2-22 迷いと決意
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目が覚めた、と気付いた時には、アルカディオはターシャに抱きすくめられ、息が止まっていた。
ここはどこだ? 幕舎の中らしい。いや、よく見れば、野戦陣地で寝起きしていた幕舎の一つだ。滅多に使わなかったが、ファルスが剣聖の執務の為にと用意してくれたのだ。何回か、ここで眠った。
そこまで思い出せば、寝ている寝台の寝心地はあまり良くないのも、思い出した。
「ターシャさん、ちょっと」
アルカディオの言葉でターシャが体を起こすが、泣いているようだった。言葉にならない彼女に、そっとリコが寄り添う。そう、リコだ。戻ってきたのか。いつの間に。
「ルーカスさんと、サリースリーは?」
リコが「ご無事です」と口にして、アルカディオは心底からホッとした。
「二人とも、変わりないですか」
「サリースリー殿はつい先ほど、目覚めたばかりです」
リコの返答に、アルカディオは困惑した。まさか、眠っていたというわけでもないだろう。幕舎の外から差し込む光を見れば、昼間なのは明らかだ。
そのアルカディオの困惑を察したリコが顛末を話してくれた。
サリースリーが龍となり飛び去り、次にはアルカディオのそばに倒れて、いつまでも目覚めなかった。
にわかには信じられなかったが、夢のことをアルカディオは鮮明に覚えていた。
実に奇妙な、古の時代の光景の夢だ。
その中に龍であるアルスライードが出てきて、問答をした。
アルスライードといえば、サリースリーはアルスライードと深いつながりがある。
そのことを加味すれば、サリースリーが何らかの魔法で龍となったこともありうるかもしれない。龍というのは、人間の常識では計れないものだ。
「負傷したものが」
ターシャの背中を撫でながらリコが言った。
「魔物の毒が消えた、と話しておりました。アルカディオ様と共に戦ったものです」
「毒が消えた?」
「龍のようなものが光の息吹で魔物を滅ぼした時に、それが起こったそうです。光に飲まれて、自分も死ぬかと思ったがそうはならなかった、と口にするものもいました。もちろん、誰もが奇跡として受け止めています。私も、にわかには信じられません」
その言葉に含まれる畏怖に、アルカディオは頷くしかできなかった。
アルスライードはアルカディオに、助けることはないと言った。
しかし助けてはくれたのだ。
感謝するべきだろう。アルスライードに。もしくはサリースリーに。
幕舎に人が入ってきて、そちらを見るとアールだった。両手に食器を持っている。
「おっと、お目覚めでしたか、アルカディオ様。食べますか?」
噛みつかんばかりの視線をターシャに向けられても、アールは軽い足取りで近づいてきて、さっと食器を差し出した。アルカディオはなんとなく受け取り、器の中にある雑炊のようなものを見た途端、激しい空腹に気づいた。
どうぞ、とアールから渡された匙を手に取ると、雑炊をすくって口へ運ぶのをやめるのは難しかった。
食事を始めたアルカディオの横で、突っ立ったままアールが自分の分を食べ始めた。リコが「私たちの分はないのですか」と問いかけるのに、もごもごと「手が二つしかないもので」とアールは答えている。
不意に日常が回復したような錯覚があり、アルカディオは思わず笑ってしまった。
リコとターシャが足早に幕舎を出て行き、アールと二人でしばらく黙々と食事をした。
「俺が見てきた話をしなくちゃなりません」
アールが何気ない口調でそう切り出した話に、アルカディオは意識を集中した。
死者の峠、冥府の門、そして闇の峰。全てが伝承通りであり、今も魔物はそこから生まれている。
何より、魔剣らしい存在がそこにある。
「というわけで」
アールが匙をアルカディオに向けながら言う。やや無礼だったが、咎める必要はないだろう。
「剣聖騎士団から闇の剣を破壊する任務を帯びた、決死隊が組織されると思います。ルーカス殿が話し合いの様子を見に行っています。まぁ、あの方は今、実際的な黒の隊の指揮官でもあります」
ハッとしたアルカディオは、思わず食器を落としそうだった。
指揮官。黒の隊を指揮していたのは、ストラだった。
ストラはどうしたのですか。
そう聞けたら、どれだけ楽だっただろう。ストラはここにはいない、そして、アルカディオは確かにストラが戦死する場面を見た。
自分の力が足りなかった。
誰もそんなことは言わない、アルカディオを否定しないが、事実だった。
「アルカディオ様」
気づくと、アールは真剣な面持ちで、アルカディオを正面に見ていた。
「ここでやめることもできます。あなたはカル・カラ島にでも戻ればいい。あそこまで魔物が到達するのは当分先でしょう。しばらくは休める」
「……何故、そんなことを言うんですか」
「それはね、アルカディオ様、あなたが疲弊していように見えるからです。心が摩耗し、今にも折れそうになっている。違いますか」
答えられないことが、答えだった。
