2-5 四本の聖剣
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夕食の後、僕はクロエスの書斎の一つにいた。
いつか、地図を見せてもらった部屋だ。その地図は今はしまってあって、別に魔法に関する図形が描かれた表がかけられていた。
「昨日の復習から始めよう」
椅子にゆったりと腰掛けて、目元を眼帯で隠した錬金術師は、そっと紅茶の入ったカップを手に取った。
「魔法とは自然現象の励起であって、それ以上のことは起きない。つまり、炎を呼び出せるのは例えば落雷で火が上がるのに似ている。ささやかな雷が火炎の魔法の基礎になる。このようにして魔法は分解できるんだ」
「雷を人間が起こせるなんて、信じられませんけど」
冗談でそう口にしてみると、クロエスも笑っている。
「そこが魔法の不思議なところ。水を自在に操る魔法使いがいるけど、彼らは水が高い方から低い方へ流れるのを意識するんだよ。頭の中だけの、仮想の高低差で水を操るんだね。他にも重力を操るものは、自分がこの大地に押さえつけられる力から魔法を起動する。ま、重力っていうのは最近の学問の結果で、以前はただ動きを意識したようだけど」
人間の中でも稀にしかその素質を持つものが生まれないという魔法使いは、奇跡の使い手でありながら、常に研究対象とされ、今では科学者がその謎を解明しようと躍起になっている、というのがクロエスの表現だった。
しかし、とある時、クロエスは心持ち胸を張るようにして明言したことがある。
「魔法というのを掘り下げると、ある部分までは解剖できる。でも最後の最後の部分は、理屈じゃない。それは神ならぬものが人を生み出せないのに似ている」
言葉では表現しなかった、クロエスの言いたいこと。
自分もまだ神には到達していないという事実から来る意欲と、ある種の希望。
まだ切り開かれていない領域があるというのは、クロエスとしては嬉しいだろうと僕は想像した。
もう一方では、では僕は人ではないのか、とその時だけはさすがに考えていた。人が生み出した僕は、人ではない、か。
少ししてから考えがたどり着いたのは、もしかしたらクロエスは人と表現されるものと、人造人間の間に明確な区別をしているのだろう、という発想だった。
人と人の間で生まれ、人の腹の中で育ち、この世に生まれおちるのが、人。
人造人間は、それとは違う生まれ方をする。
考えても仕方ない、といつものように僕はこの問答、観念の渦への回答を先送りにした。そんな風に先送りしたまま、気づくと短くない時間が流れているのだけど。
その時のことが今、魔法の講義を受けながら思考を掠めたけど、目の前に集中して僕は無視するように努めた。
「魔法を解体していくのは、その弱点を探るには合理的だけど、効率的ではない。アルカディオ、理由はわかるかな」
師の言葉に、僕はすぐに答える。
「魔法を理解するのに、一から分解しているのでは対処が遅れる、ということですね」
「うん、そういうこと。もちろん、研究の場ではそれが正道だ。でも実戦的な場面では魔法の解体からその弱点を探し、無力化する余裕は時間的に生じない」
クロエスが話している魔法の講義は、あけすけに言えば魔法戦闘に関する講義だった。
どうしてそんな話をしなくちゃいけないのか、根本的な理由をクロエスは僕に教えてくれない。でも詳細に知らない僕でさえ、クロエスが逃亡生活の中で魔法によって戦ったのは容易に想像できる。どうやら彼は剣を使わない、というか、使えないのだ。
僕が剣術をベッテンコードから習っているのと関係があるかは知らないけど、クロエスは僕にまず、魔法への対処法を教えていった。何もしていない僕が、魔法使いと戦いになるなんてことが起こりうるのだろうか。そうも思うけど、講義はそれなりに楽しく、充実感があるので、やめたいとは思えない僕もいる。
この夜のクロエスは、火炎の扱い方と、その発動の手法をいくつか、実際に見せてくれた。
壁にかけられている振り子時計を見遣ったクロエスが「ここまでにしよう」と言った時には、すでに二十二時になっている。
「アルカディオ、昼間はどんな調子だい?」
テキスト代わりの資料の束をまとめていると、紅茶を新しくポットからカップへ注ぎながらクロエスが質問を向けてくる。
