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剣聖の弟子の冒険  作者: 和泉茉樹
第三部 魔剣戦争
134/155

2-18 奇跡

       ◆


 何が起こったか、すぐには理解できなかった。

 頬に湿ってざらついた感触。

 土だ。

 アルカディオは地面に倒れている自分にやっと気づいた。起き上がろうとするが、体がうまく動かない。いや、激しい脈動が体を打ち、傷が修復されていく。体の感覚は徐々に取り戻されていったが、それでも起き上がるのには気力を必要とした。

 片手は強く、剣の柄を握りしめていた。

 聖剣。破砕剣。

 剣を杖ついて切っ先を地面に食い込ませ、上体を起こすと周囲の状況が見て取れた。

 黒の隊のものたちがアルカディオの周囲を囲み、魔物の猛攻を支えていた。しかし数は激減している。地面に倒れている者が何人もいた。彼らは動かない。震えてさえいない。

 聖剣に力があれば。

 アルカディオは奥歯を噛み締めた。

 もし、イダサの使う生死剣のような力があれば、瀕死の深手を負っているものを救うことができる。

 もし、カスミーユの使う天地剣のような力があれば、魔物の群れを一挙に殲滅して部下を助けることができる。

 しかしそのどちらも、アルカディオには使うことのできない力である。

 破砕剣はこうなっては、ただの頑丈な剣に過ぎなかった。

 決して欠けず、折れることのない聖剣。

 それだけだった。

 立ち上がろうとしたアルカディオがぐらりと揺れる。きわどいところで踏ん張ってこらえた。

 黒の隊の一人が振り向く。その顔に喜色が浮かび、次の瞬間、彼の胸を魔物の爪が深く抉った。

 それでも彼は諦めず、返す一撃で魔物を倒し、次の魔物へ向かっていく。

 傷が、毒が、彼を殺しつつあるにも関わらず、彼は戦い続けている。

 他のものも同様だった。傷を負っても、魔物に向かっていく。

 気づいてしまった。

 アルカディオは一つの事実に気づき、愕然とした。

 黒の隊は、アルカディオを守っているのだ。アルカディオを生きながらえさせるために、絶望的な戦いを継続している。

 やめてくれ。

 かすれた声がアルカディオの口から漏れるが、あまりにも頼りなく、言葉にはならかった。

 ストラが振り返り、何か叫ぶ。

 アルカディオには聞こえない。目を覚ましてからずっと、耳が聞こえていなかった。

 剣が翻り、ストラの鮮やかな技が魔物を次々と斬り払っていく。

 魔物がストラに突っ込んでいく様は、アルカディオにも見て取れた。

 援護しなくては。

 足を踏み出し、力が入らず転びかける。

 顔を上げた時、ストラは同時に三体の魔物を相手にして、瞬く間に二体を切り捨てた。

 そして彼の剣が、甲高い音をたてて折れた。

 三体目には切っ先が届かない。それとすれ違うように、魔物の長い爪がストラの胸に吸い込まれていった。

 体を震わせたストラの背中から赤く染まった爪が飛び出し。

 ストラが叩きつけるように折れた剣で魔物の頭部を粉砕し。

 続けて押し寄せた魔物の群れがストラを跳ね飛ばし、転がった彼は踏みつけられ。

 そして見えなくなった。 

 ターシャがそこへ果敢に飛び込み、防御が崩れるのを防ぐ。しかしターシャは体力が限界に達し、鉈の筋が乱れ、魔物の爪が腹部をえぐっていく。

 倒れかかりながら、彼女の鉈が襲いかかる魔物を打ち据えるようにして跳ね除けた。

 誰も彼もが叫んでいるが、アルカディオには聞こえない。

 もう終わりにしたい。

 自分がいる理由が、途端に分からなくなった。

 自分がここにいるせいで、大勢が命を失っている。

 剣聖は守護者のはずだった。

 しかし自分は守護者ではなく、むしろ仲間を死地へ追いやる死神だった。

 逃げろ。

 そう叫んでも、声にならない。

 そして誰にも通じない。

 また一人、黒の隊のものが倒れ、いよいよ防御の陣形の維持が困難になった。

 終わりだ。

 全てが無駄になってしまった。

 ベッテンコード先生。

 ごめんなさい。

 アルカディオの胸の奥でその言葉が囁かれた時。

 不意に周囲が明るくなった。

 アルカディオもまた、その場にいた人間、そして魔物も同様に、頭上を振り仰いだ。

 光を放つ巨大な存在が、宙に浮いている。

 一対の翼が優雅にうねり、長い首をたわめたその存在は、トカゲにも似た頭部を頭上に向け、咆哮を上げた。

 その轟音が、アルカディオの聴覚を復活させる。

 龍だ、と誰かが呟いた。

 龍。

 アルスライード。

 アルカディオが見上げる先で、龍の開かれた口腔から激しい光が漏れ始める。

 龍は躊躇いなく、その光を大地に叩きつけた。

 激しい光の奔流に包まれながら、アルカディオは意識を失った。


      ◆


 こいつはまずいぞ、とアールがいつになく緊張した声で言うのを、リコは背後に聞いた。

 前方では正体不明の真っ白い光が立ち上がっている。サリースリーが飛び去った方向だ。

「あれは何ですか」

 質問したのは、ウラッススという男だった。

 リコとアール、ルーカスで駆けている途中に合流することになったのは、元は黒の隊の一員だというウラッススという男と、彼の配下の義勇兵だった。

 リコたち三人は先を急いでいたが、魔物に行く手を阻まれていた。そこへたまたまやってきたのが、ウラッススたちだったのである。彼らは正体不明の強い光が気になってやってきた、と話していたから、サリースリーが龍に変じた時の発光が三人とウラッススたちを引き合わせたことになる。

