2-2 遊びのような
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山の中を必死に駆ける。
必死と言っても、もう慣れている。岩や樹木の配置、地面の起伏や状態、全てが頭に入っていた。石の一つがちょっと動いているのにも気づけるし、天候による泥濘の程度さえも把握できた。
後方から追ってくるのは、サリースリーだった。
彼女の身体能力は僕をはるかに超えている。
「疾く逃げよ、アルカディオ! また私の勝ちになってしまうぞ!」
背後からの声が急接近!
手近な木の幹に手を引っ掛けてぐるりと反転して、百八十度、針路を変える。
僕の背中をかすめていったのはサリースリーの手だった。
舌打ちをした次には、僕の視界の端でサリースリーが木の幹を蹴りつけ、宙をこちらへ渡ってくる。
人間に許された身体機能の限界を超えている。
まるで翼が生えているようだ。
もっとも、空中での姿勢の制御がどれだけ限界を超えても、法則には縛られる。
僕は這うような姿勢で地面を蹴り、低空飛行から地面を手で突いて横移動。
背中から泥濘に突っ込んだけど、サリースリーの追撃は回避できた。
立ち上がった僕の前に、さらに一本の木を蹴ってからひらりとサリースリーが着地する。
「勝った方が洗濯をするとは決めたが、服を派手に汚すのは違うのではないか?」
不服げな人造人間に、僕はちょっと肩をすくめて見せる。
「でも僕が負けたら、僕が洗濯するわけだし。もしかしてサリースリーは自分が負けると思っている?」
「言うではないか。これまで一度も負けたことがないのは、お前ではなく私だぞ」
今いる地点は斜面を登った先で、ちょうど折り返し。
阿吽の呼吸というのか、二人同時に動き出す。ここまでは斜面をひたすら駆け上がってきたが、今度は駆け下りる。
僕に飛びつこうとするサリースリーの横をすり抜け、岩を蹴り、宙を行く。着地してもすぐに跳ねる。駆け抜けるより跳び渡る方がはるかに効率がいい。
まぁ、事故も起こるし、危険この上ないけど。
岩から岩へ跳び、次には木の幹を蹴りつけて斜めに移動し、今度は地面を蹴ってと、撞球の玉のように跳ねて行く。ちなみに撞球は館でたまにクロエスとやるけど、彼は圧倒的に強い。
かすかな気配に、木の幹を蹴りつける角度を変え、斜め上に跳躍。
僕の後を追うように飛んできたサリースリーが、木の幹に着地。勢いを利用してほんの一瞬、そこに留まる。
僕は頭上の細い木の枝を掴んでいた。頼りないのも構わず、足を振ってぐるりと回転、体を木の枝の上へ。
しまった、と思ったのは半分は直感、半分はサリースリーの意地の悪い顔が見えた時だ。
彼女の手が打ち振られ、何かが空気を割く音。
僕と彼女の追いかけっこは、怪我をさせることは禁止されている。
でもそれは逆に言えば、怪我さえさせなければ何をしてもいいのだ。
サリースリーが放った拳大の石が、まさに今、僕が足場にしようとしている木の枝を過たずに直撃し、盛大に木片を散らしながらへし折れた。
空中で姿勢を取り直し、きわどいところで着地、衝撃を殺すために体を転がしてまた泥濘に飛び込んでいた。
口の中に入った泥を吐き出して文句を言おうとしたが、相手がいない。
どこに……。
「私の勝ちだな」
背後からの声に振り返るより早く、頭を叩かれていた。
結局、今回も僕の負けだった。
この追いかけっこを始めたのは一ヶ月ほど前で、もう三十回以上やっているのに、一回も僕が逃げ切ったことがない。それでもここのところは斜面を上がる間はなんとか、凌げるようにはなっている。
「さっきのは卑怯じゃないの?」
「上へ逃げるのが愚策。空中では身動きが取れまい。だから私はお前の足場を奪ったのだよ。一つ、また学んだな。覚えておくようにせよ。ほら、立て、帰るぞ」
横柄な少女がそれでも優しさからか手を差し出してくるので、掴んだ。
次には引きずられ、返され、僕は背中から泥水に叩きつけられるように落ちていた。
「はっはっは! 弱者とは惨めなものだのぉ!」
少女の足が僕の腹を踏みつける、というか、踏みにじり始める。
……優しさなんてそもそもなかった。
この一ヶ月、似たようなことが何度もあったのに、どうやら僕はそれを学習できていないらしい。
足を跳ね除けて、泥でもぶつけやろうかと思ったけど、小柄な体は高笑いとともに斜面を高速で去っていった。
逃げ足ばかり早いんだよなぁ。
僕はまた口の中に入り込んでいる泥、土を吐き出して、できるだけ急いで斜面を降りた。
サリースリーとの遊びは、準備運動に過ぎないのだ。
館の裏手にたどり着くと、そこにいつの間にか用意されていた長椅子に、老人が寝転んでいる。顔には何かの書籍が乗っかっていた。
僕が戻ってきたことがバレませんように、と足音を消して横を抜けようとしたものの、ベッテンコードが低い声を発する。書籍のせいもあってくぐもっているけど、目と鼻の先なのだ、聞き取れないわけがない。
「さっさと着替えてこい。十分待つ」
「は、はい!」
僕は大慌てでとりあえずの泥を体から落とし、洗濯場に駆け込んだ。
服を着替えて、後で洗うことにして新しい稽古着を身にまとうと、ブーツも新しくして館の裏手へ駆け戻った。
ベッテンコードはさっきと同じ姿勢で長椅子に寝そべっている。
それがゆっくりと起き上がり、欠伸などされると僕としては恐怖しかない。
「十三分だったな」
唸るような声にどう答えようか迷っているところへ、棒が投げつけられる。剣に見立てた棒で、どんな材料を使ったのか、重さもあるけど、とにかく恐ろしく硬い。打ち合わせると耳が痛くなるような甲高い音が鳴る棒だった。
僕が反射的に棒を構えた時、すでにベッテンコードも真っ直ぐに立ち、同じ棒を構えている。
棒を持つと、気持ちが切り替わるようになってきた。
心が凪いだように、静かになる。
周囲のことが少しだけ鮮明に見えるようになり、音は遠ざかり、空気は静止する。
そして少しだけ、気温が下がる。
緩慢に、ベッテンコードが動き出す。
対応しようとした瞬間、彼の体が霞み、僕は身を投げ出しながら棒を繰り出す。
真横に立っていたベッテンコードが突き出した棒と、僕の手の中の棒が衝突。
澄んだ音とは裏腹に、僕の両手にビリビリと痺れが走る。
地面に転がり、また口の中に土が飛び込んでくる。
こればっかりだ。
起き上がるところへ、もうベッテンコードが飛び込んできている。
受けることも、避けることもできない。
棒が僕の首筋を打って、何か、決して鳴らしてはいけない音が鳴った気がして、それを最後に僕は意識を失った。
(続く)