もうこれ以上、誰かが死ぬところは見たくない。傷つくところも。涙を流すところも。
しかし、逃げても意味がないのも自明だった。
アルカディオが戦わなければ、別の誰かが戦い、戦場で倒れることになる。
「逃げるわけにはいきません」
そう答えるアルカディオに、しばらくアールが視線を注ぎ続けた。
「耐えられますか」
何に、とアールは言わなかった。
悲劇の全てに耐えられるか、全てを背負って戦い続けられるか、それを問いかけているのだ。
「戦うことが」
アルカディオは一度、言葉を切った。
ベッテンコードが自分をこの世界に求めた時、そこにあるいは愛情は存在しなかったかもしれない。
子孫が欲しかったわけではない。友人が欲しかったわけでもない。理解者が欲しかったわけですらない。
ただ、技術、戦う術を継承し、実際に剣を振るう存在を求めたのだ。
自分の代わりに敵に打ち勝つものを。
「戦うことが、使命です」
そうですか、とアールは囁くように言った。響き方に、憐れみのようなものがあったがそれも言葉同様、すぐに消えた。彼は一転して明るい口調で言った。
「アルカディオ様が寝ている間に、まぁ、いろいろありましてね。ターシャ殿は何かあるとすぐに涙をこぼし、リコ殿も離れようとせず、サバーナ殿も頻繁にやってくるし、賑やかなものでしたよ。戦場とは思えなかったな」
冗談で空気をほぐしてくれているらしい。アルカディオも少しだけ笑うことができた。
重苦しい話題や思考ばかりでは息が詰まり、行動できなくなる。それをアールは知っているようだ。時には楽天的な発想が思考を柔軟にし、新しい発想を呼び込むものである。
そうこうしているうちに、ルーカスがやってきた。彼の表情に明るいものが刹那だけ、浮かんだが、すぐにいつも通りの生真面目なものへ戻る。
「回復されて何よりです、アルカディオ様」
「心配をおかけしました、ルーカスさん。もう大丈夫です」
「お話しすることがあります」
それからルーカスが話したのは、アールから聞いた話とほぼ同じだった。
決死隊と、それに加わるものの話。イダサもカスミーユも参加するという。つまり剣聖騎士団の最も濃い部分を闇の峰にぶつけようというのだ。
「僕も行きます」
そうアルカディオが即座に言うのに対し、ルーカスはアルカディオの目を覗き込むようにした。
「お止めはしません。しかし楽な戦いではありません」
「承知しています」
答えながら、本当に自分が納得しているかは、アルカディオにはわからないままだった。仲間を死地へ送り出し、自分だけが安全な場所にいたくはない、という発想もあった。仲間を守りたい、という思いもあった。
闇の峰の魔剣の破壊は、とルーカスが言葉にするのを、アルカディオは整理のつかな心情のまま、ただ聞いた。
「伝承の通りなら、破砕剣が必要です。そして破砕剣を振るえるのは、この世でただ一人、アルカディオ様です。誰も口にしませんが、私は口にしておきます。アルカディオ様、あなたは逃げることはできません。何があろうと、最後の戦場に立たなくてはいけないのです」
どうか、お許しを。ルーカスが深く頭を下げた。
アルカディオはその様子を見て、ただ頷き、ただ「承知しています」と同じ言葉を繰り返した。
決死隊とは、アルカディオの盾でもあるのだ。
アルカディオを守るためなら命を投げ出すことも辞さない集団。
正常ではない。
そんなデタラメな使命を背負えるものなど、そうはいない。剣聖騎士団ですら、怪しいだろう。
もし、それができるとすれば、アルカディオが彼らの命に見合う存在であると、そう示すしかない。
でも、どうやって?
方法は皆目、見当がつかなかった。
ただ戦うしかできないのに、それで、誰かに命を差し出させることが可能なのか。
「三日後には出撃です」ルーカスはまるでアルカディオに思考する間を与えないように話を進めていく。「黒の隊は全員が参加します。これからアルカディオ様の参加をファルス殿に報告しますが、ご自分で行かれますか?」
行きます、とアルカディオは寝台から地面に降り、自分がしっかりと自分の足で立てることにまず安堵した。
着替えを済ませ、背中に破砕剣を背負う。
そうして幕舎を出ると、いつの間にか忘れていた戦場の空気がそこにあった。
戦いを終えたものが座り込み、あるいは横になって休んでおり、その間を傷の手当てをするもの、水や食料を運ぶものが忙しなく行き交い、声が飛び交う。次に戦場に立つ部隊が十人隊なのだろう、小さくまとまって何かを話している。
そういう全てを見ながら、アルカディオは指揮所の方へ歩いていく。
空気にうっすらと異臭が混ざる。陣地のはずれで、戦死者を焼いているのだ。疫病の蔓延を防ぐためだろう。
これ以上の悲劇を食い止めること。
アルカディオの頭の中にその思いが浮かび上がってきた。
終わりにしなくてはならない。
ベッテンコードの後継者として。
アルスライードと繋がるものとして。
剣聖として。
一人の剣士として。
指揮所の前で、ファルスとローガンが立っていた。
そこへゆっくりと、アルカディオは歩を進めた。
(続く)




