スプリング・ハズ・カム
青春とは一体どんなものかしら。
辞書を引けばそこには二十代から三十代の青年期のことを表すだとか、季節に色を当て嵌めるときに春には青が当てられるから「青春」だとか、そんな風に書いてある。
だけど誰かさんの仰る「青春」とは、恋愛だとか部活だとか、そういうものであるらしい。だけどわたしはそういうものを知らないから、よくひとからこう言われるのだ。
「君は寂しい人生を送ってきたんだね」
中小企業の営業部に新卒で入社してからすっかり五年、そろそろ中堅どころと言われるような位置である。後輩もできたし、場合によってはわたしが業務レクチャーをすることなんかもある。チーフだのリーダーだのという役職にはまだついていない平社員ながらも、それなりのお給料を戴けるし、残業代はきちんと出ていて、万が一休日出勤した際には振替休暇を取ることが義務付けられ、有給申請もきちんと受理してもらえる。この時代にはなんとも珍しいほどのピュアホワイト経営だ。わたしはそんな会社で細々と働いている。
青春とは一体どんなものかしら、と突然考え出したのは、今月分の社内報で先月入社した新人の社員たちが学生時代までに経験してきた「青春」とやらに焦点を当てた記事が出ており、それを見る限り誰も彼もがこの部活に青春を捧げただの、ひとつ上との先輩の恋愛が自分にとっての甘酸っぱい記憶だとか、そんな話を赤裸々にしているからだ。それを眺めながらわたしは思う。
青春とは一体どんなものかしら。
学生時代、勉強ばかりで部活にも入らず恋愛もしてこなかった自分には解らない。飲み会の席なんかでよくそういう学生時代の話を振られたときに勉強一筋だったということを告げると前述のセリフを言われてばかりだ。他にも口を揃えていられるのは、
「損してるよ」「もったいない」
というものばかりである。
先にも言ったがわたしは学生時代勉強一辺倒だった。それは親に強制されたわけでなくわたしの意思そのもので、わたしは勉強が好きだった。本を読むことも好きだった。図鑑や辞書を暇つぶしに読むような子どもだったのだ。
解らないものを知ることができるのはとても嬉しかったし、昨日解けなかった問題が今日解けるようになることのなんと面白いこと。わたしは自分の世界が広がる感覚に快感を覚えて、小学生時分から趣味も特技も勉強のような子どもで、暇さえあれば参考書を開いたり、予習復習に余念がなく、そんなだから大抵学年トップクラスの成績を保っていたけど、それでもまだ物足りなかったから、図書室や図書館に入り浸ってもっと先の勉強をするなり、休みの日にも予備校で学ぶなりとしていたのだ。親から心配されるほど勉強にのめり込んだけど、負担だと感じたことは一度もなかった。なんせそれこそがわたしの楽しみで幸せだったからだ。
そんな日々だったから、まさか部活動なんて選択の余地になかったし、恋愛だってしたことがない。恋愛については、厳密に言えば「誰かを好きになったことがない」というのとはまた違って、「好きだなあ」と思うひとは中学でも高校でも大学時代にも何人か居たものだ。だけどそれは結局「そのひとの人間性が好ましい」という、敬愛のような気持ちであって恋愛ではなかった。好ましいなあ、と思ったひとが居ても、たとえばそのひとと交際してふたりきりで出かけたり、手を繋いだり、キスしたり、それ以上のことをしたいなんて欲求に至らなかったのだ。想像すら及ばなかった。ただ遠くから見て笑っている顔を見つけられたり、時折話したりするときに感じられるそのひとの価値観や考え方を共有してもらえるのが嬉しかっただけ、それ以上を望んだことはない。だから、「恋愛をしたことはない」が、「誰かを好きになったことがない」わけではない。
でも結局、それは「恋愛をしたことがない」に集約されるわけなので、そのわたしの学生時代の過ごし方なんかを話したところ、誰も彼もがわたしを不憫がる。
かわいそう、寂しいね、勿体ない、損をしてる。
わたしはまったくそう思わないから、そう言われてもピンとこない。
