1-14 山中にて
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息が乱れて、脚が重い。
踏みしめた地面が柔らかい。それが姿勢を乱すのを、無理矢理に脚を送ることで誤魔化す。
予想外の石に靴底が触れ、止める間も無く反射的に力を込め、今度こそ苔で滑って僕は転倒した。
地面に両手をついたけど、出っ張っていた岩が運悪く、鳩尾を強打する。
悶絶している僕に、平然とした声が降ってくるのが恨めしい。
「何をしている、小僧。地面に頬ずりをしていたいのか?」
このっ!
跳ね起きて、先へ進む。
少し離れてベッテンコードが行くけれど、彼がひょいひょいと簡単に進んでいく道が、僕には困難が上にも困難だった。
不規則な傾斜と、不規則な障害物。
走り続けるうちに体の動きは悪くなっていき、あっという間に集中が乱れ、つまずくはずのないものにさえつまずいてしまう。
巨木を回り込み、そこにある岩を手をついて飛び越える。
岩の向こうは水たまりだった。
「わっ!」
気づいた時には、全身が泥まみれになっていた。
ベッテンコードは少し離れたところで、目を細めている。
「今度は泥遊びがしたいのか」
したいわけあるか!
またベッテンコードが離れていくのを必死に追いかける。
何度も転び、体のそこここをめちゃくちゃに打ち付け、口の中には土や草が飛び込み、足と言わず、全身が汚れていた。
山をひたすら登っているのだけど、道があるどころか、獣道さえない。ベッテンコードは気にした様子もなく下草に分け入るけど、この下草が足元を隠していて、僕には実に不愉快だ。
これでどうやって安全に移動しろって言うんだ。
どれくらいが過ぎたか、ベッテンコードが待っていた。そう、彼は立ち止まって僕が辿り着くのを待っているのだ。
これで終わりか。
僕が彼の前に這々の体で進むと「帰りは自由に帰ってこい」と言われ、すぐには意味が理解できなかった。
自由に帰ってこい?
確認しようとしたら、もうベッテンコードは斜面を駆け下り始めている。
「えっ、ちょっと……!」
今度は老人は僕を待ってくれなかった。まるで平地を走るような速度で、石が転がるようにベッテンコードの姿が木立の中に消え、ついに足音どころか気配もなくなった。
僕は山の中で一人、途方に暮れた。
自由に帰ってこいって、どうやって帰れって言うんだ……。
仕方なく、安全第一、僕はゆっくりと念入りに足場を確かめながら傾斜している地面を下り始めた。片道だけでもうクタクタだ。水も飲みたい。山に分け入る時、見送りに来たクロエスが水筒をもたせてくれようとしたのを、「ちょっとそこまで行くだけだ」とベッテンコードが受け取らなかった。
あれは老人流の嫌がらせだったか。舌打ちしたい。
それでも帰り道は色々と気づくことがあった。
花を咲かせている木があったり、リスを見ることもあった。木の枝から蛇がぶら下がっていることもあったし、蛭が降ってきたこともあった。蛭は僕の肌に噛み付いて血を吸い始めたけど、なぜかすぐに一人でに地面に落ちた。人造人間の血は蛭にとって毒なのかもしれない。
来る時はなかったはずの小川を渡り、巨大な岩の上から飛び降り、太い木の根がアーチのようになっているのをくぐる。
ここまで来て、一度、周囲を見回したのはじわじわと大きくなる不安を無視できなかったからだ。
ここ、どこだろう……?
どっちへ行けば、館へ戻れる?
こんな山の中に都合よく時計なんてないから、自分がどれだけ移動したのか、把握しづらい。
太陽の位置、影の向きで方向を知ろうにも、周囲は鬱蒼とした木立がどこまでも続き、強い陽射しは皆無。
もしかして、迷った……?
「べ、ベッテンコードさん! 聞こえますか!」
当たり前だけど、返事はない。
もしかして、そ、遭難した?
またも途方に暮れるしかない僕だった。
選べることのひとつは誰かが探しに来てくれるのを待つ。誰かというか、ベッテンコードが戻ってくるわけがないので、クロエスを待つということ。
もうひとつは、麓まで降りてしまうことだった。
そうすればこの島の住民に助けてもらえる。
僕はちょっと思案して、二つ目の案を採用した。
つまり、麓へ降りるのだ。特に禁止されていないけど、僕はまだこの島で生きる人と接触を持ったことがない。それは僕の中には、自分が人間とは違う存在だ、という後ろめたさがあるわけだけど、こうなっては背に腹は変えられない。
怪我だけはしないように、慎重に僕は先へ進んだ。
空気の湿り気はまるで粘り気を帯びているようで、空気の冷たさはどこか不吉だ。
それでもずっとここにはいられない。
また石の上で足を滑らせて転んだ。自分が悲しくなる。なんでこんな山の中に置き去りにされなくちゃいけないのか。
剣聖だかなんだか知らないけど、ただの人格破綻者じゃないか。
心の中で一〇〇回ほど老人に罵声を浴びせているうちに、周囲が明るくなってきた。やや赤みがかった光は夕日だろうか。僕はいつの間にそんなに長い時間を歩いたのか。
木の密度が減っていき、ついに僕は一本の道に出た。舗装されているわけではないけど、一本の帯のようにそこだけは草の生えていない、地肌剥き出しの部分が坂を上へ下へと伸びている。
どうやら麓へ降りる作戦は成功したらしい。
ついでに運がいいことに、道を荷車を曳いて男性がやってくる。しかし運が悪いのは、その荷車は上から来る。つまり麓へと向かっているのだ。僕が望む方向とは逆である。
「おーい! すみませーん!」
僕が声を上げると、彼はギョッとしたように足を止めたが、すぐに動きを再開した。
僕の眼の前まで来て、やっとその男性がかなりの高齢だとわかった。ベッテンコードと同じくらいだろう。一見して、手の痩せ方、首元の痩せ方に近いものがある。
「珍しいな。知らん子どもと会うとは」
老人がそう言って目を細め、ちょっと声をひそめた。
「お前さん、例の錬金術師の館から来たのかね」
うーん、どう答えるべきだろう。
「山の中で迷ってしまって」
暗に肯定しつつ、事情を説明するのは卑怯だったかな。
老人はしばらく黙り、「荷車を押しておくれ。もう日が沈む。館には明日、戻ればよかろう」と言った。
すでに空は赤く染まり、その赤も黒に場所を譲りつつある。泊めてもらうというのはやや緊張するが、ここから館へ戻るうちに夜になってしまう、という判断かもしれない。
僕は荷車の後ろについた。荷車は木箱を積んでいるけど、荷車の軽さからすると中身は空だ。クロエスの屋敷に何かを運んだのだろうか。かすかに生臭い匂いが漂っている。魚を積んでいたのだろうかと推測する僕だった。
老人は「行くぞ」と短く言うと、荷車を曳いて先へ進み始めた。
僕は加減しながら荷車を押す。
夜の到来を告げるようにカラスが鳴いていた。
(続く)