「サリースリーには負けっぱなしです。前半はなんとかなるんですが、彼女の身のこなしは常識を超えています」
「あの子も人ではない、人造人間だしね」
「それだけですか?」
サリースリーに関してはこの数ヶ月で、僕はさすがひとつの解答を、確信を持って胸中に持っていた。
でもまだ、僕の推測は誰にも言っていない。
今、クロエスを相手に言っても良かったけど、「彼女本人に言ってあげなよ」とクロエスは簡潔に躱すようなことを言って応じたので、僕は「そうします」と笑って答えることを選んだ。クロエスの態度は、言葉にしないでも正解だと教えてもらえたようなものだ。
「ベッテンコードさんとの稽古はどう?」
「自分が生きているのが不思議です。あの老人は、その、殺す気で向かってきます」
答えながら、もう治癒したはずの右肩が痛んだ気がした。反射的に肩を少し回していたけど、もう痛みはしない。なんともない。
僕の何気ない動作の意味を察したのだろう、困ったように苦笑して、クロエスが楽しそうに指摘した。
「それでもベッテンコードさんはだいぶ手加減していると思うよ」
「だったら僕には、本気になったベッテンコードさんの相手はとてもできません」
「でもね、少なくともあの老人は純粋な剣士だよ。剣術を極めているんだ。そして僕が知る限り、剣聖で唯一の純粋なる剣士だな」
話が興味深い方へ転がった。僕は思い切ってそこに進んでみた。
「他の剣聖は魔法を使うのですか?」
「そうだよ。それぞれに得手不得手があるけど、その上で聖剣の加護を受けているよ。剣術の腕だけでも優れたものが聖剣を持つ立場になるのに、さらに桁外れの魔法を使ってくるから、剣聖っていうのは特殊な上に特殊、強力な上に強力だ」
そうなのか。
ベッテンコードがそんな人たちに剣術だけで伍するとすれば、それはそれですごいな……。
僕の心境に気づいたのか、クロエスの方でも話に興が乗ってきたようだ。
「聖剣というのは四本ある。まず自然現象全てを支配する「天地剣」、生命の生死を司る「生死剣」、時間の流れを操る「位相剣」だ。この三つは、もし相手にするとすれば最大限の注意が必要だ。はっきり言って魔法などと言えない、異常な奇跡を持ち主に与えるから」
自然現象はともかく、生死や時間を操る、と言われてもすぐには想像できない。
それはもう、無敵なのでは……。
クロエスは可笑しそうに笑っていた。
「この辺りが、聖剣がこれからあるかもしれないと予想されている、魔物の再臨に対抗するための決戦兵器である、とされる所以でもある」
「魔物の再臨? 決戦兵器?」
「そういう伝承だね。しかしあの奇跡の業を見てしまうと、遥か昔、魔物と人間が争った時にはもっと多くの聖剣がこの世に存在した、という話も現実味があるというものさ」
カップを口元へ運び、クロエスの口元に不敵な笑みが浮かぶ。挑戦的で、強気な笑みでもあった。
「でもね、四本目の聖剣が一番すごいんだ」
そうか、天地剣、生死剣、位相剣で三本で、一本、残っている。
「どんな力があるんですか?」
「聖剣を破壊できる」
「えっ……?」
だからね、とクロエスが微笑む。
「この世界で最強と言っていい聖剣を破壊できる聖剣が、四本目の聖剣、「破砕剣」なんだ」
意外というか、不思議だった。
カップから紅茶を啜りながら、クロエスは飄々と答える。
「魔物は魔剣という形でこの世に現れるとされる。聖剣と対になる、同様のものらしい。つまり、天地剣も生死剣も位相剣も、魔剣に対抗する脇役で、魔剣を本当に破壊するのは破砕剣の役目になる。というか、破砕剣以外は魔剣を破壊できないという伝承がある」
訳がわからない、というか、思考がうまくまとまらない。
聖剣とはいったい何なのか。
聖剣がこの世界に存在する理由とは、どこにあるのだろう。
「魔剣の話は伝説さ。覚えておけば、いつかどこかで役に立つかもね」
クロエスが話を終わりにしようとしたので、僕は絶対に聞いておくべきことを慌てて質問した。
「ベッテンコードさんの持っている聖剣って……」
そうなんだ、と今度ばかりはクロエスも心底から困った顔をした。
「あの方が持っている聖剣こそ、破砕剣なんだよね」
(続く)




