断章 偵察行
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アールは岩の陰、その起伏に張り付くようにして周囲をうかがっていた。
野戦陣地を早朝に抜け出したが、人間の目から逃れることはできても、魔物の目から逃れることはできなかった。
魔物は目で相手を捕捉するだけではないらしい。鼻が利くし、耳もいい。もしかしたらその目は熱のようなものを見ているかもしれない。
ただ、アールに味方したのは魔物の数の多さだった。
そこらじゅうに魔物がいるがために、アールの発する臭いは魔物自身の臭いに紛れたし、アールが立てるかすかな音は、魔物たちが地面を蹴りつけ、唸り声を上げ、時には吠えることで、あっさりとかき消された。
アールは白の隊の数人の援護を頼りに魔物の群れの密度の高いあたりを抜けて、すぐに身を隠した。魔物の数が少ない場所で、全くいないわけではないが、戦い続けなければいけない、というほどではない。
じっとして黙っていれば、魔物たちは意味不明な鳴き声を発しながら通り過ぎていく。
いったい奴らは何が目的で、どこへ行くのだろう。
素朴な疑問がアールの脳裏をよぎる。ソダリア王国の東の果てから西へ向かっているようだが、何か意味があるのか。いや、北や南、おそらくさらに東へと一部は向かっているはずで、結局、魔物はこの大地の全てを勢力下に置く、という意思がある、ということか。
アールはファルスから聞いたことだが、人語を解する魔物がいるらしい。もっともファルスも実際に見たわけではなく、赤の隊からの報告があったという。
それを聞いた時、それまで魔物には知性などなく、また統率も群れをなす動物程度のそれだろうという思い込みを、アールはあっさりと捨てた。
魔物の中にも知性のあるものがいる。これは魔物の呪いじみた毒や、数の多さ、恐怖を感じない様子より、重大なことである。
人間の兵士は、例えば指揮官が敗勢の中で無謀な命令を出すと、一部は決死の覚悟で実行するかもしれないが、一部は間違い無く、逃げる算段をする。総崩れとはそういうものだ。全体が諦め、逃げを打つことである。
では、魔物ならどうか。
魔物はおそらく、ほとんどは知性を持たないから、決死の覚悟など無くとも衝動のまま、本能のままに行動する。そして同時に、恐怖を抱かない。
そんな存在を統率するものがいるとすれば、その統率の下に動く魔物の集団は、人間の軍隊に存在する弱点がない、極めて手強い集団となる。
彼らは逃げない。彼らは躊躇わない。彼らは考えない。
だから、死ぬまで戦う。死すら恐れない軍団が完成する。
アールはじっと魔物の様子を覗き見ながら、魔物をどうすれば効率的に倒せるか、思案していた。移動しようにも、魔物の目を盗める時を選ぶ必要があるから、ほとんどは周囲の観察の時間なのである。考える時間は十分すぎるほどある。
しかし、考えても、答えは容易に見つからなかった。
一体の魔物を倒しても、十体を倒しても、もしかしたら一〇〇体を倒しても、彼らには響かないかもしれない。
そんな敵を相手にすることは、間違っているということか。
アールの結論は結局、彼が野戦陣地を抜け出した理由に結びつくのだった。
魔物の出現はとどまるところを知らない。
それでもどこかから、魔物は湧いているはずだった。そこを探す。人間がこの争いに勝つためには、魔物が出現する根源を討つしかないのだ。
魔物が途切れたところを狙って、アールは小走りに斜面を駆けた。
向かうは東。
アールは足早に、ほとんど休むことなく東へ移動し続けた。
緊張の数日の間に、みるみる周囲の光景は変わってくる。
東部山脈は古木ばかりで、ほとんどが枯れている。葉が落ちている季節だが、地面には枯葉の一枚もない。
もともとから東部山脈の一角はこのようなものだと、アールはかつて、旅の中で聞いていた。
何故か草も生えない一角。
そこを人々は、闇の峰と呼んでいる。
アールはその闇の峰へ上がろうとしていた。魔物の数が多い方へ向かうと自然とそうなる。目を盗むのは至難になっていくが、そうするよりない。
古の伝承は、アールも幼い時から聞いている。
かつて魔剣がこの世界に存在し、人間は龍と手を組んでそれに対抗した。
魔剣は闇の峰に封じられ、世界には平和が訪れた。人間と共闘した龍たちは去っていき、今は存在しない。
幼いときは胸をときめかせたものだったが、長ずるに連れて空想だと思うことも増えた。
だが、この魔物の出現を前にすれば、伝承は決して作り話ではないとも思えた。
「アール殿」
岩に張り付くようにして前方をうかがっていたアールは、すぐそばに気配が唐突に生じても慌てはしなかった。白の隊の隊員はこういうことを平気で実行する。気配を完全に消す技能が彼らの持ち味だ。
「なんだい?」
かすれるほど小さな声で確認すると、返事があった。
「ここは死の峠です」
思わぬ言葉に、アールは視線を白の隊のものへ戻した。相手は無表情のまま、アールを見ている。
死の峠……?
