2-8 生と死の狭間
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ベッテンコードはすぐに二振りを剣を手に戻ってきた。
どちらも使い込まれているのは、柄に巻かれた滑り止めらしい何かの皮革の様子でわかる。
「こっちを使え。少し軽い」
この時ばかりは、さすがのベッテンコードも剣を放り投げたりはしなかった。
武器を大切にしないものには、武器を手にする資格はない。
そんな言葉が脳裏で瞬く。誰の言葉だろう。しかし好ましく、心地いい響きに思える。
受け取った剣には剣帯も付いている。腰回りが細い僕だけど、ちゃんと巻くことができた。位置を微妙に加減する。
「少しずれている。ここだ」
膝を折って、ベッテンコードが鞘に収まった剣が来る位置を調整してくれた。
やさしく、丁寧な手つきだった。
思わず視線を向ける僕に、ベッテンコードが射るような眼差しを返す。
「この位置は最も基本的な位置に過ぎない。抜き打ちの技を使う奴は、鞘の位置や角度で工夫したりもする。しかし本来的には、鞘が邪魔にならないように調整するものだ。場合によっては鞘は捨てても良い。場合によってはだぞ」
珍しく回転良くベッテンコードが教えてくれる。
どうもこの老人は剣を振れることが相当、嬉しいらしい。
僕を斬り刻めるのに興奮しているわけじゃないと思いたい。
よし、と鞘を叩き、ベッテンコードが離れる。彼はもう腰に剣を下げている。
「試しに抜いてみよ」
頷いて、ちょっと緊張しながら左手を鞘に、右手を柄に。
手に汗が滲むどころか、背筋を汗が流れていく。
ゆっくりと、確かめるように僕は剣を抜いた。
白刃という言葉は知っているけど、まさに刃は白々と光を反射する。
綺麗に研がれている。
切っ先を掲げて、視線を向ける。
頭の中で何かが弾けた。
視界が真っ白になる。
強烈な光を覗き込んだようだった。
光の中にかすかに見えるのは、何だろう。
大勢の剣士がそこにいる。
無数の剣技があり、剣術があった。
数え切れないほどの稽古の場面が閃き、決死の命がけの勝負が瞬く。
死を覚悟した技が。
死を与える技が。
世界が深化していく。
僕という人間の内側にある、果てしない時間が押し寄せてくる。
飲み込まれる。
僕という人間が失われる。
僕は僕でありながら、別人に変質していく。
他の誰かの全てが、僕の中にはあると確信し。
僕は僕ではなくなり。
「どうした?」
声がする。
僕の声だ。
僕の中に僕が収まり、今、僕の前に僕がいる。
「アルカディオ」
火花が散る。
そう。
僕はアルカディオだ。
クロエスが作った人造人間であり、古の龍のアルスライードの力が宿る、特別な存在。
あの人ではない。
あの人とは誰だ?
「構えてみよ」
僕は何も考えず、何も感じず、ただ剣を構えた。
何も見えない。見えるのは自分と、自分が握る剣と、そして目の前にいる老人。
彼は誰だ?
彼は僕か?
