2-9 恐怖
◆
クロエスは僕の体をかなり念入りに検査した。
初めて入る部屋に連れて行かれた。その部屋は館の地下にあった。僕はそんな部屋があることさえ知らなかった。
やや湿った空気には薬品の匂いが立ち込めていて、その複雑な臭気には本能的に不安になる。戸棚はどれも年季が入っていて、そして見たことのない装置が収められている。
装置が床にも置かれて、壁際に整列していた。
巨大なガラス製の筒が三つ、並んでいるのが一番、強く印象される。しかし今は空っぽだ。その人間大の円筒の下には機械部品が組み込まれて、幾本かの太い管が別の装置に接続されているのが見て取れる。
綺麗な寝台の上に横になった僕を、クロエスが聴診器のようなもので確認し、次に脈を確認した。それから血液を採取し、何かの薬品と混ぜてから、成分の判別ができるらしい紙の上に液体を何滴か落とした。
そんな具合で、少しの間、僕は寝台に横になってクロエスの様子と、部屋の様子を観察していた。
クロエスが隣の部屋に消え、戻ってきた時には口元に穏やかな笑みを浮かべているのがわかった。僕は正直、ホッとした。彼の態度から、問題ないとわかったからだ。
「どこにも問題ないようだね。健康体そのものだ」
思っていた通りのことを言うクロエスに、僕は一度頷き、考えていた言葉を口にしようとした。
「あの……」
言葉がうまく出ないのは、緊張しているからだ。
「あの、本当に僕はその、首を?」
「見てみる?」
そう軽い調子で言うとクロエスが離れたところにあった手鏡のようなものを持ってきた。
鏡に僕の首元が映る。
……なるほど、本当に傷跡がある。見間違えじゃない。
参ったな……。
「何があったのか、説明できるかい? 何か覚えていることはある?」
柔らかい問いかけに、僕は寝台の上に横になったまま、目を閉じた。
正体不明のものが見える。
それは僕が昔、この目で見たもののように感じるのに、その実感は僕にはない。
記憶はあっても、それは実体験ではない。
「何も見えなくなって」
そう言ってから、正確じゃないのがわかった。
言葉を必死に探した。正確な言葉を。でもそれは容易ではなかった。
「見えないんじゃなくて、何かは見えました。剣の振り方が、急に頭の中に溢れ出して、何も考えられなくなりました」
「自分がベッテンコードさんへ斬りかかったのは覚えている?」
「はい、それは……」
覚えている。
僕は剣を構えているベッテンコードを前に、手に持っている剣を繰り出した。
自分が自分の体を動かしている感覚がなく、まるで過去の自分が今の自分を操っているようだった。
「切れると思った?」
淡々としたクロエスの問いかけは、質問というより確認のようだった。
切れると思っただろうか。
僕は、あの時……。
「切るか、切られるか、どちらかしかないと思っていました」
言葉にしてから、ぽかんとしているクロエスに気づいた。
僕もちょっと驚いていた。
まるで僕が、ベッテンコードみたいな、変な問答じみた言葉を口にしている。
僕が剣を抜いた時、そして切りかかってきた時、ベッテンコードは同じことを考えたはずだ。
僕を切るか、切らないか。
まずその問いかけがあり、刹那で答えは出たと思う。
切るしかない。
僕は自失した状態で剣を振るい始めている。
そこでまた、ベッテンコードは決断した。
本気で切らなければ、自分が死ぬ。
あとはもう、そこにあるのは老人と人造人間とか、師匠と弟子とか、そういう二人ではないという現実だ。
お互いに殺し合う剣士が出現していた。
僕が死ななかったのは、人造人間、それも特別な人造人間であるからで、普通の剣士なら確実に、絶対に、死んでいる。
「ベッテンコードさんもだいぶ慌てていたよ」
気を取り直したクロエスの言葉に、そうですか、としか答えられなかった。
自分を殺しかけた相手を心配するのは、あの人にとっては不愉快だっただろう。
僕を放っておけなかったのは師匠としての不安なのか、自分の複製を自分で破壊した後ろめたさなのか、それは僕には想像するしかない。どちらとも言えないし、それはベッテンコードの個人的な領域だ。
誰もそこには踏み込めない。
僕はベッテンコードの全てを引き継いでいても、ベッテンコードその人になったわけではないと、図らずも理解できた。
「僕も慌てたけどね」
そう付け加えてから咳払いして、クロエスは居住まいを正した。
「僕がきみを作ったのに、こんなことを言うのは身勝手だと思うが、正直、首をはねられても生きているとは、思わなかった」
……笑ってもいいのかな。
「僕は錬金術師として、生命にまつわる技術には他の大勢の人より、密接に関係している自覚がある。でも人造人間の枠をきみは超越している。そもそも生命の基本原則さえも逸脱したと言える。アルスライードと契約し、特別な人造人間を作ったのに、もうきみは僕の手を離れつつあるんだよ」
僕が答えられずにいるのに、すまないね、とクロエスは力ない笑みを見せた。
「自分で自分が怖いと思う時が来るなんて、想像もしていなかった。僕はきみを作ったことで、やはり人の道を外れたんだろう。それまでもだいぶ、道を外れていたけどさ」
「僕も」
答えるのには勇気が必要だ。
「僕も自分で自分が怖いと、思いました。あの剣を抜いた時、何もかもが解放されて……、何もわからなくなって……、剣しか、見えなくなって……」
僕の力ない声が静かな空気の中に散って、消えて、沈黙が降りてきた。
「夕食になる」
そう言ってクロエスが僕に手を差し出す。握って、力を借りて僕は上体を起こした。彼の手はいつになく冷たかったように思う。
上体を起こした僕に眼帯に覆われた目元が向けられる。
「真剣を使った稽古を、まだやりたいと思うかい?」
寝台から降りようとした僕は、そのクロエスの言葉に、少し天を仰いでしまった。
まだやりたいも何も、さっきが初めてだった。
もう一度、剣を手に取った時、僕はどうなるのだろう。
また我を忘れて、目の前にいる相手に襲いかかるのか。
あの時の衝動、思考、行動は、実際には我を忘れたんじゃないと僕は気づき始めていた。
僕に刻まれた本能が、あの瞬間に表出した。
僕自身の静かな凶暴さ、相手を切り殺すことに対する欲求が、行動を生み出した。
どんな相手を前にしても、必ず倒す。
その一念が、心の奥底から僕自身を縛り始めていた。
危険だ。
僕はもしかしたら、剣を手にとってはいけないのかもしれない。
返事ができない僕に、このことはゆっくり考えよう、と声をかけてから、手を引くようにしてクロエスが僕を寝台から下ろした。
手を引いたまま歩き始めたクロエスの動きは、導くようでありながら、お互いにお互いが歩くのを励まし合っているようでもあった。
(続く)