2-1 狭い世界の彩り
第二部:少年は駈け出す
◆
僕はカル・カラ島の港の周囲に広がる市場を歩いていた。
「やあ、アルカディオ! 質のいい茶葉が入っているよ!」
茶葉を商う店の老婆が威勢のいい声をかけてくる。僕は足を止めて、籠に盛られている茶葉の様子を確認してみた。見て、触って、匂いを嗅いでみて、なるほど、いい具合じゃないか。
「いつもの袋で二つ、もらえるかな」
「毎度あり。あんた、ここへ来るたびに男前になっていくね」
からかい半分の言葉に笑みを返して、老婆が茶葉を麻を編んだ小さな袋に入れてくれる。
「おまけしておくよ、ほら、どうぞ」
「どうもありがとう」
小さな銀の粒と交換で受け取った袋を腰に吊るして先へ進もうとすると、「アルカディオ!」と呼び止められる。そこは果物屋だった。
「やあ、元気そうだね」
こちらから声を返すと、中年の恰幅のいい店主が「うちの商品を食べればみんな元気さ!」とハキハキ答える。
棚を見ると赤、黄色、紫、様々な色合いの果物が並んでいる。
「この橙の籠ひとつと、このぶどうの籠、それを後で館に届けてもらえる?」
「はい、どうも! アルカディオはクロエスより気前がいいな!」
「まさか。僕はただのお遣いだよ」
銀の粒を渡すと、店主が捧げ持つ動きをする。
そのまま僕は先へ進み、魚屋で足を止めた。
「こんにちは、サバさん」
店主が魚をさばいている手を止めて、笑顔を向けてくる。
「アルカディオ! 元気にしているか?」
「もちろん。今日は何が入っているかな」
「でかい鯛が三匹ばかり、入っているよ。お値打ちだよ」
「じゃ、それを貰うよ。捌かなくていいから」
魚の切り身をどんどん作っていっていた店主のサバが手を止めてこちらを見る。
その顔には嬉しそうな満面の笑顔がある。
「つい一週間前、お前がウーナ食堂の厨房で働いていると聞いたが、もうその仕事は辞めちまったのかい?」
「働いたわけじゃないよ。ちょっと手伝って、料理を教えてもらっただけ」
「何日、修行したんだ?」
サバがからかってくるのに、僕は乗ることにした。
「ほんの二日だけ。仕事はまるで覚えられなかった」
「そりゃそうだ。俺なんて毎日魚を捌いて、それをもう十五年は続けている。それなのに親父の手際には敵わないんだから」
「経験っていう奴は偉大だね。僕も努力するよ」
そんなやり取りの後、爪の先ほどの小さな小魚を塩茹でしたものがあったので、それも頼んだ。
銀の粒で会計している時、「そういえば、預かっているものがある」とサバが奥に行き、小さな壺を手に戻ってきた。
「ウドの親方からの預かり物だ。お前に渡せってね。いつもの奴だ」
「ありがとう」
僕は壺を受け取ってから、腰の茶葉の袋をひとつ取った。
「お礼ってことで、これを今度、ウドさんが来たら渡しておいて欲しいんだけど、頼めるかな」
またサバの表情にいたずらを仕掛ける色が浮かんでいる。
「お前と親方の間を取り持つのが、俺の役目ってことはないと思うんだがね。直接に訪ったらどうだい」
「物事には建前が必ず必要らしいよ」
「そりゃ、クロエスの言葉かい?」
「今、僕が勝手に作っただけ」
やられたな、と笑いながら、サバは袋を受け取った。それから彼は頭上を見上げるそぶりをした。
「しかし今年はいやに暑いな。お前は初めての夏だったっけ?」
「うん、そう。そんなに暑いの?」
「魚の傷みがちょっと早い、ってところだけどな」
季節はいつの間にか夏の盛りになっている。
礼を重ねて、僕は来た道を引き返していく。その間にも知り合いと顔を合わせて、挨拶だけでは済まないので、市場を出るのに少し時間がかかった。でも全然、不快じゃない。むしろ自分が外とつながっているような気がして、嬉しいほどだ。
僕が目を覚まして、すでに三ヶ月が過ぎていた。
クロエスは僕に様々なことを教えてくれたけど、一番勉強になるのが、今のようにお遣いで市場へ行かせてもらえる時だ。
館には話をする相手はクロエスとベッテンコード、サリースリーしかいない。
でも市場へ行ってみると、信じられないほど大勢の人がいる。なのにクロエスが言うには大陸の都市と比べれば人がいないも同然とのことだ。
市場で人と話すたびに、僕の世界は色を増やしていく。
明るい人もいれば、どこか暗い人もいる。親しくしてくれる人もいれば、敵視する人もいる。
優しさと憎しみが同居するのが、僕にとっての市場という場所だった。
そしてそんな場所を僕は今はまだ、遠くから見ているようなものだ。
市場を抜けて足早に道を進む。やがて山道になり、しかしそこは人の痕跡が如実だ。館へ続く一本道である。
途中で道を逸れる。そこに近道があることを、僕は勝手に発見していた。
木々の間をすり抜けていく。岩を乗り越え、部分的に地表に現れる小川を飛び越え、先へ。
一番の難所と言っていいのが人の背丈の三倍ほどある巨岩にぶつかるところで、これを回り込むのもできなくはないけど、僕は最近、この岩をよじ登るようにしていた。
何かの役に立つとかではなく、何となく、面白いからだ。
両手で岩肌の起伏の適当なところに指を引っ掛け、足でも出っ張ったところを踏んでいく。
スルスルっと這い上がれてしまうのは自分でも不思議だ。
途中、岩が反り返っている部分があるのでそこでは足は突っ張って体を支えるだけになる。
地面からの高さは人の背丈の二倍。もし失敗して転落すると無事では済まない。
手を伸ばし、足を送ろうとした時だった。
片足が力を込めていた岩の一部が欠けて落ちる。
僕の体が岩を離れ。
両手に力を込めて岩を掴み。
足が宙に流れ。
僕は岩にぶら下がっていた。
危なかった。うまく反動を殺せなければ投げ出されていたはずだ。
呼吸を整えて、視線を走らせる。
足をかけ直すのにちょうどいい突起が見えた。
足に勢いをつけて繰り出すと、もう一度、足が岩にかかった。両腕が少しずつ疲労していくのがわかる。
慎重に、だけど大胆に僕は岩を這い上がり、その上に出た。
手を払って、先へ進む。
木立の向こうに、館が見えてきた。
(続く)