2-11 武器
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昼前に館へ戻ろうとすると、館を取り囲む森の中を伸びる石畳の道を進む途中でサリースリーが待ち構えていた。
仁王立ちで、口元に力がこもっている。
「お帰りなさい、家出少年」
つっけんどんな言葉に、僕は笑うしかない。
それにもサリースリーは苛立ったようだ。
「みんな心配している。そんなこともわからないのか?」
「僕は僕だよ」
はっきりと答えることができた。
さすがのサリースリーも、僕の態度とちぐはぐな答えが頭にきたようだ。無造作に歩み寄ってくるとそのまま掴みかかってきた。
サリースリーはその細身に関わらず、意外にも剛力だ。
剛力でも、今の僕には脅威ではない。
彼女の手が僕の二の腕を掴む。
まったく無防備な、直線的な動きだ。
体を捻る動作で動きをいなし、僕の右手がサリースリーの右手首を掴む。
いろんな場面が脳裏をよぎる。
過去の達人の動き。自分が投げられ、また投げられ、さらに投げ捨てられ、それが無数に重なり合って、今がある。
わっ!
サリースリーが空中で悲鳴をあげ、僕は我に返った。
「わっ」
少女を投げ飛ばしていた動きを寸前で加減する。軽い体を引き寄せ、抱き留めるようにして受け止めた。
危ない。危うく背中から叩きつけるところだった。サリースリーが超人的な存在だとしても、無事では済まなかっただろう。僕も加減を覚えないとな。
僕の両腕の中にすっぽりと収まったサリースリーは、まだ状況が理解できていない表情でしきりに瞬きをしていた。
沈黙。き、気まずい……。
サリースリーの目は見開かれ、僕を見る目には困惑しかない。
「どこも痛まない? 大丈夫?」
黙っているのも大変なので、どうにかそう声をかけると、瞬間、サリースリーの顔が真っ赤になる。元から肌が白いから、その朱色ははっきりと見えた。
えーっと、恥ずかしいのかな。特別なことはしていないけど。
バタバタと暴れてから、サリースリーは僕の懐から転げ出ると、まっすぐに立って胸を反らす。そして強く、強く、僕を睨みつけた。
「色男みたいな真似をして、何様のつもりだ!」
「え? 何様も何も、普通だけど」
鼻息を荒くして、サリースリーはイー! と歯を剥き出しにしてから身を翻した。
何なんだ、まるで動物みたいに。
ゆるい傾斜のある石畳をズンズンと進んで上がっていくサリースリーの背中に、僕もついていく。
歩きながら、僕が考えたのはさっきの自分の動きだった。
手を軽く振りながら、何度か動きを検討する。
思ったよりも自然に技を繰り出せた。あの技は、僕が目覚めてから初めてベッテンコードと会った時に向け合った技に似ている。
今、ベッテンコードと投げを打ち合ったらどうなるだろうか。
技の掛け合いになり、相殺されるだろうか。それともどちらかが投げ倒すだろうか。
最初の段階では僕が仕掛ければベッテンコードが投げ返し、ベッテンコードが仕掛ければ僕が投げ返すのは想像できる。
その先は未知だ。
技、術は果てしない道筋の、最初と、途中だけは扱える。
でも最後、結末だけはその時にならないとわからない。
どこかしらに偶然の要素、事故の要素が挟まって、事態はどんな実力を持ってしても収拾できなくなる。
不思議なことにどんな場面も最初はゼロからスタートして、無限に広がり、でも最後には一に収束していく。
その一を自分にとって都合のいい形にするのが技であり術なんだろう。
坂道を上る途中に館がある。玄関にまっすぐに立っている真っ白なローブを着た人物は、クロエスだ。彼は今日も目元を眼帯で覆っている。口元は一本に引き結ばれ、感情を読み取るのが難しい。
それも近づくと、彼がホッとしていること、そして少し怒っているのが読み取れた。
「今朝は、すみませんでした」
何か言われる前に、僕の方から足を止めて、丁寧に頭を下げた。私には強気だったのに、とすぐそばにぶらぶら立っているサリースリーがぼやいている。
なかなかクロエスは言葉を口にしなかった。
「出かけるなら、そう伝えてから行きなさい。これは前にも話したよね」