 ルーカスは唐突にウラッススが現れたことでだいぶ驚いていたようだが、最初、同行を拒否しようとしていた。それはあるいは、ウラッススが黒の隊の一員でありながら今まで戦場ではないところにいることに、ウラッススの怯懦を見たからかもしれない。

 その点はウラッススも心得ていたようで、どうか部下だけでも連れて行ってくれ、と言い出した。

 それさえもルーカスには不快だったようだが、リコが問答の時間などないと指摘してやると、選ぶべき行動に気づいたようだった。

 義勇兵だと名乗る以上、覚悟はあるだろうし、リコたち三人だけで魔物の攻勢を抜けていくのは至難である。だったら仲間を増やすべきだし、その方が目的地に早く辿り着けるはずだった。

 アールが「リコ殿に感謝しろよ」というのに、ウラッススは嬉しそうに笑っていた。

 もっとも、和んでいる暇などなかった。

 ウラッスス隊は全員が馬に乗っているが、それほど質は良くなさそうで、中には明らかに年老いた貧弱な馬もいる。置いていかれても構わない、とウラッススが決めたことで、もはやリコたちは遠慮をやめた。

 今はとにかく、サリースリーを追うしかなかった。

 そうして走り続けている間に、前方で光が炸裂したのである。

「魔法でしょうか」

 リコと並んで駆けているウラッススの言葉に、「知るわけなかろう」と前方でルーカスが答える。彼の馬が一番、足が速い。もっと先行できるはずだが、ルーカスであっても単騎で魔物の集団と遭遇すればひとたまりもないのが現実だった。

「あんな魔法は聞いたことがない」

「無駄口はやめた方がいいぞ、ウラッスス殿」

 やはり普段通りではない苛立った口調でアールが指摘すると、失礼、とウラッススは謝罪した。

 誰も何もしゃべらないまま、馬は駆け続ける。

 前方では光が明滅を繰り返し、やがて完全に消えた。


     ◆


 なんてことだ、と自分が呟いたことにローガンはすぐには思い至らなかった。

 緑の隊が負傷者を回復させる時間を稼いだ後、ひたすら野戦陣地へ向かって駆けていたのだが、南西の方角から光の塊が飛んできたかと思うと、ちょうど前方の空で静止した。

 そしてその何かから、地面に向かって光の奔流が吹き付けたのを、ローガンたちは移動しながら目撃した。

 光の塊の中に、巨大な何かが見えたが、よくわからないまま、やがてそれは消えてしまった。

 その時にはローガンたちはかなり光が吹き荒れた地点に近づいていたが、待ち受けていた光景は予想外だった。

 地面に人が幾人も倒れている。

 だが、魔物の姿がない。

 あるのは大量の灰だった。

 その一帯からは魔物が一掃されている。魔法だとしても、その規模は人間にできることではない。カスミーユでさえも不可能だろう。なら、先ほどの光が起こした結果だろうか。

 いったい、何が起こったのか。

 数名が立ち尽くしているところへ駆け寄ると、彼らが黒の隊のものだと気付いた。

「負傷者を集めろ!」

 馬から飛び降りながらローガンが声をかけると、彼らはやっと気を取り直したようで「アルカディオ様が」と口にした。

 それを早く言え、とは口にせず、ローガンはアルカディオの姿を探した。

 いた。

 倒れている。意識を失っているようだ。すぐそばにも黒の隊のものがやはり幾人も倒れ、呻き、震えている。

「イダサ様!」

 反射的にローガンが叫ぶのとほとんど同時に、イダサが駆けつけてきた。

「聖剣を使います」

 短い言葉の後、イダサが素早く生死剣を抜いた。

 刃が光に包まれ、それが周囲を照らし始める。瞬く間に周囲に無数に倒れている人々を飲み込んでいく。

 それを見ているローガンは、先ほどの激しい光とどこか似ているような気がした。

 聖剣と同等の力とは、何者が行使したのか。

「ローガン殿」

 唐突な声にローガンは我に返った。

「なんだ?」

 とっさに答えて振り返って、思わずローガンは息を飲んだ。

 そこにいるのは部下ではなく、見知らぬ兵士で、ただ腕にさりげなく白い布を巻いている。

 白の隊、ということか。

 彼はローガンの驚きなど気にした様子もなく、言葉を続ける。

「サリースリー殿を預かっていただきたい」

「サリースリー? 誰だ?」

「アルカディオ殿の麾下です。強力な使い手です」

 アルカディオにそんな麾下がいるとは聞いたことはないが、話をしている暇はなかった。

「連れてきてくれ。あまり長居はできそうにないが」

 白の隊のものは頷いて、駆け出していく。

 イダサの操る生死剣が鞘に戻った時には、黒の隊のもので負傷していた二十名ほどが憔悴した顔つきながら、立ち直っていた。その他にも、ターシャという名前のアルカディオの麾下の姿もある。

 彼女はアルカディオのそばから離れないし、すぐそばにサリースリーというらしい少女も寝かされていた。

 そうなのだ。生死剣が行使されたはずだが、アルカディオもサリースリーも目を覚まさない。

 しかし、これ以上の長居は不可能だった。魔物の集団が遠くの丘の上に見えている。すぐに迫ってきそうだった。

 ローガンは号令を発して、全体を動かすことにした。

 野戦陣地へ戻らなくては、敗北以外の道がない。

 先ほどの正体不明の奇跡は、二度と起きないはずだ。

 奇跡を当てにして戦うのは馬鹿げている。

 ローガンは馬を駆けさせながら、奇跡にすがりそうになる自分をたしなめていた。




(続く)

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