だってわたしにとっての勉強が、他者から強制されたものならたしかにそういう考え方もあるのかもしれないけれど、わたしは自分の好きで勉強にのめり込んだのだ。わたしはあの勉強漬けの日々が楽しくて仕方なかったし、その勉強の結果がテストの結果発表として貼り出され、自分の名前が上位にあることが嬉しかった。それが誇らしく、維持しながらももっと上を目指そうという気持ちになれて、毎日が晴々としていた。あの頃のわたしは幸福で、満ち足りて、いくらでもどこまでも飛んでいける羽根が背にあるような思いだったのだ。
それを不憫がられると、わたしはぽつねんとただひとり、煌びやかな舞踏会の真ん中にでも手持ち無沙汰に立ち竦むオンボロ服の子どものような気持ちになってしまう。
青春とは一体どんなものかしら。
それが恋や部活で汗や涙を流すことであるのなら、わたしにはあまりにもかけ離れたものだった。
「おはようございます」
朝のお決まりの挨拶に、相手も「おはようございます」と同じ言葉を返してくれる。わたしと比べてずっと低く落ち着いた声のトーンの彼女は鹿島美嘉さんとおっしゃって、中途採用で入った同じ営業事務のひとりであり、かつわたしの仕事のパートナーでもある。席もわたしの隣だけれどあまりお話ししたことはない。昼休憩は毎日どこかに食べに出ているようでふらりとどこかへ行ってしまうし、なんとなくひとを寄せ付けないイメージがあるからか、わたし含めて他の誰も彼女を昼に誘うようなことがなかった。まず第一には、入社した初日に別の事務の女性が明るくお昼を一緒にしようと誘ったことに「すみませんが、遠慮します」と断ったことが大きいのだろうけど。帰りだって退勤処理を済ますとさっさと鞄を片手に出て行ってしまうし、始業も五分前というギリギリになってやってくる。業務上の話ならするけれど、プライベートの話は彼女が入社して半年経とうかという今になっても一度もしたことがなかった。それはわたしだけでなくこの部署の全員がそうだろう、それだけ彼女はミステリアスな存在なのだ。
鹿島さんは脱色した髪を肩の上で切りそろえたワンレングスのスタイルで、それが本人によく似合っていて大人っぽい。実際わたしよりふたつみっつ年上だ。茶色味の強い目は少し眦が吊った猫目なのが印象的で、なにより睫毛が長いのだ。マスカラでボリュームを出しているにしろおよそ自睫毛だろうそれはエクステかつけ睫毛かと疑いたくなりそうなくらい長く密度が濃くも黒々としていて、瞬きするたび頬に影が落ちている。多少面長な頬はすっと一筆箋で描いたようにほっそりしていて、そんなところがまた完成され熟成した大人の女性に見えるから、より一層近付き難くクールな印象をひとに与えた。背もすらりと高くって、精々成人女性の平均に届くかというぐらいのわたしと比べるとモデルのような体型をしている。つまるところ、わたしとは真逆の存在なのだ。
「鹿島さん、このデータ、比較対象のデータが古いものなんです。ごめんなさい、営業のひとがデータの格納先を間違えてしまっていて。正しいデータはこっちのフォルダの……ああ、これです。これ、今からちゃんとしたフォルダに入れ直しますので、申し訳ないんですが、この中身から改めて前回との比率を出してもらって良いですか?」
「解りました。こちらこそ、調べが甘くてすみません。変動が少し大きいなとは思ったんですが……そういうこともあるのかなと思ってしっかり確認してませんでした。すみません」
「いえ! 元々は格納先を間違えた営業さんの問題です。それに鹿島さんが来るまではわたしこの業務ひとりでやってたから、あのひとも共有するのがわたしだけだったんですよ。だから、わたしひとり知ってれば良いやってわたしも思ってしまって、ファイルの保存先も変えずにやってたから……。こちらこそすみません。もしまた、些細なことでもなにかおかしいな?と思うようなことがあったら、気にせず聞いてくださいね」