その言葉は知っている。伝承の、おとぎ話の中にあるのだ。
「まさか、この先に冥府の門とかいう場所がある、とは言わないよな?」
アールの言葉に、白の隊のものは「その通りです」と応じる。
嘘だろう、と思わずアールは漏らしていた。
かつての魔剣との戦いにおいて、闇の峰で最後の決戦があったというのが、童話の結びだ。その前に、人間と龍たちは大量の魔物と戦いながら、まず死の峠を抜け、冥府の門を抜けることで、闇の峰にたどり着く。
改めてアールは前方を注視した。
長い時間を経たせいだろう、死の峠と言いながら、ただの枯れ木が並ぶ斜面だ。ただ魔物はそちらからやってくるものが圧倒的に多い。想像できない数の魔物が踏み固めたせいで地形が変化しているようで、魔物の移動が比較的自由なのか、と少しアールは現実逃避に走った。
しかし、バカな。
魔物は進みやすさなど気にしないに違いない。
ここが死の峠。
その先が、冥府の門。
目の前の斜面を越えると、その先にわずかな窪地があり、また斜面が続いているようだが、遠目に見えると岩が無数にあるのが見て取れる。
あの岩場が冥府の門? あの岩場にたどり着くには、と周囲を念入りに見たが、まずは眼前の斜面を抜けるしかない。少しずつ周囲がわかってきた。
結局、斜面にあるかないかのくぼみ、岩場にたどり着くにはそこを抜けるのが最短に思えてきた。アールは内心でひとりごちた。
伝承のままか。死の峠を突破し、冥府の門に辿り着くのが最短距離。そして冥府の門を抜けるのが闇の峰への最短距離。
しかし、とも思う。
魔物の群れを正面から押し切って、それでどうなる? 包囲され、押し潰されるのではないか。
攻略法は容易には見出せなかった。
アールはそこで考えることを中断した。どう攻めるかは、ファルスなりイダサなりが考えればいい。ローガンでもいい。アール自身は指揮官ではないし、その役目を負う気もなかった。
自分の役目は別にあると心に決め、アールは白の隊のものを振り返った。その時、何かが引っかかった。何かが見えた気がしたのが、視線を巡らせてもわからない。
何を見たんだ?
自分に問いかけても、答えは見つからなかった。
「行こう」
もやもやとしたものを振り払うつもりで、アールはそう言葉にした。
死の峠らしい場所を抜けるのには、夜を待つしかなかった。魔物も夜には行動が鈍くなる。目が見えないのかもしれなかった。それはアールも同じだが、夜目がわずかに利く。それを頼りに斜面を這うように進み、魔物がそばに来れば地面に張り付いて同化した。
そんなことをしているうちに夜明けが近くなり、空が漆黒から濃紺へと変わる。
アールは一人きりで冥府の門らしい場所の、不自然な形の岩の陰に身を潜めていた。食事をする余裕があるわけもなく、水をわずかに飲んでいた。ここでは水を手に入れることもできない。何もかもが自由にならない。
一睡もしていないが、疲れは感じなかった。
日が昇るまでの間に、ついにアールは冥府の門を抜けた。
不思議なことに、魔物の数が減った。それでも用心して、アールは慎重に進み続ける。
斜面の傾斜が緩やかになり、前方が開けた。
赤い。そして、熱い。
煮え滾る岩が真っ赤に溶けて斜面に筋を作っている。空気の熱は真夏さながらで、アールの肌を焼くようだった。
ここが、闇の峰か……。
身を隠すものを探したが、わずかな起伏があるだけで、何もない。
覚悟を決めて、周囲に注意を払って先へ進む。
ここに何かがあるという確信が、アールのうちに生じていた。
燃える岩のすぐそばを抜ける時、遠いところで何かが光を反射しているのが目に付いた。
しかし、アールは最初、錯覚による誤認だと思った。
宙に浮いているような位置だからだ。
改めて視線を配り、アールは息を飲んだ。
浮いている。間違いない。
自然に存在する物体で宙に浮いているものなどほとんどない。魔法を使えば別だが、それでも珍しい。
そちらへ足を踏み出す。
何か、棒のようなものだった。
進むうちに、周囲を炎に囲まれるような形になった。逃げ場はない。
アールの視線は前だけを見ていた。視線が吸い寄せられ、他のものが見えなくなる。
浮いているのは、棒ではない。
剣だった。
周囲が眩しい。その光が強すぎて、よく見えない。
もっと近づかなくては。
「アール殿」
不意な声に、アールは我に返った。
自分は今、何を考えていた? まるで、誰かに操られていたような。
ひときわ強い光に、アールは目を細めた。
浮いている剣がはっきり見えた。刃が、黒い。金属には見えない。闇を切り取ったような、そんな質感だった。そう、物体とも思えない。
アールは恐怖を感じた。ここにいてはいけない。踏み込み過ぎた。違う、誘い込まれた。
一歩、足を引いた時、すぐそばを流れる燃える岩が急速に膨れ上がった。
泡立って弾けた、のではない。
溶けた岩はゆっくりと立ち上がると、それが魔物へと姿を変じている。
謎が解けた感動は、アールの中にはなかった。
湧き出す燃える岩が麓まで流れないのは、そのほとんどが魔物に変じているからだった。
魔物は地面から湧き出しているも同然で、おそらく、尽きることはない。
このことを伝えなければ。
アールは身を翻して走った。必死に走った。
周囲では無数の魔物が生まれ、アールを取り囲もうとしてくる。
斜面を下る。足を取られそうになるが、どうにか姿勢を取り戻す。
足を止めたら殺される。それは絶対だった。
どれだけを走ったか、前方で地面が途切れている。
崖だった。
振り返るとすぐそこに魔物が迫ってる。
考えている暇はない。
選べる道もない。
「神よ」
アールの口から自然と祈りの声が漏れる。
その声を残して、アールは地面を蹴りつけていた。
体が宙に浮き、落下を始める。
アールは最後まで目を見開いていた。
(続く)