静かな口調で、クロエスは言った。
僕は少しずつ何もかもが繋がっていく自分の意識を感じていた。
クロエスの言葉は、僕に父という存在を思わせた。
僕には父はいない。でもこの時の僕は、クロエスに父親という存在を重ねていた。
深く下げていた頭を上げると、クロエスの口元に穏やかな感情があるのが目に入った。
「おかえり、アルカディオ」
答えることは簡単に思えた。
簡単なはずなのに、どんな言葉を選べばいいか、それがどうしてもわからず、僕は思っていることを言葉にできなかった。
何か言わなくてはと思うほどに、言葉は見当たらなくなり、ただ「はい」と頷くので精一杯だった。
「朝食は残してあるけど、食べるかい?」
「食べます」
やっと心を縛り付けていた何かが、緩んでいた。堪えきれないというようにクロエスも声に出して笑った。
「食欲があるのはいいね。きみは若いんだから、ちゃんと食べなくちゃ」
冗談でもなく、本気でそう言っているらしい。
でもそれも今は不快ではないし、今までも不快に思ったことはない。むしろ僕はその快いクロエスの態度に、無意識に反発を覚えていた今までの自分を恥じた。
みんな、僕を一人の人間として扱ってくれた。
クロエスも、サリースリーも、ベッテンコードも。
市場の人たちや、チバや、ウドも。
それをもっと大切に、尊いものとして扱うべきなのだ。
おいで、とクロエスが玄関へ僕を導く。
ほんの半日、留守にしただけなのに、いつもの館はいつもの館に見えなかった。
食堂で食事をして、僕はベッテンコードを訪ねた。でも一番高い位置の尖塔の彼の部屋に、その姿はなかった。
少し考え、僕は階段を降り、館の裏手へ出た。
扉を開けると、真夏の日差しがちょうど館で影を作っている空間が見える。
そこに長椅子があり、老人が寝そべっている。いつものように、書籍が顔を覆っていた。
「先生」
声をかけると、返事があった。
「剣術を教えるなと錬金術師から言われている」
それには食事の時、僕とクロエスの間で新しい結論が出ていた。
「教えていただきたいと、僕の方からクロエス先生に願い出ました」
「死にたいのか?」
声はするけれど、ベッテンコードは姿勢を少しも変えなかった。もちろん、彼の顔は見えないし、彼から僕も見えない。
だからこの時、内心を隠しきれない僕が嬉しそうな顔をしているのに、彼は気づかなかっただろう。
「死なないために、技を身に付けたいんです」
返事はない。動きもない。
僕はただ待った。
この偉大なる剣士は、決して僕を蔑ろにしない。
それは僕が彼の後継者だからでも、分身だからでもなく、ただ弟子であるから、という一点で、もう僕を見捨てることはないのだと、そう僕には確信できた。
彼が僕であり、僕が彼であるという部分でも。
それよりも強い思いは、僕も彼を師匠と思っているからこそ、僕たちはもう断ち切ることのできない唯一無二の関係を結んでいるのだ、という発想だ。
師弟とは、親子よりも強く結びつき、分かちがたいものだ。
緩慢に老人の皺だらけの痩せた手が頭の上の書籍を剥がし、上体が素早く起き上がった。
「遠慮はいらん、殺す気で来い」
いつになくギラギラとした目つきで、ベッテンコードが僕を見た。
今、僕の腰には剣がある。食堂で、クロエスが僕に返してくれた。
この剣はただの剣でも、それは僕が誰かを殺すのに十分な武器だ。
ベッテンコードがゆっくりと地面に投げ出していた剣を手に取る。それもまた、僕を殺すのに十分な武器だ。
でも剣を手に取る僕たちは武器ではない。
僕たちは武器を使う存在だ。
相手を殺さずに済ませることができる存在なはずだ。
ゆっくりとベッテンコードが間合いを取る。彼は日差しの中へ踏み込んでいく。僕もやはり光の中へ進み出た。
足を送りながら、僕は呼吸を整えて、姿勢を調整していく。
現状の勝敗は、まだ動かしがたい。
でも未来の勝敗は、動かせるはずだ。
左手が鞘を掴み、右手が柄を握る。
思考が切り替わる音がした。
世界が塗り替えられるのを、目の当たりにした。
でも僕は、僕のままだった。
(続く)