微笑んで言えば鹿島さんも「はい」と素直に頷き、ほんのわずか微笑んだ。鹿島さんはその印象と美貌から近寄りがたいイメージが強いけど、業務ベースの話だけとは言っても会話はしっかりしてくれるし、自分の否はしっかり認め、不明点があれば自分で調べた上で質問してくれる。そんなところは素晴らしく思い、わたしは彼女と仕事が出来ることに感謝していた。覚えも早く、仕事が速くも的確で、ほとんど間違えるようなことなんてないし、先輩であるはずのわたしがフォローに入るような隙がない。上司も彼女を採用して良かったと常々わたしに言っているが、わたしも同意でしかなかった。鹿島さんが来てくれてからずっと業務が楽になり、あっという間に仕事が終わってくれるのだ。営業事務は他にも居れど、わたしひとりで担当していた業務が立て込んだときには大わらわだったのが、彼女が入ったおかげでとんとん拍子にさくさくと進んで瞬く間に終わるのだ。容姿も相まって女神のように思えたが、これは過言ではないだろう。上司から前職はアパレル会社に勤めていたと聞いたから、こんな事務業務とは無縁だったろうに何故彼女はこんなにも仕事が出来るのだろう。天性の才能だろうか? センスだろうか? 適応能力の高さでどこでも順応出来るひとというのは居るようだし、鹿島さんはきっとそういうひとなんだろう。入社半年経ってもまごまごしていたわたしとは大違いだ。わたしはそんな鹿島さんのことを後輩ながらも尊敬していて、叶わぬ夢のようではあるが、彼女ほど仕事が出来るようになれたら良いなとひっそりと心の目標にしている。
そんな風に鹿島さんと隣り合いながら心の中に彼女への尊敬と憧れを育てつつ過ごしていたとき、新しく始まったプロジェクトがいよいよ大詰めになってきて、大忙しの日々がやってきた。残業は当たり前、終電間近になる日もあれば、休日出勤を余儀なくされたこともある。残業代や振替休は確約されていると言っても今すぐ与えられるものでないからきついものは正直きつい。
わたしがそうであるということは、勿論わたしのパートナーとして一緒の業務に当たっている鹿島さんも同じ状況であるわけだ。毎日ヘトヘトのわたしと違って彼女は毎日いつもどおりに出勤し、いつもどおりテキパキこなすが、残業は彼女にも発生しているので同じだけ過ごす時間が長くなる。そうしていると、相手が相手とは言え自然と会話が発生する。
「鹿島さんって、下の名前なんていうんですか?」
あまりにも下らない質問から始まったが、思いがけず彼女は嫌がらずすぐ答えた。案外彼女は人付き合いが良いのかもしれないと、失礼ながらそのとき思った。
「美嘉ですよ。有名な女性歌手と同じ字を書いて美嘉」
「美嘉さん! なんだかすごいお似合いですね」
「そう? 自分ではよく解らないな」
「すごいぴったりだと思います。なんだか納得しちゃいますもん」
「へえ。じゃあそういう葉山さんはなんていう名前なんですか?」
「う」
「え? 言えないの? 言えないような恥ずかしい名前なの?」
「うっ、」
「まさかひとに言わせておいて自分は言わないなんてことはありませんよね?」
「ううっ」
追撃に重なる追撃に私は呻き声を上げて思わず鳩尾を押さえた。こんなまるで大罪を犯したかのように問い詰めなくても良いじゃないか。恨めしげに鹿島さんを横目に見ると、彼女はなんだかにやにやしていて、吊り目の瞳も相まってその様子は狐のようにも見えてくる。たしか九尾の狐とはとても美しいのではなかったか? 白く輝く幻想的なそれを思い浮かべ、鹿島さんにぴったりだと場違いに考えた。
「……百合子です。百合の花に子どもの子」
「へえ。そっちだって素敵な名前じゃないですか。なんで言い渋ったのか解らない」
「名前負けしてるからですよ。百合なんて柄じゃないし……」
「そう? あなたは私と違って清楚清潔って感じで、かつ楚々としているから、花に喩えるならそれこそ百合って感じがするけどな。そんなこと言ったら『美嘉』の私だって名前負け。美しいに、更に美という意味の言葉を重ねて『美嘉』なわけだからね。相当な美人じゃないとこんなの見合わないですよ」
「そんなことありません! 鹿島さんはすっっっごく美人さんです! モデルさんだって言われても納得するし、むしろなんであなたみたいなひとがうちみたいな中小企業に入って事務をやってるのか解らないぐらい!!」
つい大声を出してしまうと、最早わたしたち以外誰も居ないフロアにそれはよく反響し、返ってきた言葉を聞いて鹿島さんは目をぱちぱちと大きく瞬いた。そんな様は少し幼く、日頃美人でクールな彼女が可愛らしい。
「熱烈。葉山さんって、隣で澄ました顔しながら、ずっとそんなこと思ってたの?」
