1-12 重荷
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巨大な白い岩はどうやら生物であるようだった。
しかし、とてもまともな生物ではない。
それにしては巨大だ。やっと白い岩の全てが頭部だとわかったけど、人の背丈より高さはあるし、奥行きはよく見えない。どうやら体の大半は埋まっているようだ。
まさか、これが龍? 古から生きるという?
(人の模造品よ、お前の考えていることはよくわかる)
また声が響く。しかし空気は震えていない。声じゃなく、思念それ自体が届いているようだ。
「よくわかるって、どういう……」
恐々と訊ねると、巨大な眼がわずかに細められる。
(お前は私の一部だからだよ、模造品)
私の、一部……?
反射的にクロエスに目をやっていた。彼は食事を続けていたようで、サンドイッチの最後のかけらを口に放り込むと、もごもごと判然としない発音で答えた。
「彼の言う通りだよ、アルカディオ。君は彼の一部なんだ。僕はこの島に逃れて、龍について徹底的に調べて、こうして龍そのものと知遇を得るに至ったわけだ」
知遇を得る? 龍と?
そんなこと、ありえるだろうか。
魔法使いの中には精霊や魔物と交信する者がいると数日前に、館の一室で教えてくれたのはクロエスその人だった。その時に彼は「半分は虚偽だね」と切って捨てていた。
龍と知遇を得るのも、虚偽と思うものが大半だろう。
だけど僕は今、こうして龍そのものを前にしているわけで、目と鼻の先で龍と錬金術師は意思疎通している。
(信じられぬかな、模造品よ。龍というものを疑っておるのか?)
「い、いえ、滅相もない……あ、いや、失礼しました、滅相もありません」
(へりくだる必要は無い。私も今や、岩となりつつある)
同じことが聞こえているのだろう、クロエスが口元を隠して笑う。
「龍が岩になるというのも滑稽だね。アルスライードは岩に埋もれて、どれくらいだったかな」
(人間の手品師風情にからかわれるとは、私も落ちたものだ。それに岩に埋もれているわけではなく、自らを封印したのだ。一二〇〇年前にな)
なんだって? 今、一二〇〇年前、そう言ったのか?
(その通りだよ、模造品。私は一五〇〇年余りを生きてきた。私がこの世に生まれた時、文明などなく、また都市などというものもなかったな。いや、あの後に生まれた文明も都市も、魔物どもによって潰えたが)
……何もかもの尺度が違いすぎる。
えーっと、ここへ来る道すがら、クロエスは何と言ったか。確か、魔法使いは一〇〇〇年という時間をかけてその技を磨いた、というようなことを言ったはずだ。龍はそれよりも古くから存在することになる。
そして龍が言っていることが本当なら、魔物も実在したわけで、それで、どうなるんだ……? 聖剣は本当に伝説の通りの出自の武器で、特殊な、極めて特殊なもの、ということかな……。
まったく思考がついていかない。
どうなっているんだ?
(模造品よ、取り乱すことはない。どうせ人の世だけではなく、この世界それ自体がいつかは終わるもの。生きてみれば、一〇〇〇年も一五〇〇年も大した違いはない。川として水が流れるようなものだ)
……五〇〇年は大きすぎる期間、果てしない時間なのでは?
「という訳でね」
クロエスが軽く手を打って、ちょっと声を張った。
「アルカディオ、きみにはこの古の龍、アルスライードの鱗を移植してある。一二〇〇年を経ても決して朽ちることなく、またそれ以降も決して朽ちることのないであろう、龍を形作るものがきみの根幹には組み込まれている」
龍の鱗。
「そのせいで、僕は不死だって、クロエス先生は言いたいんですか?」
「そう」
「でもどうやって、効果があるってわかったんですか? 先生は前、言いましたよね。僕は最初の試作体だって。あれは、嘘なんですか? 僕が生まれる前には、その、多くの……」
犠牲があったんですか?
