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剣聖の弟子の冒険  作者: 和泉茉樹
第一部 人形、剣、孤島
24/155

2-7 時間

      ◆


 山の中から飛び出した時、やっと僕は座り込むことができた。

 息を細く吸うのはできても、細く吐くことはできない。一度大きく吐いてしまえば、次はもう細くは吸えない。呼吸しなくては。息苦しさのあまり、意識が遠のきそうだった。

 地面に手をついて、息を吐こうとして危うく嘔吐しそうになる。

 ぐっと息を飲んで、掠れる息を吐き、微かに息を吸い。

 ぐらりと天地が回ったような感覚の後、頬に土の感触があり、一瞬、意識を失っていたのに気づいた。両手を地面につき、力を込めて起き上がると、すぐ横でサリースリーが仁王立しているのが見て取れた。

 腕組みした少女が目を細める。

「まぁ、これくらいやってもらわなくてはな」

 憮然というか、傲然とした声が降ってくる。

「初めて勝てた感想は?」

 サリースリーの冷ややかな顔に、僕はちょっと笑ってしまった。

 強烈な衝撃が顎にあり、次には後頭部が地面にぶつかっていた。

 どうやら蹴りつけられたらしい。顎を。

 殺す気か。顎が何故がグラグラ、いや、ブラブラするんだけど、ちょっと強く蹴りすぎじゃないか?

 この館にいる人は、どこかみんなぶっ飛んでいる。

 顎を支えながら僕が起き上がると、サリースリーはまだ腕組みしてこちらを見ている。

「感想は?」

 何が何でも感想を言え、ということらしかった。

「嬉しかった」

 僕の正直な短い言葉にやはりサリースリーは不愉快そうだけど、でも勝ちは勝ちだし、僕が喜ぶのも当然だろう。

 山を駆け上がり、駆けおりる鬼ごっこは、今日、初めて僕が勝った。サリースリーに触れられることなく、山を登り、下りて、館へ戻ることができたのは想定外の疲弊があったとはいえ、充実感も伴っていた。

「これでもう私の役目も一つは終わりだな」

「え? もう明日からはやらないの?」

「ベッテンコードが時間を欲しがっているのを聞いていないのか?」

 二人で訝しげな顔を見合わせてしまった。

 何も聞いていない。

「ベッテンコードさんが、時間を欲しがっているって、どういうこと?」

 忌々しげに、サリースリーが視線を送った先は、ベッテンコードの住む尖塔のある方だった。

「あの老人はな、お前に剣術を教えたいのだ。自分の全てを伝えたはずが、それがうまくいかなかったのに苛立っていたのが、ここ数日、また気力を取り戻しておる」

 数日といえば、例の三つの太刀を教えられてからだ。

 確かにここ何日か、徹底的に打ち据えられることが増えた。本当なら全身に打撲どころか骨折がいくつもあってもおかしくない。それが、僕の体が特別だから怪我がないだけだった。

「あの老人はな、クロエスに対して、お前との稽古で真剣を使いたいとも言っていたぞ」

 これには本当にびっくりした。

 真剣って、つまり相手を切れる剣を訓練で使いたい、ということなのだ。

 僕がまだ未熟だから、ベッテンコードが傷を負うことはほとんどないはずだ。

 しかし僕は違う。

 ベッテンコードが本気で切りかかってきたら、僕には対処できない場面ばかりだろう。

 いつか、彼の手刀が僕の腕を落としたことがあったな、と思い出した。あの時、ベッテンコードは実際には僕の首をはねに来た。それを僕が防いだから、腕が飛んだだけで済んだ。直感、本能のなせる技だったけど、ほとんど偶然に近い。

 いずれにせよ、あの場面が象徴するのは、ベッテンコードの容赦のなさだ。

 真剣を持っていても怪我をさせないでおこう、などと思ったりはしないはず。

 躊躇いなく、切りつけてくる。

「なに、怖がることはないぞ」

 サリースリーはこちらに向き直ると、不敵な笑みを浮かべている。

「どうせお前は死なん。剣術など不要なほど、その体には能力があるのだ。私とはしては、むしろあの老人の方が不安なほどだ」

 え? なんだって? ベッテンコードに、不安?

