1-1 記憶喪失者
第一章 そして少年は目覚める
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目が覚めた。
夢を見ていた。でも、もうその夢の痕跡は少しもない。
まるで潮が引くように、僕の思考の中から全てが消えていき、そして戻ってこなかった。
「ここは……」
体を起こす。大人用の寝台と、白いシーツ。少し肌寒い気がしたけど、次には空気が熱をはらんでいることに気づく。
視線を窓へ。レースのカーテンを透かして、日光が床に落ち、一部は寝台の上まで伸びていた。
眩しい。
手をかざす。華奢な手だ。それに綺麗。
これが自分の手か?
自分?
ゆっくりと室内を見回す。部屋はそれほど広くないけど、家具が僕が寝ている寝台以外、何もなかった。床は木製で、よく磨かれて黒く滑らかな表面をしている。壁は白い壁紙。そう、壁紙、漆喰ではない。
見覚えがある気がしたけど、ないような気もする。
ここはどこなんだ?
無意識に自分の体に触れていた。そんなことをしなくても、僕は僕だし、僕の体はここにあるんだけど、不思議だ、どこか自分が自分じゃないみたい。
全体的に肉付きが薄い。軽い体だ。
そっとシーツをめくる。僕はどこかの病院の入院患者のような白い服を着ていた。シミひとつない、上等な肌触りのそれをそっと撫で、次にゆっくりと動作を確かめるように寝台を降りた。
立てるのか、と意味もなく思ったけど、立てないわけがない。
自分の足で立っても、改めて自分の体を確認する僕だった。
肌は一度も日に当たったことがないように真っ白。うっすらと血管が透けて見えるほど。上背がそれほどない、子どもだ。手を開いて、握る。まるで関節が軋んだように、かすかな痛み。
ずっと眠っていたのかもしれない。
でも、ずっとって、どれくらいだろう。
部屋には扉が一つ。
出入り口はそこしかない。窓から出られるかもしれないけど、一階ではない感覚。
扉に歩み寄り、輝く金属製のドアノブに手を伸ばす。
それが僕の手が触れる前に回り、開いた。
僕はといえば、呆然とそれを見ていた。
扉を開けて入ってこようとした人物が、足を止める。
僕が目を見開いたように、彼も目を見開いたかもしれない。
眼帯の奥に目があれば、だけど。
目元を隠した長身の男性が口元を微笑みの形に変える。優しげで、穏やかな微笑みだった。
「おはようございます。お体の調子はどうですか?」
男性の言葉にきょとんとしてしまうのは無理もないことだ。
なんでそんな丁寧な言葉を使うんだろう……? 僕みたいな子どもに?
何も言えず、しかし何かを考えようとしても、全部、手のひらをすり抜けるようだった。
男性が笑みを浮かべていた口元が、ちょっとずつ元に戻って行き、最後に彼は首を傾げた。
「お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
それはなんというか、目の前にいる人物が知人かどうか、確認するような口調だった。
知人でもなく、初対面の僕としてはこの時、それ以上に返事に困る事情があった。
自分の名前がわからない。
「名前……」
思わず呟いてしまってから、気づいた。これじゃあまるで、名前がわからないと言っているようなものじゃないか!
眼帯の男性は少し口元を歪めて、ため息を吐いた。
こんなことがあるかな、と聞こえるか聞こえないかの声が彼の口から漏れる。
「名前がわからないんだね?」
次にはもう、男性の表情は明るいそれに戻っていた。
ホッとできないのは、彼がいくら僕に優しさを見せても、それで僕のこれまでの記憶や、そもそもの個人的な背景が何かわかるわけではないからだ。
僕は誰で、どうしてここにいて、目の前の男性は誰で、僕とどんな関係なんだろう?
「すみません」
やっとそう答えたけど、誰に謝っているんだろう?
そもそも悪いことなんてしていない……。
「とりあえずは座ろう。立ち話というのもなんだし」
眼帯の男性が滑るように室内に入り、まるですべてが見えているように、そっと僕の手を取った。柔らかく、暖かく、しなやかな手だった。まだ名前を知らない男性は自分も寝台に腰掛けながら僕を横に座らせた。
「僕の名前は、クロエス。覚えている?」
クロエス……。
「いえ、その……」
正直に言うしかない、と僕が決めるまで、クロエスと名乗る男性は嫌な顔一つせず、待っていてくれた。
「覚えていないんです」
うん、と頷くクロエス。
「何を覚えているか、教えてもらえるかな」
またも答えるのに勇気が必要な問いかけだった。
答えられる内容は一つしかない。
不安、そして恐怖の中で、僕はゆっくりと息を吸い、言葉にした。
「何も、覚えていないんです」
「何も? ここがどこかも?」
「……はい」
ふむ、とクロエスは一度、かすかに頷いて、次に、なるほど、と深く頷いた。
その表情には少しの真剣さと、僕を不安にさせないためだろう、懐の深さを感じさせる余裕があった。今の僕には、彼を頼る他に無さそうだった。
「まず、ここの説明をしよう。ここは大陸の南、海の中にある島、カル・カラ島だよ。そして僕はそこで生活する錬金術師だ。訳あって、こんなところにいるんだけど、いずれ、教えよう」
カル・カラ島といわれても、全く想像できない。大陸は陸地で、島は海の中の小さな陸地だろうけど。
でも、錬金術師というのはなんとなくわかった。
錬金術とは科学と同じく学問の一種で、生活に根ざした技術。そして錬金術師はその技能者、ある種の専門家。
あれ? そんなことをなんで僕は知っているのだろうか?
ついさっきまで、何も思い浮かばなかったのに……。
不意に言葉とそれが示す知識が繋がった感じだった。
エクロスの口元に柔らかい笑みが浮かぶ。
「その様子だと、記憶が全くないわけではないらしいね。そもそも君は大陸語を話している。つまりそれくらいは頭の中に残っているか、あるいは入っているけどまだ上手く引き出せていない、ってことだよ」
はあ、としか答えられなかった。
頭の中に入っている? でも僕は、どこからここへ来たんだろう? これまで、何をしていたのか。そういう今は思い出せない全てが、いつか、思い出せるんだろうか。
思い出したいと思う一方で、それが怖い気もする。
何故、怖いんだろう?
何を恐れているんだろう?
「まずは食事にしよう。ついておいで」
身軽な動作で、クロエスが立ち上がる。僕も慌てて立ち上がった。
さっき寝台を降りた時より、僕はしっかりと自分の足で立ち上がっていた。
ふらつくこともなく、一歩を踏み出したのだった。
(続く)