あれから一ヶ月、僕は一人で剣について考える時間を送っている。
実際に剣を抜いて、構えてみることもある。
相手は幻であり、最初こそ覚束なかったけど、僕は少しずつ幻の輪郭を鮮明にさせることができるようになった。
もしかしたら、ベッテンコードが過去に同じことをしたのかもしれない。
配膳が終わり、僕はクロエスを待った。今頃、彼はベッテンコードに食事と共に薬を与えているはずだ。
料理が冷める前に、クロエスがやってきた。歩調に以前のような余裕はない。どこかせかせかと自分の席に着く。今にも溜息を吐きそうな雰囲気だったけど、彼は笑みを僕に向けて「待たせたね」とだけ言った。
食事になり、僕はクロエスにベッテンコードのことを訊ねた。これは毎日のことだけど、クロエスは嫌な顔一つせず答えてくれる。
「状態が極端に悪くなることはないよ。小康状態というか、現状維持だ。この島では手に入らない薬があるんだけど、さて、どうしよう、というところかな」
「意識はあるんですか?」
「もちろん。寝台の上でのんびり本など読んでいるよ。優雅なものさ。僕やきみが気を揉んでいるのなんて、どこ吹く風なんだよ」
クスクスとクロエスは口元を隠しているけど、僕はそれほど楽観もできなかった。
まだ僕にはベッテンコードが必要だ。まだ教えてもらうこと、この身に叩き込んで欲しいものが多くある。
二人で見たことのない技を、見つけてみたい。
誰も到達していないところへ、踏み込みたい。
「怖いを顔をしているよ、アルカディオ」
言われて、俯けていた顔を上げるとクロエスは眼帯の真ん中あたりを指で指し、「深いシワがある」とからかう調子で言葉が飛んでくる。
僕はなんとか笑おうとしたけど、必死の努力でわずかに口角を上げるしかできなかった。
嫌な予感がする。
でもここ一ヶ月、ずっと予感がしているのだ。
拭いがたい予感が。
(続く)




