1-13 短い言葉
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屋敷へ戻る途中、夕日が周囲を全て赤くする光景を目にした。
「科学者たちは」
先を歩きながら、クロエスの背中が言う。
「観測と計算の積み重ねで、この大地が丸いこと、そして太陽がどうやら世界の中心であろうと議論しているらしい」
「世界の中心?」
「そうだよ。僕たちが載っているこの大地は、太陽を中心に回っているらしい。その噂を聞いた時、僕たち錬金術師たちとは考える領域がはるかに違うな、と思ったよ。まぁ、科学者の一部は僕がやっているような生命に関する研究をしているようだけど」
よくわからない話だった。
もしかしたらクロエスは、この世界にはまだ人間が知らないことが多くあり、もしかしたら知ることが未来永劫、叶うことがない領域があると言いたいのかもしれない。
そして僕は、仮の不死者として、クロエスや他の人々とはまるで違う、長すぎる時間を生きていかなくてはいけないのか。
またあの古の龍が口にした、私の一部、という存在のことが思い浮かんだ。
クロエスは知っているだろう。
質問しようかな、と思ったけど、すぐには答えは出なかった。逡巡ののち、聞いてしまおう、と決めた時、いきなりクロエスが足を止めた。僕も反射的に足を止める。
「ど、どうしたんですか?」
「あれをご覧よ」
すっとクロエスが指差した方に視線を向ける。
すでに館にだいぶ近づいていたけど、そこはまだ樹林の中で、もちろん、足場なんて僕とクロエスが歩いている石畳の痕跡以外は不整地そのものだ。様々な大きさの岩石が転がり、その表面は苔むしている。木々は自由に根を伸ばして、無数のそれが地面の上を這って複雑な起伏を生み出している。
細い指が示す先を、小柄な影が動いている。
猿にしては大きい、と思ったら、それはベッテンコードだった。
信じられないほど俊敏に緩やかな山肌を駆けていく。全く姿勢がぶれず、まるで先の障害物が見えているように、岩や木々を次々と避けていく。あまりに動きが慣れて見えるので、もしかしたらあそこがあの老人の決まった訓練の場なのかもしれない。
ただ、それにしても動きが機敏だ。老境の人物と見えないどころか、人としての限界を試しているように見えた。
ともすると本当に野生の猿が飛び跳ねているようにも見えてしまう。
「あの老人がここへ来て、半年ほどは経つかな」
木々の中に老人が消え去ったのを見送り、クロエスがまた先へ進み始める。館の裏手が見えてきていた。
「その間、体が鈍ると言ってね、毎日、半日は館を留守にしている。僕は何度も見ているけど、アルカディオが見るのは初めてじゃないかな?」
「ええ、その、あの老人があんな訓練をするとは、想像もしていませんでした」
「あれでもう年齢は七十を超えているというからね、人間っていうものには個体差があるんだと思わずにはいられない、というのが正直な感想。僕が同じことをやれって言われてもできないだろうし」
そうだろうなぁ、と呑気に思っていたら、クロエスが振り返って眼帯で覆われたそこにはない眼差しで僕を見る。
「明日から、君は同じことをやるんだよ」
「……え?」
「だから、体力作りだよ。大丈夫さ、僕の口からもベッテンコードさんに頼んでおくから。訓練着も用意されているし、怪我をしてもすぐ治るだろうし、何も気にすることはない」
「えぇ……」
声が漏れたけど、それ以上は言葉にならない。
僕があの老人の離れ業についていく? とてもじゃないけど、できる気がしない。
本当にやるのかな……。
内心を察したように、クロエスが意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「訓練は絶対に必要だよ、アルカディオ。僕の実験に貢献すると思って頑張ってね」
どうとも言えない……。
館に着いて、クロエスがお風呂に入るというので、僕はちょっと考えて、館の裏手でベッテンコードを待つことにした。お風呂が空いたら人造人間が呼びに来てくれることになった。
日はすでに遠くの水平線に沈みつつあるようで、赤かった空も少しずつ暗くなっていく。
赤から深い紫になり、そのまま黒へと変化していく空の下、僕はじっと立ち尽くしていた。昼間の熱気は去っていき、涼しい空気が入れ替わるように僕を包んでいた。
「何をしている?」
声がする前から、存在には気づいていた。
木立から普段着よりも簡素な、簡単な服を着た老人が進み出てきた。
まさに意を決して、僕は頭を下げた。
「明日から、あなたの訓練についていくようにと、クロエス先生に言われました。その件で、僕の方からもお願いしておこうとお待ちしていました」
「これは訓練などではない」
訓練じゃない?
僕のすぐ横を抜けながら「散歩だよ」とベッテンコードが囁くように言う。
そういう冗談でもないようだけど、しかし、珍しく冗談めかしているようでもある。もしかして、照れているのかな。それではぐらかした? そういう人柄でもないはずだけれど。僕の乏しい経験では。
館の裏手にある出入り口で靴についた泥を落とし、井戸で汲んだ水で手を洗う老人を見ていたが、彼からの言葉はない。
本当に照れ隠しだったのかな。
「自分が死なないと理解したか?」
館に入るのか、と思っていたら、ベッテンコードは扉の前で足を止めた。
でも彼は館の影に入っていて、暗闇の中ではかすかにその瞳が輝いているのが見えるだけだ。
僕もきっと、彼から見れば闇の中で、双眸が光るだけになっていただろう。
「理解せざるをえない、というところですけど」
「試してみようか?」
さすがに僕も慌てた。
「いえ、腕を落とされただけで、十分です」
「いずれ、剣を手に取ることになれば、腕も足も、首さえも落としてやる」
「それは、そのぉ……、やめて欲しいというか……、遠慮したいというか……」
どうせ死なんのだ。
確かに老人はそう口にしたはずだ。
でもあまりに細い声量で、周囲に満ちる夜の静寂の中でも聞き取れなかった。
もしかしたら、このベッテンコードという老人こそが、誰よりも、生を欲しているのかもしれない。
それも死が怖いとかではなく、未練があるのだ。未練は未練でも、自らの剣術の技とその結末にだけ未練があるようだった。いかにも不自然な欲求、欲望で彼は死を遠ざけたいんじゃないか。
そんな風に反射的に思い描いた僕を見抜いたように、つっと老人が身を翻した。
「ともかく、小僧、明日だ。心構えだけはしておくんだな」
言葉を残してベッテンコードが屋敷へ入ろうとしたところへ、人造人間が館の中から出てきた。二人が鉢合わせになるが、ベッテンコードは動じることなく、むしろ姿勢を乱した人造人間を支えさえした。
今までで一番人間らしい、優しい動作だった。
僕の方へ老人の視線が向く気配。
「風呂に先に入っても構わんな?」
「え、ええ、はい……、どうぞ」
悪いな、というように影にしか見えない手が掲げられ、そうして今度こそベッテンコードは館の中に入っていった。
僕はちょっと考え、少しずつ気が重くなっていく自分に気づいた。
明日から僕も山の中を駆け回るのか。
正直、逃げたい……。
逃げ場は、ないか。
(続く)