驚いていた目がにんまりと三日月のように細められ、にこにこというよりにやにやとそんなことを仰ってくる。そんなところもまた意地の悪い狐のようだ。わたしはなんだか恥ずかしくなってしまったが、事実は事実なので頷いた。そして、彼女の敬語と砕けた言葉の混ざる喋り方が嫌でなく、寧ろなんだかそんなことにまでほんのりとした好感を覚えていた。このままいくと、わたしは鹿島さんならなんでも好きとか言いそうだ。敬愛どころか崇拝に至りそうで若干危うい。
鹿島さんはけらけら笑った。紫のように赤い口紅がよく似合う薄い唇が、これこそ愉快とばかりに笑っている。
「面白いな。葉山さんてそんなひとだったんだ。初めて知った」
それはわたしだってそうである。
そこからだ、彼女とよく話すようになったのは。
鹿島さんは見た目に似合わず結構饒舌で、皮肉屋なところもあったけど、打てば響くひとだった。冗談も軽口もよく言うし、ツッコミ属性があるからよくわたしにそういうことを言ってくる。試しにお昼に誘っても案外快くオーケーしてくれて、緊張していた肩がどっと下がるぐらいの軽さだった。そんなわたしにまた彼女は笑う。クールで滅多に笑わないようなイメージばかり先行したが、鹿島さんはよく笑うひとだった。
「疲れた……」
特に疲れたある日のこと、終業時間から四時間はとっくに過ぎてやっと今日分のキリがついたところでわたしはデスクにへばって泥のように呟いた。時刻は十時過ぎ、昼休憩を終えてからぶっ続けでやっていたので身体は凝り固まっていて、内臓は澱むように重く、頭もぎちぎちだ。もう指の一本も動かせないような状態でぐったりしていると、わたしと違ってまだピンピンしていそうな鹿島さんがスマートフォンを片手に足を組んで言った。
「どこかでご飯食べて帰る?」
この頃になると鹿島さんは完全にわたしに砕けた口調になっていた。後輩でありはするが年上なのでわたしも特に気にならない。それに業務上ではきちんと敬語で、こういうときだけ砕けるのだから分別を弁えていた。そんなところも好きだった。
「うーん、でも、こういう時間って居酒屋とかばっかりなイメージがある……。わたし、あんまりそういうところ行ったことなくて」
「行ったことないの? 一度も? 大学の飲み会とかは?」
「ゼミのも参加したことなくて。学生時代はずっと勉強してたから、授業が終わっても図書館で勉強したり、さっさと家に帰って勉強してました」
「勉強好きなの?」
「うん。だから、みんなが言うような『青春』ってしてこなかったんです。部活も恋愛も。好きだと思うひとは居たけど恋愛ではなかったし、中高大学と部活もサークルも入らなかったから、みんなに言われるんですよ。『勿体ないね』『かわいそう』『人生損してるね』って。わたしはそんなつもり全然ないんですけど、みんなにはそう見えるみたいです」
「…………」
鹿島さんは数拍黙った。しまった、こんな話されても困るだろうに。ばっと起き上がって「今のなし」と言おうとしたところで、スマートフォンを見ていたはずの鹿島さんがわたしを見ている。そしていつかのようなにんまり狐顔の笑みを浮かべてこう言った。
「ねえ、今日ちょうど金曜日だし、ちょっと悪いことしない?」
「うわーーー!!」
ガシャン!! 大きな音を立てて後ろのフェンスに白球がぶち当たる。跳ね返ったそれをなんとか避けると、「ちゃんとしなさい」と叱責が飛んできた。言わずもがな鹿島さんだ。
あのあと、彼女に駅前の少し外れた路地にあるちょっと薄汚れたラーメン屋に連れて行かれたと思えば、そこでトッピングマシマシラーメンにチャーハンを半分こ、十枚一皿の餃子を食べさせられて、デザートに杏仁豆腐と胡麻団子まで完食し、お腹いっぱいで苦しくなったところをこのバッティングセンターに連れてこられた。問答無用でスペースに押し込まれ、こんな時間には閑散としたこの場でわたしひとりさっきから空振りを連発している。鹿島さんはそれをフェンスの向こうで眺めつつ、「腰を引かない」「腕じゃなくて肩で振る」なんて指示を出してくる。経験者か?というぐらい的確な指示は明らかに下手なわたしに叱責の如く飛んできて、そのたび「無理だよ!」「解んない!」とすっかり抜けた敬語で叫んでも、彼女は笑いもせずに叱咤した。
「ほら次来るよ! 構えて!」
ひいっと悲鳴を上げながら構えるも、弾丸のように飛んでくる白い球はわたしにとって恐ろしすぎる。これを打つ? 打ち返す? あまつあの点数が書かれた札に当てる? 無理無理無理、こんなのやったことがない!