そう言いたかった。
でも言えなかった。
目元が見えなくても、クロエスが少し寂しそうな顔をしたからだ。
僕はぐっと言葉を飲んだ。
彼を悲しませるのは間違っている。それは記憶がなくても、人じゃないとしても、わかる。
わからない方が、どうかしている。
「アルカディオ、きみが試作体の最初の一体なのは事実だよ。ただ、実験はした」
クロエスがそう言ったところで、まるで助け舟を出すように思念が頭の中に流れ込んだ。
(師を悲しませるものではないぞ、模造品。私とそこな手品師とで、様々なことを試した。私自身の一部を切り離すまで、多くの困難があり、またそれに伴い悲劇もあった。その報いは手品師だけではなく、私も受けるべきであろうな)
クロエスは口をつぐみ、アルスライードという龍も黙った。
僕は何も言えず、足元を見ていた。
(生命の線引きとは難しいものだ)
深い響きの思考が流れてくる。
(人間は植物を食べることもあれば、動物を食べることもある。我らのような岩とは違うのだからな。では、植物という生命、動物という生命に、どれだけ思いを馳せるだろう。私が知っているところでは、人は植物にも動物にも、何の痛痒も感じない。植物を殺し、動物を殺し、しかし食すわけでもなくうち捨てることも多い。虚しいことよな)
僕はもちろん、クロエスも答えなかった。
龍の指摘はおそらく、あることだ。
人間は植物はもちろん、動物にも一顧だにしないで日々を過ごす。生きていると認識することもともすると忘れてしまう。
僕がさっき食べた厚切りハムは、きっと元は豚としてどこかで飼われていた。
僕がさっき食べた鶏卵だって、鶏が産んだのだ。もし育っていれば、ひよこになり、鶏になったかもしれない。
それにきっと人間は、目の前にいる人間がいつまで生きているのか、そんなことを心配したりはしない。明日もいるだろう、を積み重ねていくのが人間の日々だ。そして誰かが永遠にいなくなった時、初めてその存在の大きさ、重さに気づく。
手遅れだ。
でも、不安や恐怖に怯えて日々を過ごすわけにもいかない。
僕が生まれるまでに何があったのかを、クロエスも、古の龍も詳細には教えないだろう。
知ってはいけないことだからだ。
僕の重荷を、彼らは軽くしてくれている。今でも僕の過去にまつわる重荷はある。でもそれは想像しているだけのこと。事実として知ってしまえば、途方も無い重荷に変わるはずだ。
(良いか、模造品よ)
龍の瞳が僕を映す。
(お前は生きているのだ。今、生きている。ならば、生き抜くべきだろう)
まったく、その通りじゃないか。
僕が自分の出自について悩む時期は、もう過ぎ去ろうとしている。
知るべきことはおおよそ知ったと思う。
わからないのは、生きる目的、生きる理由だった。
それさえも、今、龍が単純な言葉で与えてくれていた。
目的とか理由とか、そんなことを考えずに、ただ生き抜けばいい。
龍はそう伝えてきたのだ。
「ありがとう、ございます」
どうにか僕は言葉にした。
不思議と感謝しかない。怒りも憤りも気づくと遠く感じれた。
僕はクロエスの方に向き直り、もう一度、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。
慣れないなぁ、とクロエスは笑ったようだった。
「もっと罵ってくれると、僕も楽なんだけど」
錬金術師に笑みを向けてから、僕が向き直った時にはもう古の龍、アルスライードは目を閉じていた。
(行け。私の一部が、お前を見守ることとなろう)
それきりもう、言葉はなかった。
龍は瞼を閉じたまま、微動だにしない。まるで岩そのものになってしまったようだ。
帰ろうか、とクロエスが僕のそばに来て肩を叩いた。
頷き返したけど、疑問がある。
私の一部って、何のことだろう? どういう意味なんだ?
(続く)




