3-10 終わりの時
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頬がガサガサする。
涙の痕跡を強く袖でぬぐい取り、アルカディオは前を向いた。
「すまぬ」
そのアルカディオにだけ聞こえる声で、サリースリーが呟いた。彼女は右腕が激しく焼け焦げ、再生が追いついていない。その腕を左手で抱えるようにして歩いていた。
「私の落ち度で、ターシャを死なせた」
アルカディオは答えずに、ただ首を左右に小さく振った。
誰の落ち度かは、はっきりしている。
アルカディオこそが、間違ったのだ。魔人に用心していれば。あるいはターシャを野戦陣地へ残しておけば。
今更、考えても仕方がない。
全ては過ぎたことだった。巻き戻すことも、やり直すこともできない。
ターシャの死を無駄にしてはならない、とは、アルカディオは考えられなかった。
ターシャの他にも大勢が倒れたのだ。その全てを一つ残らず背負うには、アルカディオは弱かった。
心の中で、ターシャに詫びた。
そして全ての、犠牲になったものに詫びた。
あなたたちのためにできることは何もない。
今、できることは一つだけだった。
仲間を守ること。
これは自己中心的な、自己満足にすぎないかもしれない。
むしろ利己的で、勝手かもしれなかった。
しかし死者に対してできることは、何も残されていなかった。
リコとアールが足を止め、アルカディオも足を止める。すぐ横にサリースリーが並ぶ。
ついにアルカディオたちは、魔剣の前に立っていた。
抜き身の破砕剣を下げたアルカディオの手に力がこもる。
溶岩がふきあがり、魔剣に触れた、と思った時には溶岩は手になり、溶岩の流れが腕、肩、上体を作り、落ちていく溶岩が腰から両足へと生まれ変わる。
そうして魔剣を手に直立した存在は、これまでの魔人とは違い、ほとんど人間に見えた。真っ白い肌をして、細身で、しかし華奢には見えない肉付きをしている。
長い髪の毛は黒。
瞳は、赤だった。
熱風が巻き起こり、アルカディオたちはそれぞれにそれから顔をかばった。
風が収まると、魔人の姿は様変わりしていた。
全身を具足が覆っている。真っ黒い具足で、どこか黒の隊を連想させた。
長い黒い髪は高い位置でひとつに結ばれている。
魔人がゆっくりと進み出てくる。溶岩を踏みしめるが、全く意に介した様子はない。
「下がってください」
アルカディオはリコとアールにそれだけ告げた。短い言葉だったが、リコもアールも、ゆっくりと距離を取っていく。先ほどの魔人とは格が違うことは、放出される覇気からも明らかだった。
アルカディオはその覇気に対抗するために、呼吸を整えながら、ゆっくりと先へ進む。
サリースリーが遅れてついてくるのを、アルカディオは止めなかった。
サリースリーは責任を感じている。いくつもの意味でだ。本来の、龍としての責任と同時に、ターシャの死の責任を彼女は背負っている。逃げることなど、できなかっただろう。
心強い、という感情もあるが、アルカディオはサリースリーさえ守るつもりだった。
もう誰かが倒れるところを見たくはない。
魔人が魔剣を構える。正統的な剣術に見える。
アルカディオも破砕剣を構える。
この決闘の場にたどり着くために、どれだけのものが犠牲になったかは計り知れない。攻撃隊も、また野戦陣地のものも、剣聖騎士団も、この時、この場面のためだけに危険を冒し、命を捨てたのである。
考えることを、アルカディオは遠ざけた。
剣の冴えだけが、何よりも求められた。
その時、アルカディオは後に残したものも、この世か去ったものも、何もかもを忘れた。
魔人の足の構えが変わる。アルカディオもそれに従うように構えを変えた。
風が吹く。
熱が目に飛び込む。
目を細めたところで、魔人が視界から消えた。
見えている。
アルカディオは半身になって魔剣の一撃を回避した。具足が割れるが、体には触れていない。
返した刃を魔人は背を反らせる動きで回避した。
そこから最小限の動きで三連続の刺突がくるのを、アルカディオは余裕を持って破砕剣でさばこうとした。
ほとんど同時のような三段突きだったが、アルカディオの極端な集中はそれを完璧に見切っていた。
だが、予想外にも魔人の方から突きの軌道を捻ってきた。
それがためにアルカディオは破砕剣で受け流すこともなく、間合いを取って切っ先から逃れることができた。
お互いが再び、構えをとる。
目の前にいる魔人は圧倒的な膂力があるわけでもなく、圧倒的な魔法を使うわけでもない。
技で攻めてくる。剣技に優れているのだ。
そのはずだが、とアルカディオは足の位置を変え、横へ移動しながら観察を続けた。
先ほどの動きは、明らかに剣と剣が触れ合うのを避けているようだった。
破砕剣は、魔剣を破壊できる。
そういうことだろうか。魔剣は破砕剣を受け止めることはおろか、受け流すこともできない?