「葉山さん! ちゃんと球を見てやりなさい!」
そう言われ、涙ながらに閉じていた目を開ける。ついに目の前まで迫るような白光にひいっとまた悲鳴が出そうになるのを飲み込んで、握ったバッドをひと思いに振りかぶる。カキン、となんだか間抜けに甲高い音がして、わたしは勢い余ってその場を半回転してしまう。その上ずっこけて尻餅をついてしまったら、手からバットも吹っ飛んで、散々な状態だ。明後日の方向に飛んで行った野球ボールはそのまま変な方向に飛んでいき、ネットにぼすっと直撃したら、墜落した鳥のように真下に落ちた。遠くの方でてんてんと跳ねているのが如何にも間抜けで仕方なかった。
尻餅ついたわたしはそれを茫然と眺めていて、ぽかんと口を開けることしか出来ないでいる。それでいてもう良い歳したはずの大人がこんな馬鹿みたいな格好になってることに羞恥を覚えた。急いで立ち上がろうと両手をついたら、
「すごいじゃん!」
と、急に鹿島さんが初めて聞くような高い声で言い出した。
「ちゃんと当てられたじゃん! えらい! すごい! それでこそ葉山さん!」
「え、え、ええ……? だって変な方にいっちゃったし、どこの点数にも当たってない……」
「最初はそんなもんだよ。私だってそうだった」
「鹿島さんって経験者なの?」
「たまに気晴らしに来る程度のアマチュアだよ」
そんなことを言いながら上手に違いないんだろうなあ。
わたしはやっと身を起こし、ちょっとぶうたれた顔をしてフェンス越しに鹿島さんを見やる。
「じゃあ鹿島さん、お手本見せてよ」
言えば彼女がまたあのにんまりとした笑顔を浮かべた。お腹いっぱいで未だに苦しいわたしと対照的に、鹿島さんはあれだけ食べておいてなんともなさそうだ。わたしよりも細そうに見えるのに一体どこにあの量が入ったのだろう。
わたしと入れ替わりに鹿島さんがブースに入り、バットを構える。その姿はやっぱり様になっていて、女子野球でもやってたんじゃないだろうか。やがてビュンと飛び出してきたあの白い悪夢のような弾丸を、彼女は怯みもせずに打ち返す。カキンッ!と、わたしのときとはまるで違う軽快な音が響いたと思ったら、それはまっすぐ飛んでいき、なんと真ん中のホームランを打ち抜いた。その瞬間、気が抜けるような音がヒョロヒョロと鳴り始め、興奮よりも困惑がやってくる。だけど振り向いた鹿島さんはちょっと得意げで、バットで肩をトントン叩く。
「まあ、こんなもんかな」
馬鹿な話だがちょっとときめいた。だってちょっと格好よかったものだから。
それ以降、鹿島さんと夜遊びすることが金曜日の日常になった。夜遊びと言うと外聞が悪い気がするが、お腹が苦しくなるほどご飯を食べて、そのあとに腹ごなしと称してボーリングだのカラオケだのダーツだの、身体を動かしたり思いっきり声を出すような遊びに誘われた。鹿島さんは大抵なんでも上手で、カラオケで聴いた歌なんかプロじゃないのかと本気で疑ったほどだ。なのに本人は「素人に決まってるじゃん」とけらけら笑っていて、いちいち感動するわたしのことを揶揄ってくる。そんなことをしていれば仲良くなるのも当然で、業務上では今までどおり接していても、昼休憩を毎日一緒にしていればそりゃあ社内ではよく目につく。他のひとたちから何度も何度も「どうして仲良くなったの?」「なにがそんなにあったの?」と問われ続けた。わたしはそれに笑って、「残業中にたくさんお話ししていたので」と答えた。嘘ではないが真実ともまた違い、だけど疑われる余地もないからみんなそれを信じてくれた。そしてなんと偶然それを聞いていた鹿島さんにまた揶揄われることになるのだが、わたしはそれさえ笑って返した。
わたしと鹿島さんを疲弊に疲弊させながらぐっと仲を縮めてくれたプロジェクトの進行がやっと終わりを迎え、今回の契約も内容よろしく取引先と締結できたらしい。部長もご満悦で、その週の金曜日に飲み会が開かれた。普段飲み会にはあまり参加しないものの今回だけはとわたしも参加し、鹿島さんも参加するようだ。うちの飲み会は料金が平等に給与から天引きされるので、その辺気楽である。
