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剣聖の弟子の冒険  作者: 和泉茉樹
第三部 魔剣戦争
105/155

1-3 研究

       ◆


 東部山脈の一角での激戦の最中、イダサは部下四名を集めて、一つの幕舎に入った。

 最前線での戦闘は主に赤の隊と予備隊が受け持っている。これは当初から予想されたことで、もっと前の構想では黒の隊も白の隊もこの場にいるはずだったが、それぞれが今は分散しており、当てにはできない。

 緑の隊のものも剣を取るものが多く、もはや剣聖騎士団に余力はない。

 ファルスが真剣な顔で輜重隊の警護も難しいと口にするほど、今は一人でも兵士が欲しいのだった。

 そんな中でイダサはここで自分を含めた五名で、秘密裏の作戦を始めようとしている。この作戦、計画のことはファルスにも、カスミーユにも伝えていなかった。緑の隊は指揮官を必要としない性質があり、個々人でできる限りの医療を施すので、イダサの不在は影響がなかった。

 ともかく、イダサは部下に幾つかの指示を出し、部下たちはどこか青ざめた顔でそれに頷いた。

 イダサが幕舎で待っているうちに、部下が三々五々に戻ってきて、それぞれに収奪したものを並べた。

 それは、魔物の腕だった。見ている前で切り落とされた断面の方から塵に変わっていってしまう。

 急ごう、とイダサは言ったが、とても軽い調子の口調にはできなかった。

 切り落とされた魔物の腕を掴み、その爪を自分の腕に押し付ける。

 勇気が必要だったが、イダサ自身が安堵するほど、呆気なく魔物の手、その指の先にある爪がイダサの腕を抉った。

 瞬間、背筋に寒気が走った。 

 次に痛み、激しい痛みが駆け抜ける。思わず魔物の腕を取り落とし、それは地面に落ちた拍子に粉々に崩れてしまった。

 呻き声を漏らしつつ、イダサは自分の腕の傷跡を凝視した。

 血が流れているが、その血さえもがどす黒く変わっていく。

 すぐに錬金術的な治療を開始する。

 イダサの元にはその報告は早い段階から入っていた。

 報告とは、魔物の爪で負わされた傷は瞬く間に腐敗し、治療が極めて困難である、というものだ。

 伝えてきたのは国境警備隊に参加していた緑の隊の一員で、魔物の出現の最初期に、やはり東部山脈の麓で魔物と遭遇したのだ。魔物は倒せたが、負傷した国境警備隊の隊員は一人を残して死亡した。生き残った一人も片腕を切り落とすしかなかった。

 そんな傷があるものか、とはイダサは思わなかった。

 それを言って仕舞えば、魔物などいるわけがない、とつい最近まで誰もが思っていたのだ。市井の民衆に限らず、剣聖騎士団のものですらそういう向きがあった。

 しかし今は、誰もそんなことは言えない。

 魔物は実在する。

 そしてイダサは、自分の腕に走る未経験の痛みに脳を焼かれるような錯覚を感じながら、部下の報告は正しかったと理解した。

 イダサの魔力が練り上げられ、自分の体に作用して治癒力を底上げする。血の流れが止まるが、何故か出血が再開する。傷口が塞がった次には腐敗し、また出血するのだ。傷を治すどころではない。肉が見る間に変色し、腐っていく。

 イダサ様、と部下が声を漏らす。

 ここまでか。

 素早くそばに用意していた短剣を手に取り、素早く抜いて傷口にあてがう。

 今度ばかりはイダサでも息を止めて歯を食いしばらなくてはいけなかった。

 手に力を込め、刃を肉に食い込ませる。想像を絶する痛みに悲鳴をあげたいのを、歯を噛み締めて耐える。目の前で光が明滅するほどの激痛。

 しかし時間はない。集中が乱れて治療の効果が薄れている。危険だった。

 刃は一息にイダサの傷口を抉り取って、肉片が地面に落ちた。シュウシュウと異常な音を立てながら煙が上がり、そこにはドス黒い粘液が残った。

 イダサの腕は傷の大きさの割にほとんど出血しない。聖剣を使うまでもなく、イダサの全力の錬金術を応用した治癒が、肉を増殖させ、元どおりに回復させている。それでも即座にとはいかない。

 細く息を吐きながら、イダサはびっしりと浮いた脂汗を袖で拭った。

 一部始終を見ていた部下たちが、死体のような顔でイダサを見ている。

「二人で組んで実験しよう」

 思わずイダサの声は震えていたが、指摘するものも、気にするものもいない。自分の腕を抉った直後の様子としては、むしろ異常だった。恐怖を覚えるほど、イダサは平静に近かった。

「片方が魔物の爪で傷を負う。治療できないとなったら、片方が傷口を抉り、治療する。もしもの時は僕が生死剣を使う。それでいこう」

 声が出ないのだろう、緑の隊の隊員たちは無言で頷いた。

 こうして緑の隊による、魔物の攻撃による負傷への対処法の研究が始まった。治療法が仮に確立されたとしても、勝利できるわけではない。それでも負傷者を救うことはできる。それこそが錬金術士、医師の使命だとイダサは思っていた。

 部下たちが動き出すのを見ながら、イダサはもう一度、汗を拭った。

 肉を抉った左腕には痺れが走るが、薄れてきている。

 もう少しでも肉をそぎ落とすのが遅ければ、腕全体をやられたかもしれない。

 ただの爪なら、いかようにも人間の剣士は渡り合える。

 しかし毒、いや、この呪いは、人間にとって余りに脅威だった。負傷せずに相手を倒すなど、人間は想定したこともない。むしろ、浅手を負ってでも相手を倒す、という理屈の剣術さえある。

 ふとイダサの脳裏にベッテンコードのことが浮かんだ。

 あの老人と、その弟子たちならそんな離れ業もできただろうが、既に黒の隊はなく、ベッテンコードも行方知れずだ。南方へ逃れたというが、見つかったという報告は受けていない。

 思わずイダサはため息をつき、改めて自分の腕を確認した。

 まだ余裕はある。

 今はまだ。



(続く)

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