1-15 初めての経験
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たどり着いた先は、浜辺にほど近い集落だった。道は海岸に沿ってさらに続いているようだった。
すでに明かりを入れる時間だったけど、この夜は月が綺麗に出ていた。
僕がクロエスから聞いたところでは、カル・カラ島は浜辺が少なく、全体の四分の三が峻険な崖になっているはずだ。つまり理屈の上では浜辺は漁師たちの奪い合いになるはずだった。
集落自体は平屋の粗末な建物が五、六軒で、浜辺には細長い船が何艘か、影として見えた。
老人はここへ来る道中、まったく言葉を発することなく、少しずつ呼吸を荒くしながら荷車を曳いていた。僕の方はといえば、ずっと山の中を移動したこともあって、整地された道を進むのは荷車を押すとしてもありがたかった。
やや力が有り余って、押しすぎないように注意された。それほど、老人の足は遅かった。年齢からすれば妥当かもしれない。ベッテンコードがおかしいのだ。
集落に着いて荷車を置くと、老人はどこかを指差して「体を洗ってこい」と言った。方向的に浜辺の方を指差しているようだったので、まさか海で洗えということか、と思ったら、井戸があった。
海のそばで真水の井戸が掘れるのか、はなはだ疑問だったけど、実際に井戸で水を汲んでみると塩気は殆どない。真水らしい。
急に喉が渇いたので、手を洗って、顔を洗って、それで思う存分、水を飲んだ。
クロエスの館の水とは味が少し違う。こういう細かな差異が、世の中にはたくさんあるんだろう。
老人の姿がないのを気にしながら、一応、着物を脱いで体を洗った。誰かに見られたらどうなる事か、と思ったけど、集落は静まり返っている。
少しすると老人が戻ってきた。手に籠を持っていて「着替えだ」と言ったかと思うと、老人も服を脱ぎ始めた。これにはさすがに僕もギョッとした。どういう文化水準なのか、疑ったほどだ。
疑念が顔に出たのを、薄暗い中でも老人は見て取ったようだ。
「ここへは誰も来ない。わしの家の裏手だよ」
そう言われて、ちょっとだけ安堵した。よかった、人目もはばからずに全裸になるような集落じゃなくて。
僕は服を借りて、やっと落ち着いた。体を洗うまで自分が泥の臭いに包まれていたことに気付けなかったのも意外だ。それに汚れを落とした時の清々しさも新鮮である。クロエスの館の風呂とはまた違う。
遅れて老人も着替えをして、家に案内してくれた。
一間しかない家で、少し暖かいのはかまどの燠火のせいのようだ。もちろん、かまどには鍋などかかっていない。灯火が用意されて室内が見て取れたけど、小さな戸棚と箪笥、そして寝具が隅に畳まれているだけだった。
老人は僕に構わず、手際よく粥を用意した。観察していたところ、すでに炊いてある米があり、それを水を張った鍋で煮立てたものだった。味付けをどうするのかと思ったけど、塩を振っただけらしい。
僕の前に器が用意され、粥が目分量で入れられ、そこに小さな皿で漬物のようなものが添えられて出た。漬物……? これはなんの漬物だろう。真っ黒い色をしていて、正体がわからない。
そもそも椅子に座らず、床に直接に座るのが僕には目新しい。テーブルもなく、床に直接、器が置かれたのだ。まぁ、別にテーブルに並べて味がよくなるわけではないし、こういう作法も悪くはない。
「召し上がれ」
老人はそう言うと、先に食事を始めた。小さな匙で息を吹きかけて冷ましがら粥をすすっている。
僕としては漬物らしいものが非常に気になっていたけど、老人は時折、それをかじりながら粥を食べ進めている。そうか、粥の味にアクセントをつけるための漬物か。でも、いったいこれはなんだろう。全くわからない。
恐る恐る食べてみることにした。
かなり歯ごたえがある。味は塩辛くてよくわからない。
ただ味が濃いので粥が進むのは間違いない。
僕はとりあえず食事に集中した。でも量が少ないのですぐに終わってしまう。老人はさっさと食べ終わると器を洗い始めている。甕に水が溜められてて、それを使っていた。
何も言われなかったけど、食べ終わったところで「ごちそうさまでした」と言葉にして、器は自分で洗った。老人はもう寝具を用意している。僕の分の布団はあるのだろうか。
食器を洗って拭い、棚に戻すと、老人が「これを使え」と声をかけてきた。
布団だけど、掛け布団だけだ。結局、二人分の寝具はない、ということらしい。
「どうも、すみません、ご馳走になって、布団まで借りてしまって……」
さすが申し訳なくなった僕の言葉に、老人はほとんど表情を変えなかった。ベッテンコードも怖いことには怖いが、これだけ反応がないのも、それはそれで怖い。
「クロエス殿に、銀はいらない、と伝えてくれれば良い」
「え? 銀ですか?」
短い言葉だったけど、複数の要素がその中にはあった。
まず、クロエスは銀を支払うことが過去にあったということ。
次に、クロエスが銀を払うことで無理を通す場面があったのではないか、という疑問が僕の中に生じた。
この老人はそういう返礼はいらないと言いたいのか、それとも、なんでも銀で解決するのをやめて欲しい、そう思っているのかは、即座には判断がつきかねた。
「伝えておきます」
僕がどちらでも受け取れるように言葉を選ぶと、「もう寝よう」と老人は話をいきなり終わらせそうになった。せっかく会話になったのだ、自己紹介くらいはしないと。僕は老人のことを何も、名前すら知らない。
「あの、僕はアルカディオと言います。ご老人のお名前は?」
「ウドだ」
ウド。
覚えておこう。
「お仕事は?」
「漁師以外の何に見える?」
それもそうか。
「お仕事を見せてもらってもいいですか?」
僕の言葉が不満だったようで、ウドはやや大げさにため息を吐いた。
「仕事を見たければ明日、早く起きることだ。そのためには早く寝るんだ」
ああ、そうか、漁は早朝にやるんだ。魚を売る時、鮮度の関係で朝に漁をするのは合理的だと僕は想像した。
もう寝ます、と僕が答えると、老人はちょっと雑な身振りで頷いて、さっさと灯りを消してしまった。
僕は掛け布団だけで眠れるか、初めての場所で眠れるか、色々と不安だったけど、疲れていたせいかあっさりと眠りに落ちた。
実に無防備なことである。
(続く)