もしそれが事実なら、この勝負はアルカディオにとって大きな有利があることになる。
攻め立てれば、そのまま攻め潰せるのではないか。
そんな容易な道筋があるとは、容易には信じられなかった。
仮にそうなら、勝ちに行くべきだ。
しかし、もう少し様子を見るべきか。
無駄に戦いを長引かせるべきだろうか。
一瞬で逡巡したアルカディオは、その時、知らず知らずのうちに集中をわずかに欠いていた。
魔人が動く。
アルカディオの目がわずかにそれを理解するのが遅れる。
光が爆ぜた。
サリースリーの渾身の魔法がアルカディオへ肉薄しようとする魔人を直撃したのだ。
光の渦が轟音をあげて全てを飲み込む。
魔人の体は左肩を中心にそこへ巻き込まれていく。
光が爆ぜた時、魔人は左胸をごっそりとえぐられ、片腕を失っていた。
勝機だった。
紛れもない勝機。
勝てる。
アルカディオは地を蹴りつけ、低い姿勢で疾駆した。
魔人はすぐ目の前。
魔人の持つ魔剣がそれでもアルカディオを迎撃する。
構う必要はない。遅すぎる。
勝った。
アルカディオの破砕剣が鋭い音を立てて翻り、魔人の首に食い込み、ほとんど何の抵抗もなく切り飛ばした。
宙へ飛んだ首と、よろめく魔人の体。
首は融けた岩の中に没した。
体はよろめき、倒れこむ。
終わった。
アルカディオは立ち尽くして、魔人の体を見た。
「魔剣だ!」
悲鳴のようなサリースリーの声がした。
「魔剣を破壊せよ、アルカディオ!」
ハッとしたアルカディオは、すぐそこに転がっている魔剣を見て、破砕剣を振りかぶろうとした。
魔剣が、一人でに動いた。
誰も触れていないのに、宙を飛んだ魔剣がアルカディオの腹部に滑り込むように突き立った。
灼熱が体の内側で爆発し、全身を震えさせた。
呻きながら、一歩、二歩とアルカディオはよろめいた。魔剣がひとりでに抜け、激しい出血が地面を濡らす。
傷がすぐには治癒しないのに、アルカディオは気付いた。
しかし今度だけはと精神力を総動員して、意識を保ち続けた。
首のない魔人が起き上がり、空中で回転している魔剣を手に取る。
そして一瞬で、失われた左胸が修復され、腕が伸び、頭部さえも元どおりに回復した。
魔人はただの道具か。
剣を破壊するとわかれば、破壊することはできる。アルカディオはその事実を考えた。
魔剣は破砕剣に触れることすらできない。
破砕剣で魔剣に触れれば、勝ちだ。
破砕剣を強く握りしめ、アルカディオは構えをとり直した。
足から力が抜けそうになるが、必死に耐える。両腕が今にも下がりそうなのを、気迫だけで持ち上げる。
魔人が突っ込んでくる。
今までの剣術が嘘のような、単純な振り。
受ける。
受けるだけで、勝てる。
何かが違う。
疑問が浮かんだ。
もしアルカディオが破砕剣で魔剣を受けるだけで勝てるなら、魔剣はなぜ、そんな攻撃を仕掛けるだろう。
アルカディオは咄嗟に受ける角度を変えた。
魔剣が破砕剣に接触し。
火花をあげて刃が刃の上を滑る。
魔剣は破砕剣に触れられないわけではなかった。わざとそう思わせたのだ。
激烈な衝撃は、負傷の影響が大きいアルカディオに膝をつかせていた。
それでもどうにか魔剣を受け流すが、次の一撃は無理だった。
致命的な一撃を避けるために、破砕剣を立てるが、弱い握力では保持できない。
破砕剣が宙に舞い、地面に転がっていく。
