2-11 実戦のような稽古のような実戦
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二人の体がすれ違う。
残像を引き連れ、さらに高速機動。
間合いは広がった次には消滅し、また広がり、再度の消滅。
その中を風が切られる音、地面が蹴られる音が一つらなりに連続する。
全身に痛みが走る。
しかしまだ、重傷ではない。
パッとベッテンコードが目の前に飛び込んでくる。
体を捻るものの、彼が突き出した剣の切っ先が僕の脇腹を深く抉るのを防ぐことはできなかった。
もちろん、僕には僕の剣がある。
その刃はベッテンコードの肩の上で静止している。
気づいた時には二人ともが彫像のように動かず、その次に僕がよろめいて悲鳴を押し殺したことで、ベッテンコードの時間も再び流れ始める。
「何度も言っているだろう。自分が重傷を負ってもいいということは忘れろ。剣術とは元来、そういうものではない。今もそうだ。あれではわしとお前は相討ちというところだ」
膝を折って、片手で脇腹の傷を押さえる。溢れ出る血が手を赤く染めるけど、その流れはみるみる細くなり、傷口がもぞもぞと蠢くのがわかる。頭の中で明滅した激しい痛みも消えた。
細く息を吐き、僕は立ち上がる。
稽古着はほとんどが赤く染まっている。
浅手を無数に受けているのだ。肩も腕も、胸も腹も、脚にさえも傷はある。
ただ全てがほんの少しの出血の後にわずかな傷跡を残して完治していくのだった。
「もう一度だ」
ベッテンコードは疲れた様子も微塵も見せず、堂々と剣を構え直す。僕も応じるように切っ先を上げた。
二人が同時に踏み込み、剣が交わされる。
真剣を使った稽古を始めて一週間。ベッテンコードは不服そうに「冗談のような成長速度」と表現したけど、僕にその自覚はない。
僕は全てを知っていると、今は理解出来る。
クロエスとベッテンコードの計画、剣聖の記憶と技能を焼き付ける試みは、成功したのだ。
完全にかは、わからない。
でも僕は剣術というものを知っており、今、ベッテンコードを前にしてやっているのは、剣術や戦闘にまつわる技能その他を実践し、確認していく作業だった。
剣を走らせたいところに走らせる、その技術、経験が情報としてはある。
でも実際にやったことはないから、ベッテンコードを前にして、本当に剣を走らせられるのか、それを確認しているということ。
出来る時もあれば、出来ない時もある。
そうなるとベッテンコードの剣を受け損ねたり、回避に失敗し、僕の体に傷が一つ、また一つと刻まれる。
僕の体の傷は失敗の数で、それは一歩一歩前進している、その足跡のようでもある。
たった今も、ベッテンコードの剣が真下から切り上げてくるのを避け損ねて、腹から胸にまっすぐに切り傷ができる。血飛沫が散って、痛みに集中が乱れる。
その乱れを即座に修正し、連続攻撃の次、さらに次と回避。
次は剣で受け流し、今度は逆襲。
いや、ベッテンコードはそれを読んでいる。
咄嗟に変更。
頭上からの拝み打ちに体の横回転を合わせて、軌道を斜めに強引に変え。
僕の視線とベッテンコードの視線が、刹那だけぶつかる。
読んでいるぞ、という光りがそこにある。
僕の一撃をベッテンコードが紙一重で避ける前、僕はさらに体を回転。勢いのままの水平斬りで間合いを作ろうとする。
それをベッテンコードは剣をまっすぐに立てて受け止めた。
同時に刃に刃を噛ませたまま、派手な火花を引き連れて老人の体躯が突進、僕の胸にその肩が衝突。
軽い体がぶつかったとは思えない、強烈な衝撃に姿勢が乱れる。
どうにか反動を逃したその次には、僕は手首を老人に掴まれている。
しまった、という時には手首を捻られ、僕の懐に飛び込んでいる形のベッテンコードの足が、鮮やかに僕の両足を刈った。
自分の体が横転していくのが緩慢に見える。
まだ返せる。
僕の手首を掴んだままのベッテンコードの手を中心にして、空中で姿勢変更。
手首の拘束を振りほどきながら、宙で回転、宙返りのような形になり足から着地する。
そこへの追撃のベッテンコードの切っ先が鼻先を掠めるけど、なんとか後退に成功する。
止まっていた息が吐き出されると、ぐっと体が重くなる。
「軽業師の真似はするな。剣術比べは大道芸ではない」
憮然とした顔でベッテンコードが言って、自分の剣をちらっと確認している。
さっきの攻防で刃が傷んでいないか、それを見たんだろう。僕も素早く自分の剣を確認する。大丈夫そうだ。
「傷の一つ一つの意味を考えろ。そこにお前の隙があり、敗北があるのだ。死なないとしても、死を意識しろ」
「忘れそうですけど、これって、稽古ですよね?」
「稽古だが、わしも初めてやっている、殺しても構わない稽古だな」
……殺しても構わない稽古は、もはや実戦なのでは?
行くぞ、とベッテンコードが間合いを詰めてくる。
構える間にも間合いを詰められる。
読み合いでは常に負けている。それもそうだ。彼には充分な経験がある。場数が違う。
かといって、膂力や速度、体力、身軽さ、それもまた有利には働かない。
間違いなく僕の方が腕力があり、機敏なのに、ベッテンコードはそれさえも加味して攻め寄せてくる。
彼が身につけた技、隅々まで知っている技だ。力の不足、速さの不足を補う技が剣術には存在するわけで、ベッテンコードは知悉している。
むしろ非力や遅さを挽回するのが、剣術なのだ。彼自身がそう言ったこともあるし、僕の頭の中の一部が繰り返し繰り返し、主張していることでもある。
何合か打ち合った後、僕の首筋をベッテンコードの剣が薙ぎはらった。
かなり深い、と思った次には自分で自分の血飛沫が見えた。
吹き上がる大量の出血に眩暈がする。膝をついて、その膝にはもう力が入らない。
力なく倒れ込み、頬に土のひんやりとした冷たさ、鼻には湿った土の匂い、口には泥の味があった。
何度も死ぬな。
そう言ったのはベッテンコードだろうけど、何重にも反響して聞こえる。
目を閉じて、呼吸をして、まぶたの裏の闇をただ見据えた。
まだ僕は弱い。
容易に死んでしまうのでは、話にならない。
(続く)