 僕が死なないのはいい。たぶん、事実だ。どこまでやっても死なないとは思わないし、試したくもないけど、死にづらいのは本当のことだ。

 それよりもベッテンコードが不安とは、どういうことだろう。

「お前はよく分かっていないかもしれないが、人間とは老いていくものだ。体は衰え、回復は遅れ、少しずつ力は弱くなり、感覚は鈍る。それが人の定め、生命の定めだ」

「でも、まだ……」

 僕の言葉が続かないのは、サリースリーの言っていることが真実だとわかっている僕もいるからだろう。

 僕が目覚めて数ヶ月。

 僕の数ヶ月は、ただの数ヶ月と言っていい。疲れること、疲れ切ることはあっても、回復は十分だし、それよりも技術が次々と自分のものになるので、上昇以外のものがほとんどないということもある。

 でもベッテンコードは違う。

 彼はすでに七十年を生きていて、それが元気いっぱいの僕を相手に、半日は棒を振り合っているのだ。僕よりも彼の方が疲れるだろうし、そもそもの身体的な能力に差がある。

 今まで、ベッテンコードの体調のことは、僕は少しも考えなかった。

 彼は超一流の剣士で、達人で、無敵だった。

 それがいつか、倒れるなんてことがあるだろうか。

 巨木がやがて倒れるように?

 それはいつだろう。わからない。わかるわけがない。

 急に僕の中で何かが駆け巡り始めた。

 これは、焦りだろうか。

 真剣をとって向かい合える時間はもしかしたらそう長くはないのかもしれない。

「真剣の話は、クロエス先生はどう答えたの?」

 僕の問いかけに「もちろん、先送りだよ」と少女が頷く。その顔に怪訝なものが浮かぶ。僕が言おうとしていることを先読みしたんだろう。

 彼女が渋い顔で何か言おうとした、ちょうどそこで、館の裏に通じる扉が開いた。

「なんだ、今日は早いな」

 そこには当のベッテンコードが立っていた。

 鼻を鳴らして、言葉を飲み込んだサリースリーがつかつかと歩み寄っていく。何か言いたげだったが、彼女はベッテンコードの横を無言ですり抜けて、館の中に消えていった。

 彼女の背中を肩越しに見送り、「女の気持ちはわからん」とベッテンコードが唸るように呟く。

 僕は立ち上がって、彼の前に進み出た。

「ベッテンコードさん、いえ、ベッテンコード先生、お話があります」

 なんだ、と老人がこちらを見る。うざったそうな、苦り切った顔だった。

「真剣を使った稽古をしたいと、そう聞きました」

「あの娘にか? 何を聞かされた?」

「いえ、ただ、剣術の稽古の時間を長く取りたいこと、真剣を使いたいこと、それだけです」

 眉間にシワを刻んだベッテンコードの視線が僕を射抜く。

「やめて欲しいか?」

 僕は首を左右に振った。

「ぜひ稽古をつけてください。お願いします」

 僕が彼の望む通りのことを希望しているはずなのに、まだベッテンコードは不服そうだった。

「手加減などせんぞ。容赦なく切っていく。それでも構わないのか?」

「死ななければ、構いません」

 そう言ってから、いや、切りつけられたら痛いだろうなぁ、それも凄く、と思い至った。

 あまり酷くしないでください、と言葉を付け足そうとした僕だけど、悪魔のような笑みを浮かべて「面白くなってきた」とベッテンコードが呟いたので、背筋が震えるほど怖くなってもう何も言えなかった。

 剣を持ってこよう、と足早に老人は館へ戻っていった。

 いつになくウキウキとした足取りに見えるのは、気のせいだろうか。

 なんか、ものすごい失敗をした気がする……。



(続く)

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