3-9 詐術と誘導
◆
アルカディオがターシャにすがりついている。
参ったね、どうも。
アールの口からそんな声が漏れそうになったが、余裕はない。
魔人を相手にしているのに、サリースリーは魔法を破られた衝撃で動けず、アルカディオは精神的に戦えない。
つまり、アールとリコでどうにかしないといけないのだ。
「アール殿、私は弓を使う」
言葉に視線を向けた時には、アールの手元にリコの剣が投げ渡されていた。独特の弧を描く刃の剣で、はっきり言って慣れていないと使いづらい。
しかしそんなことを口にするわけにもいかない。
魔人がアールたちの様子を見守っているのが、唯一の救いだった。人間がバカな抵抗を考えているぞ、というような態度なのだろう。
両手に剣を持ったものの、勝利の確信などない。
それでもアールは自分を鼓舞するように笑って見せた。
「では、リコ殿が勝負を決めてくれることを頼りにして、いきましょう」
一歩、一歩とアールは魔人へと歩を進めた。
アルカディオほど剣技に自信はない。当然、魔人ほどの膂力も持ち合わせていない。
つまり、正面からぶつかっていっても勝機はない。
どこかで相手を罠に嵌める必要がある。
間合いに踏み込むか、というところで、アールは横へ移動していく。これではリコが相手からもよく見えるだろうが、アールを視界から外すことはないはず。
そうアールが計算したが、しかし魔人は視線をリコから外さない。
しまった。
思うと同時にアールは地面を蹴りつけている。リコへ向かおうとした魔人に側面からぶつかるが、リコへ向かうと見せかけてアールを誘ったのだと、剣に出迎えられて理解した。
逆に罠に嵌められているようでは、先が思いやられる。
地面に靴底を滑らせ、開脚するようにして体を下げる。
首を狙った刃がアールの頭上を掠め去っていく。
まったく、冷や汗ものだ。
地面に転がり、魔人の剣が連続して襲いかかってくるのを避けていく。それも際どいところを刃が走るため、アールは生きた心地がしなかった。
今にも体が引き裂かれるのではないかという恐怖に必死に抵抗しながら、転がり続ける。高熱で溶けた岩に飛び込むのは御免だったが、それを気にする余裕などとうに失っている。
起き上がったところへ、魔人の本命の一撃。
自分の剣で受け流すが、何かの冗談のように刃が削り取られていく。
魔人の剣は剣とは言えんな。
なんとか防御に成功し、体を逃す。魔人はまったく自然に追尾してきた。
リコの射線を意識して、アールは逃げる向きを変えようとするが、魔人にもそれは織り込み済みのようだ。どうしても魔人とリコの間にアールが割り込んでしまう。
リコの技量を信頼すれば、わずかな間隙にどんな状態でも矢を射込んでくるだろう。
俺に当てるのはやめてくれよ。
念じながら、アールは極端に魔人の懐へ飛び込んだ。
剣の間合いではない。アールの片手で魔人が振り下ろそうとした剣、それを持つ手の手首を押さえる。ただ、一瞬のことだ。強烈な負荷に肘が砕け、肩が外れるかと思った。
耐えることは即座に諦め、アールは転げるように魔人から距離を取る。
魔人が追撃しようとして、わずかに姿勢を乱した。
アールは片足を思い切り引く。
そこには細い縄が引っかかっており、片方の端は剣の柄とともにアールの手に握られている。
逆の端は魔人の片足に絡まっていた。
もっとも、そんなことをしても意味はない。
魔人が間合いを詰めながら、剣を走らせて縄を切る。それで済むのだ。姿勢は決定的に乱れてはいない。
ただ、剣がアールではない方へ向いたのは確かだ。
そこにアールはつけ込もうとした。
したが、失敗だった。
魔人はアールが想定するより最小の動きで縄を切り、即座に剣を引きつけていた。
まずい。
思いながらもアールは飛び込んでいく。
高々と剣を振り上げた魔人の目に、勝者の色が浮かぶ。
振り下ろされる剣をアールは両手の剣を交差させて受けようとした。
あっけないほど簡単に、両手の剣が粉砕される。破片を飛び散らせながらなお向かってくる剣を、アールは数歩の後退で紙一重で避けたが、両手の感覚が怪しい。
勝負だ。
アールが見ている前で、魔人が剣を振り上げようとし。
そこへ矢が走った。
魔人の頭。
狙いは完璧だった。
首を傾げれば避けられるほど、正確だった。
こういう時は下手くそな射手の矢こそ当たるものだな。
そんなことを思いながら、アールはリコの放った乾坤一擲の矢がどこか遠くへ飛んでいくのを、視界の隅で捉えていた。
目の前ではすでにアールを逃すことのない必殺の剣が繰り出されようとしている。
切られるかな。
