世界滅亡防止機構:『L』分室
さて、本日は世界滅亡防止機構:『L』分室の業務に密着してみましょう!
「教えてくれ。どうすればこれを彼女に伝えることができるのか」
仄暗いランプの灯りに照らされた雄々しい髭面は堅く、まるで三文芝居のようだった。
男の目には爛々と輝く希望が宿っている。その出で立ちからは程遠い、純真無垢な胸の内を形振りかまわずさらけだしたような眼差し。あの大海賊――九つの海を股にかけ、世界中の謎を追い求めた享楽の偉丈夫、ゼアン・セキタクスとは思えない有様だった。
幾重もの年月が染み込んだ煉瓦造りの古臭い部屋には、主人の手元で燻るパイプの紫煙が充満している。
そこは世界の片隅の、奥底の、暗がりに黒い絵の具を塗り重ねたような闇の中にぽつりと浮かんでいる――と言われていた。
具体的にそれがどこにあって、何の場所なのか、誰一人として知る者はいなかった。ただよくある王室のスキャンダルのように、初めのうちは噂だけが延々と広まっていた。――貪欲な者の前にそのドアは現れ、一も二もなく飛び込んでしまう。そして彼らは必ずこう言い残していく。『真っ白な美しい平原の夢を見た』、と。
やがて噂は少しずつかたちを変えながら、長い年月をかけて世界の隅々にまで浸透していった。ちょうど親が子供に躾として話す言い伝えのように――欲しがりはその部屋に連れていかれてしまう。その部屋は何も返してはこない。入った者が出てきたことはただの一度もない。いい子にしないと欲しがりになって部屋に攫われる。そういう類の話。
故に、その部屋について知る者は誰一人としていない。
「お覚悟はありますか? ここに来た以上、あなたはもう踵を返すことはできない」
部屋の主人は見た目どおりの高い声で囁いた。瞳はゼアンを見ることなく、手元で開いた分厚い本に落ちている。
皺ひとつない修道服に浮かぶまだ幼い顔立ちと、くっきりとした大きな目と長い耳を持つ少女。精霊人の特徴に近いが、かつて航海の合間に立ち寄った島の森の奥深くにいた精霊人たちとはどこか違う。そもそも人語を流暢に解する精霊人など見たことも聞いたこともない。
だがゼアンにとって、そんなことは至極どうでもいいことだった。
口元が緩んでしまう。少女のどこからか借りてきたような言葉が、頭の中で解釈する頃には甘言にすり替わってしまう。
「願いを叶えてくれるのだろう?」
「ええ。しかしその願いを叶えるためのお覚悟ができているか、と問うています」
「愚問だ。願いとは自らの本能に従って叶えるものだ」
「あなたのその願いを叶えるには、あなたが思っている以上に大きな決断が要りますよ」
「それが愚問だと言っている。そんなに覚悟が必要なら、あらゆる覚悟は生まれ落ちた瞬間にもう済んでいるさ」
少女は顔を上げた。朱色の瞳がゼアンのぎこちない笑みを刺した。
「……そうですか」
少女はおもむろにパイプを一息ふかして、手元の本に紫煙を吹きかけた。すると、まるで生を受けたかのように、書物がばらばらと勝手に捲られていく。
ページが開かれる度に煙は分裂し形を変え、二人の間にゆらゆらと、単語にもならない文字の羅列を綴る。
「誓いと契約です。まずはあなたが自身の真を知り、受け入れること。次にあなた自身の願いのために、あなたのすべてを差し出すこと。この二つが願いを叶える条件。――よろしければ好きな文字に触れてください」
躊躇いなどなかった。間髪入れずに、ゼアンは目の前に浮かぶ〈Z〉の文字に触れた。
指の間を崩れた煙がすり抜ける。一度ふわりと浮かび上がった煙は、やがて意思を持ったように少女の胸元に集まり、さらに濃く、強く絡んで結びつき――一冊の古びた本へと姿を変えた。
「……?」
「これはあなたです。あなたの物語、あなたが存在した証。あなた自身の真の姿がここに記されている。――『ディオリドル航海記』。九つの海を巡る、快刀乱麻の冒険譚」
少女は改めて呆けた顔のゼアンに目を向けた。
「ゼアン・セキタクス。あなたはこの物語の主人公として描かれた、被創造物です」
――やりましたね船長! これで――
同じ故郷に生まれ、同じ志の元に旅をしたかけがえのない友の笑みが、ゼアンの脳裡に浮かび上がる。
「……何を言っているんだ?」
少女を睨めつけるゼアンの眼光は、まるでそうすることを思い出したような慣れた鋭利さだった。
「理解は必要ありません。ただ受け入れ、飲み込んでください。それがあなたの願いを叶える第一の条件です」
「……訳の分からないことを」
「では確かめてみますか? この『ディオリドル航海記』を」
少女は指揮を振るように指を回し、開いたページをゼアンに向ける。
「――!」
内容が流れ込んでくると同時に、ゼアンは反射的に腰のサーベルを抜いていた。
巨躯に押されたソファが埃を立てて倒れる。
宙に浮かぶ古臭い本が、まるで首をもたげた怪物のようだった。
鋒が震える。恐怖していると、目の前にあるのが避けようのない現実であると、他でもない本能が理解してしまっていた。こんな感覚は二度目だった。
瞼の裏から離れない。
八つ目の海で相見えた異形の海獣と――その戦いで犠牲になった、友の最期の姿。