老人の剣が動く。
見える。
返しの刃を繰り出す。
剣と剣がすれ違い。
次には二人の体がすれ違う。
腕が軽い。
左腕を肘で断たれた。しかし右手はまだ剣を握りしめ、両足が地面を蹴りつけ体は反転、老人の背中に襲いかかる。
僕の左手は意思が残っているように剣の柄を握ったまま、ぶら下がっている。それが、変に鮮明に視界に残る。
老人が半身になり、即座に剣が一閃。
首を飛ばしに来るのは読んでいた。
僕だったらそうするからだ。
首をはねようと突き進む剣に、こちらから剣を差し込み、いきなり絡めにいく。
ほんの短い時間だ。
全てを僕は理解している。
そのはずだった。
剣と剣がお互いを捉え、拘束し、ほぼ同時に解き放たれた時、僕の右手はついに剣をもぎ取られた。
死ぬ。
確実に死ぬ。
「愚かなことを」
そう言ったのは、誰だろう。
何故か、遠い過去、僕自身がそう告げたようが気がする。
首筋にひんやりとした感触が走り、僕には何も見えなくなった。
白が一転し、全くの暗闇。
ここはどこだ。
息ができない。
体はすでになく。
ああ。
僕はつまり、死んだのか。
(我が一部とはいえ)
呼びかける声。
思考の外から、音が反響している。
大地が喋っているような、重く、低い音だった。
(死ぬことができぬとは、酷いことをする。いや、我がそれに手を貸したのだ。何かを表明する権利など、我にはないのであろうな)
僕の意識が霧散していく。
感情の色は失われ、意識の明度は黒に支配され、暗黒が世界を覆う。
輪郭が砂が吹き散らされるように消え去り。
次に僕という存在が水が溢れるように漏れ出し。
少しずつ小さくなり、どこまでも小さくなり。
静止。
花が開いたように、記憶が蘇った。
無数の記憶。それに伴う感情。
僕という人間を構成する全てが今、再構築されていく。
(死を恐れよ、模造品。お前は死を恐れねばならぬ)
言葉がいよいよはっきりと聞こえ、僕は返事をした。
「わかりました」
自分の声に驚いて、目を見開いていた。
すぐ目の前にクロエスの顔と、ベッテンコードの顔がある。クロエスはいつもよりどこか緊張しており、ベッテンコードは刹那だけ安堵した顔になったが、すぐに見慣れた不機嫌顔に戻る。
「大丈夫かい、アルカディオ」
ええ、はい。
クロエスの不安げな声にそう答えようとして、喉に何かが引っかかる。咳き込むと、素早くクロエスが水筒を差し出してくれた。
起き上がろうとして、左手がうまく動かないのに気づいた。見れば、稽古着の左袖が肘の部分でなくなり、しかし腕自体はくっついている。くっついていても感覚が曖昧だった。
そう、確か、切り落とされたような気がする……。
右手で水筒を受け取り、水を飲もうとした。途端、口の中に錆のような味が広がる。さすがに飲み込めずに吐き出して、深呼吸してから改めて水を飲んだ。今度は美味しいと言っていい味だった。
そんな様子に、クロエスも安堵したようだ。口元だけでもそれがわかる。
「いったい何が……」
そこまで言って、やっと周囲の光景が理解できた。
いつも稽古をする館の裏の開けた場所だけど、地面に大きな染みがある。
水をぶちまけたように見えるけど、水ではない。水で色が変わるのとは色味が決定的に違うからだ。もっとどす黒い色に地面は変色しているのだった。
クロエスを見やると、彼は神妙な顔つきで言った。
「ベッテンコードさんが、君の首を落とした。わかるかい? きみは一度、ほぼ確実に、死んだことになる」
首を、落とした?
僕は恐る恐る右手で首筋に触れてみた。
くっついている。でも感触で皮膚に盛り上がっている部分があると気づいた。
本当に、首を?
ベッテンコードはすでに少し離れたところへ移動し、まっすぐに立っていた。
僕が視線を向けるのに、何を考えているのか読みづらい顔つき、険しい目元を返してくる。
返答はぶっきらぼうで、吐き捨てるようだった。
「お前がわしを殺しに来た。わしがお前を殺さなければ、今頃、わしが死んでいるところだ」
クロエスが非難するような視線を向けるのにも、老人は強い眼差しを返した。
「クロエス、お前が作った人造人間は、恐ろしい存在だぞ」
言葉を向けられたクロエスは何も言わず、ただ口元を引き結んで、わずかに顔を俯けただけだった。
僕はもう一度、首筋に触れてみた。
ちゃんとついている。
生きている。
しばらく誰も何も言わないところに、館の扉が開き、サリースリーが顔を覗かせた。
三人の視線が自然と彼女に集中し、彼女は不服そうに「揃ってそんな顔で私を見るな」と呟いた。
それで三人ともが呪縛から解き放たれたように動きを再開したけど、僕はクロエスの診断を受けることになり、ベッテンコードは無言のまま自分の部屋に戻っていった。
館の廊下を歩く僕の後ろをついてきたサリースリーが小声で問いかけてきた。
「死ぬってどんな感じなのだ?」
僕は考えるまでもなく、的確な表現を見つけていた。
「超最悪」
僕の言葉に、サリースリーは「であろうな」と笑い混じりに答えただけだった。
(続く)