1-16 始まったばかり
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目が覚めた時、誰かが顔を覗き込んでいるのでギョッとした。
ウドではない。
眼帯。
クロエスだった。
「く、クロエス先生!」
跳ね起きようとしたら自分の体の下敷きにしながら抱えるようにもしていた布団に引きずられて、変に転がってしまった。首筋から腰までに不自然な痛みが走る。
「どうしてここに?」
僕はやっと身を起こすけど、クロエスはのほほんとしている。
「これでも普通の眼の持ち主じゃないのでね。見えていたのさ」
「は、はぁ」
確かにクロエスは両目を眼帯で覆いながら、まるで目が見えるように行動するけど、千里眼とでも呼ぶべき視覚だったのか……。
「ベッテンコードさんは叱っておいたよ。ちゃんと連れ帰ってくれ、って」
叱られるベッテンコードを無理矢理に想像するけど、次に頭に思い浮かんだのは、そっぽを向きながら鼻を鳴らす老人の姿だった。あの人が狼狽えたり謝罪する場面は思い浮かばなかった。これっぽっちも。
「今回だけは大目に見ておくからね、アルカディオ。他所に泊まるなら、そう連絡をよこしなさい。まぁ、きみにはまだ港も見せてもいないどころか、島の地理を教えていないから、今回は僕の責任でもある」
「すみませんでした……」
よろしい、とクロエスが重々しく頷き、「ウドはもう漁へ行っているよ」と教えてくれた。
そうだった。昨日の夜、漁を見たいとこちらから言ったのだ。姿が見えないと思ったら、仕事へ行ってしまったのだ。窓が開け放たれ、室内が明るい。もう明け方ですらない。
起こしてくれればいいのに。もっとも僕には見物するしかできなかっただろうけど。
クロエスと一緒に表に出て、浜辺まで歩いて行った。
浜辺はそれほど広くない。しかし海はどこまでも広がって見えた。
朝日を波がキラキラと反射し、複雑な文様を浮かべては変え、浮かべては変える。その無数の瞬きの向こうに漁をしている何艘かの小舟が見えた。
美しい。
絵に描いたように、象徴的な光景だった。
しばらく僕とクロエスはそこに立って様子を見ていた。
そのうちに小舟が一艘、また一艘と戻ってきた。全部で六艘だ。最後の一艘にウドが乗っていた。
船から降りた漁師たちは、木製の箱を協力して持ち上げ、こちらへやってくる。
そのうちの何人かがこちらを睨みつけ、一人は舌打ちをした。ウドは前日と変わらぬ様子で僕のところへ来ると、「もう帰れ」とだけ口にした。ただ言葉に込められた感情には、どこか暗く、淀んだものがあった。
「昨夜はありがとうございました」
僕の言葉に、言葉では応じずに手をおざなりに振っただけで、ウドは仲間たちと集落の方へ行ってしまった。
「帰るとしよう」
一言も口を開かなかったクロエスの言葉に、僕は返事に迷った。
何かお礼をしたい、と思ったけど、僕にできることはないし、クロエスに銀を出してもらうのは、そもそもウドに拒否されている。
何のお礼もできないのが、今の僕だった。
クロエスが歩き出したので、結局、僕もそれについていった。
昨日の道を戻っていく。舗装されていないが、やはり整備はされている。
「僕がここに住み着いてすぐの頃にね」
道をゆっくりと進みながら、クロエスが話し始めた。
「食料を手に入れるために、漁師たちと契約を結ぼうとした。僕としては契約のつもりだった。しかし彼らはそれを拒否して、魚が欲しいなら市場で買え、の一点張りだった。市場で売っても、僕に直接売っても、彼らからすれば大して差はないのだろうと思った。それならと、僕に直接売るならもっと銀を上積みする、と申し出た。そしたら彼ら、僕の相手をしなくなったよ」
クロエスの理屈もわかるが、漁師たちの反応もわからなくはない話だな、と僕は思った。
むしろ、どうしてクロエスが無理矢理にそんなことをしようとしたのか、それが不思議だ。
僕の頭の中のどこかの部分が、人と人の関係というものを強く訴えている。
銀がなければ生活はできないけど、銀のために生きるのは、どこか違う。それに銀を得るためには、複雑な人間関係があり、それは銀で結ばれているというより、信頼や友情で結ばれているものだと思う。
銀で買えないものがちゃんとあるのだと、僕はどこかで知っている。
「あれ以来、彼らとはどうも疎遠でね。この島の漁師たちからは、僕は嫌われているってわけさ。市場の人たちは売ってくれるけど、漁師は僕に魚を売らない。疎まれたものだね、我がことながら。おっと、こっちだ」
クロエスが話しながら脇道にそれる。山の中に入っていくような道で、しかし整備はされていない。いや、少し進むと人の手が入っているとわかる。木材を使って段が作られていたからだ。
「アルカディオ、きみはきみであって、僕ではない。またいつか、彼らと話もできるだろう。その時には僕の存在が邪魔になると思うから、先に謝っておくよ。すまないね」
「いえ、そんなことは」
「人間関係はこういうところが面白いけど、僕には向いていないな」
一時間に少し足りない程度の時間で、僕は館の敷地に入っていた。館を囲う柵などはないので、木々が切られて開けている範囲が、暗黙のうちに敷地と呼べるだろう。
館にたどり着いたところで、自分が昨日の夜に借りた服のままだと思い出した。迂闊だった。僕も無意識にウドの素っ気ない態度、彼らの仲間の厳しい態度に狼狽えていたんだろう。
「なんだ、てっきりもらったのかと思っていたよ」
クロエスはそんな風に笑ってる。やっぱりちょっと世間とは違う発想の持ち主だ。
「僕を市場へ連れて行ってもらえるのは、いつになりますか?」
玄関の方へ回りながらそう確認すると、クロエスはちょっとだけ笑みを深くした。
「近いうちにね。きみは知るべきことが山ほどある。それこそ、国の地理、歴史、剣術、それ以外にも人間関係、経済、そういう全てを学ぶ必要があるんだよ。僕はだいぶ偏っているから、僕が全てを教えることはできないけど」
さっきの話のことを、偏っている、と表現しているらしかった。
それならベッテンコードもだいぶ偏っているけど。
玄関から中に入ろうとする、そこでベッテンコードが仁王立ちをして待ち構えていた。
謝られるのかと思ったらが、老人は不機嫌そうに顔を歪めて、
「こんな山で遭難するとは思わなんだわ」
と、いかにも彼らしい言葉が投げつけられた。
すごく、ものすごくこの老人らしい言葉だったので、僕は思わず笑ってしまった。
「すみませんでした。慣れていなかったので」
「阿呆め。変に気を揉んでしまって、不愉快だ」
今、気を揉んだ、って言ったのか?
それってつまり、心配した、ということか。
「今日の訓練は一時間後だぞ。支度をしろ」
さっさとベッテンコードは背中を向け、屋敷の中に入ってしまった。
しかし、一時間後か。食事をすると、山を駆け回る間に具合が悪くなりそうだ。つまり朝ごはんは抜きか。老人の嫌がらせの一つかもな。
クスクスとクロエスが笑うので、僕も笑みを浮かべてしまった。
「さ、行っておいで、アルカディオ。まだ始まったばかりだ」
言葉と一緒に、そっとクロエスが僕の背中を押した。
「はい!」
思わず大きな声で返事をして、僕は駆け出した。
(続く)