ゼアンの見た光景、抱いた感情、発した言動、すべてがそこに、一縷の隙もなく描かれていた。
「……成程」
飲み込むしかなかったからこそ、感情が追いつくことは決してなかった。
「安心してください。あなたの願いは本物です」
少女は手元の本を閉じ、真っ直ぐゼアンに向き直った。
「白い平原の夢を見ましたね。あの場所は『結合点』と言います。物語が長い年月をかけて人々に触れられると、いつしか物語そのものと現実……創造側の世界との境界が希薄になり、互いの存在を垣間見ることがある。つまり『結合点』は唯一互いを知覚し得る場所なのです。そして能動的に知覚しようとするのは創造側の世界からのみ。――要するに、あなたがあの平原で出逢った彼女は、あなたの物語に心を動かされた者の一人です」
「……!」
『ディオリドル航海記』は静かにページを閉じ、魔法が解けたように机の上に横たわった。
「彼女は本当に存在する、ということか」
「ええ。そしてここは、あなたのような被創造物の願いを、対価と引き換えに叶えることのできる場所」
「……成程、成程な。それは、よかった」
ゼアンはサーベルを納め、そのまま額に手を当てた。ひとつ、ふたつと深呼吸をする。胸に溜まった鉛を息にして吐き出しているようだった。
「混乱するのも無理はありません。最初は誰もその事実を受け入れられない。ですがもう被創造物という鎖に縛られることはない。あなたの言う通り、真に本能に従って願いを叶えることができるのです」
ゼアンは少女の目を見返した。
水面に揺れる夕日のように鮮やかな朱色。見たことのない美しい瞳だとゼアンは思った。気がつくと引き込まれてしまいそうな、強い引力を持つ不思議な瞳。
借りてきたような言葉の魔力は、もうとっくに切れていた。
「……すべてを差し出せ、と言ったな。第二の条件とやらがそれか。かき集めた財宝ならいくらでもくれてやる。だから――」
言い切る前に、そんなわけがないと否定する。この部屋にいるからか、少女と話しているからか、まるでもう一人の自分が俯瞰して自らを操っているような、奇妙な感覚だった。
財宝でどうにかできるのならとっくにそうしている。
少女はゼアンの意図を汲むように、はっきりと告げる。
「そう、すべてです。今のあなたにある経験、記憶、あなたの物語に関するすべてを引き換えに、あなたを創造側の世界に生まれ変わらせます」
「……そうか、もう航海はできなくなるのか」
ゼアンは天を仰いだ。滞留したパイプの紫煙で、すぐそこにあるはずの天井さえ酷く霞んで見えた。
「踵を返すことはできない、だったな」
「……はい」
「ならばよし。余生だ。一度は本能で求めた願い、喜んですべてを擲つさ」
相変わらず真っ直ぐゼアンを見据える少女の生真面目な顔に、つい笑ってしまう。
「……わかりました。それではドアへ」
促されるまま、入ってきたドアに向かう。手をかけたドアノブから伝わる冷たさが掌に沁みた。
「最後に君の名前を教えてくれ」
少女はパイプも書物も置いて、すっくと立ち上がった。
「スレイ。スレイ・ロメッツです」
「そうか。スレイ――ありがとう」
それだけ残して、ゼアンはゼアンらしくがははと笑いながら部屋を出ていった。
◇
「だから言ったじゃない。甘いのよ、アンタは」
ドアが閉まるのと同時にその少女は現れた。
いつの間にか元に戻っていたソファに座り、勝ち誇ったように微笑を浮かべる少女の背格好は、まるでスレイと瓜二つだった。
「バレてたわよ、あれ。踵を返せないなんて下手な言い訳。それで拗れたらアンタのせいなんだからね」
「……その点については精進します」
再び分厚い本を開いてパイプをふかすスレイに、少女は眉を顰めた。
「……人々から忘れ去られて、存在そのものが消えかかった物語が論理引力で創造側に干渉・衝突するのが『結合点』――つまり世界の終わりの火種なんだから、どのみちその物語は私たちが消さなきゃいけないのに。わざわざ『結合点』に白い平原をプログラムして創造側への道案内をするなんて、ほんと酔狂だこと」
「彼らにも生きた証がある」
スレイは本に目を落としたまま続ける。
「たとえ私たちが彼らの歩んだ軌跡を抹消しなければならないとしても、せめて最後に強く何かを願える者がいるなら、私は全力で手を差し伸べます」
「ふーん……それがあんたの中では『恋』なわけだ」
「何ものをも超越する感情だと、以前読んだ創造側の書物にありました」
にやにやと覗き込んでくる少女に、今度はスレイが眉を寄せた。
「なんですか」
「べっつに〜? アンタもここに来るヤツらと同じようなもんか、って思っただけ〜」
「っ……。――あ」
スレイが全力で少女に投げたパイプは、ちょうどドアを開けて入ってきた精霊風の女の顎を直撃したのだった。
いやー、難しいお仕事ですね。
世界の滅亡を阻止するだけあって、なかなか一筋縄ではいかないものです。
しかしやりがいはとてもありそうですね!
皆さんも是非、世界滅亡防止機構に入ってこの世界を消えゆく物語から救ってみてはいかがでしょうか。
それでは、また来週のこの時間に!ば〜いなら!