打ち上げにみんな気分が良くなって、飲めや歌えやと大騒ぎ、店のひとももしかしたら迷惑しているのではなかろうか。でもそれだけの大きなプロジェクトだったわけだから、部署のひとたちがこんなに開放感に満ち足りるのも仕方ないだろう。ドリンクやフードの提供にやってくる店員さんにわたしがいちいち頭を下げては「うるさくしてすみません」と謝るも、店員さんは苦笑いで曖昧にした。
「葉山さんも鹿島さんも今回は本当にありがとう、めっちゃ助かったマジ、本当ふたりのサポートがあったからここまでこれたよ、本当にありがとう」
今回のプロジェクトリーダーの男性が、お酒を飲んだ赤ら顔でそう仰る。
「仕事なんだから当然です。お役に立ててよかったです。でも、わたしも鹿島さんが居てくれたからなんとかなったんですよ。鹿島さん、本当にありがとうございます」
「いいえ、私の方こそ葉山さんにはとてもお世話になったし、たくさんご迷惑おかけして。ふたりでやれたものだと思っています。こちらこそ、どうもありがとうございます」
隣同士で頭を下げ合うとその場がなんだか笑いに満ちる。下げた頭を上げた頃、急にして、そしていつものことを言われた。
「葉山さんは仕事は出来るし頭も良い、外見だって悪くないのに、これまでひとりも彼氏も居なけりゃ恋したことないなんて言うんだからもったいないよな。誰か紹介しようか? 今ならマッチングアプリだとか流行ってるんだし、そこで恋人探しでもしてみなよ。ちょっと遅いかもしれないけど、学生時代には味わえなかった青春、この辺で味わってみたら?」
わたしはそれに、ぱちぱちと目を瞬いた。いつものようなことを言われているのに、いつもとまるで受け取る心情が異なっている。
青春とは一体どんなものかしら。
ずっと考えてきたものだ。
ひとはそれを、恋だとか部活だとか、そういうものに喩えて言う。恋に右往左往することこそ。部活で汗を流して涙しながら全力で打ち込むことこそ、それこそが青春の輝きだと口を揃えてそう仰る。
それならばわたしは青春のことをひとつも知らない。勉強にだけ注いだ学生生活に、恋も部活もなにもなかった。
「いいえ、青春ならもう知ってます。今まさに青春真っ只中なので」
「えっ?」
自然と浮かぶ満面の笑みで応えると、これまでとまったく違った返答に相手の方が不思議な顔でそんな声をあげていた。周りで話を聞いていたひとたちも同じような顔をしてこちらを見遣り、急になんだ、もしやとうとう初めての恋人が出来たのかと場が次第にざわめき出してくる。
プロジェクトリーダーの隣で軟骨をかじっていたサブリーダーが徐に身を乗り出した。
「ずばり、葉山さんの『青春』とは?」
隣を振り向くと、素知らぬ顔して自分のグラスに口付けながら、口角だけ笑った鹿島さんがそこに居る。
彼女と出かけたバッティングセンター、結局一度もホームランを当てられない。
彼女と遊んだボウリング、ガターばかりでストライクなんか一度か二度出せた程度、喜んで飛び跳ねたら足を捻った。
彼女と行ったカラオケで、最初は三時間と決めていたのに延長に延長を重ねた結果、結局途中から夜中のフリータイムに差し替えられないかと店員さんにお願いし、こんな年齢でカラオケオールなんて初めてした。
ラーメン、ファストフード、深夜のファミレス、お好み焼きにもんじゃ焼き、彼女の家で頼んだ宅配ピザ。山盛りパスタに和定食屋の大盛り唐揚げ定食。
いつもいつもひっくり返るほど笑っていた。「百合子さん」に「美嘉さん」と、夜の間だけ呼び合う魔法の名前。
「内緒です!」
顔いっぱいに笑い、わざと口元に人差し指を当てて見せれば、誰も彼も理解不能という顔をしたけれど、隣の鹿島さんだけくすくす楽しそうに笑ってる。わたしもそれにくすくす笑って、次の金曜はどこで一緒に遊ぼうか。
青春とは一体どんなものかしら。
それはきっと、眩しい日差しの下でなくとも、誰かにときめく恋でなくとも、汗水流して励むなにかでなくとも構わない。甘く苦くなくとも構わない。心から底から楽しめればそれで良いのだ。
ならわたしにとっての青春は、この隣で笑う、クールでミステリアスでとびきり美しい大好きな友人との時間のことを言うだろう。季節はすっかり朱夏の色を見せていたけど、わたしの心の春はいつまでも青かった。