飛びつける距離ではない。
リコとアールが視界の隅に見える。
逆側では魔人が魔剣を振りかぶり、振り下ろそうとするところ。
そこにサリースリーが突っ込もうとしている。
魔剣が落ちてくる。
できることはない。
できることをやるしかない。
アルカディオは無理を承知で聖剣に飛びつこうとした。
背中を切られた。
衝撃で地面に叩きつけられる。
指先は聖剣に届いていない。
振り返ると、魔剣が翻り、サリースリーの負傷している方の腕を切り飛ばすのが見えた。少女の体もまた跳ね飛ばされている。
魔人がアルカディオを見る。
アルカディオには武器がない。
万事休す。
魔剣が振り上げられる。
アルカディオ!
誰かが叫んだ。
声の方をわずかな視線のずれで見る。
空中を飛ぶ何か。
剣だった。
聖剣ではない。
投げたのはアール。
投げられた剣は、つい先ほど、アールが別の魔人から奪った剣だった。
魔人の剣がアルカディオの手に計ったように収まる。
アルカディオの手に渡った魔人の剣が、きわどいところで魔剣を受けた。
魔人の剣に亀裂が入り、甲高い音とともに折れる。
その反動で、アルカディオは地面を転がっていた。
転がったせいで、聖剣の元へたどり着いていた。
柄を掴んで、素早く立ち上がる。
失血が酷いせいだろう、意識が朦朧とする。
しかしまだ、勝負は終わっていない。
魔人が魔剣を構え直す。
次で勝負が決まる。
もうアルカディオには次しかない。その先は体が自由にならないはずだ。
全てをかけるのだ。
両手で破砕剣の柄を握る。
不意に、破砕剣が脈動したような気がした。
心気は統一され、覇気が刃に乗っていく。
光の瞬きが、破砕剣を取り巻く。
誰もが見ている気がした。
誰もが今、アルカディオを支えていた。
体は頼りないほど軽く、剣は重すぎるほど重い。
なのに、一撃を繰り出すことはできる確信がある。
魔人が動き出す。
魔剣が走り始める。
アルカディオはそれを見て、無心で剣を振り上げ、振り下ろした。
魔剣は速い。
それが、見えない何かに囚われたようにわずかに鈍る。
破砕剣が間に合った。
破砕剣が魔剣に触れる。
光が爆発した。
アルカディオには激しい光の中で二本の剣が砕け散っていくのが見えた。
魔人の体が消し飛んでいく。
アルカディオの手元からは、破砕剣が粉々になり、滑り落ちていく。
光は一層強くなり、次には不意に全てが消えた。
目が眩むこともない。
周囲は溶けた岩がいくつも筋をなす闇の峰であり、しかし静かだった。
何の音もしない。
思わずアルカディオは自分の手元を見た。
破砕剣は影も形もない。
当然、魔人の姿も、魔剣もなかった。周囲には何の痕跡もなかった。
腹部の痛みにアルカディオが膝をつくと、支える者がいる。
アールとリコだった。
「よくぞ、ご無事で」
わずかに声を震わせるリコに頷き、改めてアルカディオは周囲を見た。
終わったのだろうか。
勝ったのか?
リコの指示でアールがサリースリーの方へ駆けていく。彼女も生きているようで、地面に座り込んでやはり周囲を見ていた。
行きましょう、とリコがアルカディオに手を貸した。
腹部の傷が癒えていくのを感じながら、アルカディオは彼女の手を借りて立ち上がった。
熱い風が吹き付けてきた。
その風は、どこまでも静かだった。
(続く)