アールの心が一気に冷え込んだ。
その冷気が、アールの心から動揺を消し、一個の装置のように体を支配する手助けをした。
よくあることだ。
剣が落ちてくるのがゆっくりと見える。はっきりと、完璧にアールの目は魔人の剣を追っていた。
アールの両手が動き出す。魔人の剣よりは遅いが、動かすべき距離は遥かに短い。
剣が巻き起こす風が間近に感じられた気がした。
見てろ。
誰にともなく、アールは唱えた。
◆
リコは矢を外した時、アールが死ぬことを覚悟した。
だから、それが起こった時、本当には何が起こったのか、理解するのに時間がかかった。
魔人の剣は確かに振り下ろされた。
その手元へ、アールが自分の両手をぶつけて行ったのだ。
見たことも聞いたこともない技だった。
後になってみれば、アールは魔人が振り下ろした剣を素手で奪い取り、逆に切り倒したことになる。
唖然とした顔の魔人が血を噴きながらよろめき、自分のものだった剣による次の一撃で首を飛ばされるのを見て、リコの思考がやっと元の時間で動き始めた。
魔人の首がどこかに転がって見えなくなり、その体が勢い良く倒れ、アールが天を仰いでいるのを見て、やっと自分たちが強敵に勝利したことがわかった。
信じられない。
あんな勝ち方があるとは。
アールが振り返り、奪い取った剣を軽く振りながらリコの元へ戻ってくる。
「どうだい、俺も捨てたものではなかろう、リコ殿」
「手品の勉強もしていたということか」
心の内にある本音とはまるで違う言葉が口から出るのに、リコは自分で自分に笑ってしまった。アールも気を悪くしたようでもなく、「手品も意外に使えるものさ」と笑っていた。
それでもう、二人は自分たちの成果を考えるのはやめた。
二人ともが、主人の方を見る。
大柄な女性の遺体にすがっている青年は、助けを求めるような顔でリコたちを見ていた。アールが歩み寄ろうとするのを、素早くリコが止めた。何故だ、という顔でアールが彼女を見るが、リコは首を振り、自らアルカディオへと歩を進めた。
青年は狼狽した顔で、涙に濡れた顔でリコを見上げている。
「立ってください、アルカディオ様。あなたがいなければ、決着はつきません」
アルカディオは何かを言おうとしたようだった。
それより早く、リコは膝を折ると、強くアルカディオの頬を張った。
高い音が鳴り、アルカディオが驚きの表情でリコを見返す。その瞳に感情が浮かび上がってくる。悲しみ、そして後悔。
今はそれに構っている暇はない。
「アルカディオ様。泣いてもいいのです、喚いてもいい。でも今ではありません。生きているものには生きているものがすべきことがあるのです。ターシャはもう、生きてはおりません。彼女のためにも、できることをしてください」
どれだけの効果があったかは、リコもわからない。アルカディオの心中を正確に察する術はない。
ただ、アルカディオはターシャを一瞥し、次にそばに控えているサリースリーを見た。
そして最後に、すぐそばに転がっている彼しか使えない聖剣を見た。
アルカディオの手が聖剣へ伸び、柄を握りしめる。
すみません。
アルカディオは小さな声でそう言った。誰に向けた謝罪だったかも、やはりアルカディオにしかわからない。リコはあえて返事をせず、立ち上がった。
サリースリーがアルカディオを支え、アルカディオは自分の足で立った。
剣聖が歩を進め始める。闇の峰にある魔剣とやらが宙に浮いているのは、彼らの位置からでも見えた。
もうすぐそこだ。
リコはそうと悟られぬように、奥歯を噛み締めた。
全ての犠牲がこの時のためにあった。
勝利するしかない。
勝利がすぐ目の前にある小さな背中の持ち主、アルカディオにかかっている。
リコにできることはもうなかった。
アルカディオを支えるしかないのだ。
アールがリコの横につき、並んで歩き始める。まだ魔人から奪った剣を気にしているようだった。自分のものになるかどうかを考えているようでもある。アールなら考えそうなものだ。
軽口でも飛ばしたかったが、無理だった。
空気はあまりに重く、のし掛かってくる。
「この剣」不意にアールがリコに囁いてきた。「俺のものにしていいかい?」
……この男ときたら。
「好きにすればよろしかろう。アール殿が敵から奪ったのだから」
それもそうか、とアールは笑っている。
結局は軽口を叩いてしまうのだから、不思議な男だ。
もっとも、そのおかげで少しだけ空気が軽くなった気がする。
この感謝はいつか、伝えるべきだろう。
リコは胸の中でそう思い、前方を見た。
魔剣はすぐそこで、宙に浮いて待ち構えていた。
(続く)




