2-10 今という時間
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夕食の席で、ベッテンコードと改めて顔を合わせた。
彼は無言で僕を見て、いつものように行儀悪く、しかし旨そうに食事をした。
僕はといえば、なかなか料理に手がつけられず、少しずつ、時間をかけて食べた。クロエスは僕が食べ終わるまで席を離れなかった。まるで見守るように。ベッテンコードはあっさりと席を立ったけど。
お風呂に入り、尖塔のひとつの部屋に戻り、寝台でじっとして時間を過ごした。
眠れない。
自分は死ぬも生きるもない、生命ではない存在なんだろうか。
でも岩のように頑丈ではなく、風や雲のように取り留めのない存在でもない。
不思議な感覚だ。
時間だけが過ぎる。
時間さえも僕を殺せないのだろうか。
日付が変わり、夜明けが近づいてくる。一睡も出来ない夜は珍しい。
ふと思いついて、僕は寝台を降りた。身支度を整えて、そっと階段を下りていく。みんな寝静まっていると言っても、この館にはそもそも人の数が少ない。
それでもと裏口から外へ出て、駆け出した。
周囲はまだ真っ暗で、月明かりだけが頼りだ。都合がいいことに夜空に雲はなく、月の光ははっきりとした陰影を地上に落としていた。
斜面を駆け下りていき、岩から飛び降り、また走る。
道に出た。舗装されていない例の道だ。この時にはもう地平線のさらに向こうが明るくなり始めている。
朝が来る。
僕はひたすら駆け続けた。駆けて駆けて、とにかく先へ走り続けた。
海の波の音が聞こえてくる。潮の匂いも漂ってきた。生臭いようだけど、決して不快ではない。むしろどこか懐かしささえある。
目の前に集落が見えてくる。まだ夜は明けていない。
一度、足を止めて呼吸を整えながら砂浜の小舟を見た。ちゃんとそこにある。
ゆっくりとした歩調で集落に入り、そのうちの一軒の戸を控えめに叩いた。
返事があるのでは、と思ったが、返事はなく、ただ軋みながらガタガタと戸が開いた。
そこにはウドが立っている。
僕が何故ここにいるのか、それを不思議に思っても良さそうなものだけど、彼は表情をわずかも変えなかった。ただ、どこかひんやりとした口調で言った。でも、それは僕の体が熱を持っているからかもしれない。
「もう仕事へ行く」
そっけない漁師に向けて、僕は勢い込んで言葉を向けた。
「連れて行ってください」
「素人には無理だ」
「でも」
「話は聞いてやる。待っていろ」
この老人の度量がこの時、不意に理解された。
彼は僕を家の中に入れようとしたが「外で待ちます」と断った。ウドは無言で顎を引き、僕の無礼を気にした様子もない。
彼はすでに身支度をしていた。粗末な作業着を着ている。彼はゆっくりと砂浜の方へ行く。いつの間にか集落では人の気配が強くなり、一人、また一人とウドのように浜辺へ向かう姿が見えた。何の話をしているのか、笑い声が繰り返す波音に混ざる。
あっという間に十人以上の男たちが小舟で海へ漕ぎ出して行った。
僕は砂浜に腰を下ろして、彼らが網を使って魚を採っていく様子を飽きもせずに眺めていた。
太陽が海の向こうに浮かび上がってくる。光の道のようなものが海面に出来上がり、その上では漁師たちはただの影にしか見えない。
周囲が明るくなった頃、小舟は戻ってきて魚が入れられた荷箱が運ばれて行く。市場へ向かうのだ。
漁師の数人が僕を見咎めたが、声をかけてこない。ウドの客人として、最低限の礼儀を示す、というところなんだろうか。もしここにクロエスがいれば、彼らももっと露骨だっただろうとは思う僕だった。
ウドが戻ってきて、僕が立ち上がる横に、入れ違うように腰を下ろした。僕も立ち上がりかけたのを止めて、もう一度、そっと腰を下ろす。
「何の用があって来た」
ぼそぼそとした声に、僕は用意していた言葉を、しかし言えなかった。
僕はウドに、生きていくのが怖い、と、そう言おうと思っていた。
ウドは生きるということをどう思っているのか、教えて欲しかった。
クロエスのような錬金術師ではなく、ベッテンコードのような剣士でもなく、サリースリーのような特殊な存在でもなく、ただの市井の一人の人物が、どういう死生観を持っているのか知りたかった。
でもそれは、聞いても意味がないとわかったのは、この砂浜で、漁師たちの仕事の様子を見たからだ。
ウドを見ればわかることだった。
人はその日を生きる。死ぬも何もなく、生きるしかない。
目の前にあることを、ただこなす。
明日の破滅も、もしかしたら明日の成功さえも、今の自分には影響を与えないのではないか。
僕もやっぱり今を生きているし、明日のことはわからない。
できるのは、明日をより良くすること、それを積み重ねることだと、海と漁師たちを見ていてわかった気がした。
「用事は、その、もう済んでしまいました」
そうか、と老人はかすかに聞き取れる声で言った。
周囲にはもう太陽の光りしかなく、夜の間はひんやりとしていた空気も、夏の熱気を取り戻しつつある。
「今日は」
ゆっくりと立ち上がりながら、ウドがこちらを見やる。
穏やかな瞳の光り方が見て取れた。
「これから魚を市場へ運ぶ。手伝う気があるなら、ついてこい」
僕は自分が満面の笑みを浮かべているのがわかった。
跳ねるように立ち上がる時には、僕を置き去りにするようにウドはもう背中を向けている。
二人で箱が載せられた荷車のところへ行くと、中年の男性が一人、待っていた。漁師の一人らしい。その男性が少し敵視するように僕を見た。口から出る言葉も刺々しい。
「ウドさん、そいつは? 例の錬金術師の仲間じゃねえのかい?」
「わしの友人だ」
音がしそうなほど勢いよく、僕はウドの方を見ていた。やっぱり彼は少しも表情を変えない。どこか疲れた、古木のような落ち着いた表情。
友人。そう言ったのか? 僕のことを?
うろたえている僕に顎をしゃくって、ウドが荷車を示す。
「お前が荷車を曳け。わしたちは後ろから押す」
「分かりました!」
思わず、大きな声で返事をして荷車に飛びついていた。
三人で荷車を市場へ運んだけど、その道すがら、中年男性は僕を認めてくれたようだった。きっとどんどん荷車を先へ進ませたからだろう。力だけは有り余っている僕だった。
「立派なもんだな、坊主。俺はチバだ。お前は?」
彼の方から名乗ってくれたのも、僕には嬉しかった。
「アルカディオと言います。よろしくお願いします」
「アルカディオか。漁師になりたいなら、大歓迎だ。腕力のある奴は貴重だからな」
そんなやりとりもあった。僕にはまた一人、知り合いが増えた。
魚を市場の魚屋に納めてから三人で食事になって、ああ、そうか、館のものには何も言っていなかった、とやっと気づいた。もう朝とも言えない時間だ。僕の不在にみんな、気づいたことだろう。
でも、別にいいか。
自然とそう思えた。
僕はちょっと、いや、だいぶ身勝手かもしれないけど、あの館にいる人だって、みんな勝手だ。そして自分でその勝手の結末をうまく収拾している。
僕だってそれを真似ればいいんだ。
そう思うと、ウドとチバとの三人の食事に気後れはなくなった。
こうして、今まで感じたことがないほど楽しい食事の席は、僕からさらに、終わらないかもしれない人生というものに対する、時間の感覚を奪ったのだった。
それはきっと、救いだろう。
(続く)