魅入られし者
森林に満ちた盆地の縁、稜線の上から外に広がる地平を望む。太陽の位置から、「北半球と仮定した場合の東西南北」を考える。盆地の北、西方向は地を覆う緑が少なくサバンナのように見える。南、東方向は、豊かな地形変化を持つ草原だ。弘樹は草原の方へ歩みを進めた。
休息をはさみながら3日ほど歩いていたが、特に変わったものは見当たらない。
空に流れる雲を眺めながら歩いていると、遠くで笛で奏でられたかのような音が鳴り始めた。不思議に思い弘樹が立ち止まると、今度は何かが地を駆ける音が聞こえ、止むと同時に数十メートルほど前方にある丘の上に複数の影が現れた。
「こちらの言葉がわかるか、そこの旅人」
そう言いながら、馬に乗った一人の男がゆっくりと近づいてくる。彼の発する言葉はその発音が明らかに日本語ではないのに、何を言っているかがわかる。なんとも奇妙なことだが、会話のできる存在と出会えたことのほうが遥かに重要だ。
「分かります!!」
ぬるりと口から未知の言語が飛び出すが、これもやはり気にしている場合ではない。
「ならいますぐに去るがいい。ここは神聖なる土地、我らは守り人。外の人間が立ち入って良い場所ではない」
「待って、話を聞いてください! 自分が何者なのか、どうしてここにいるのか、何も覚えてないんです!助けてください!」
少し嘘をついてしまったが仕方ない。元いた世界のことを話しても、まともに取り合ってもらえないだろう。
「まず服を脱ぎ、持ち物を全て地面に広げろ。害をもたらさぬ存在であることを示せ。話はそれからだ」
「こんな開けた場所で脱げと言うんですか!?」
「良いから脱げ!」
「は、はい...」
相手の勢いに屈し、しぶしぶ脱ぐ。
いつのまにか、丘の上にいた人々に囲まれていた。
ローブを脱ぎ、首にかけていた牙の鞭も外す。
「おい、それはなんだ」
「これは、西にある盆地の中の森にいた蛇の死体でつくった武器です」
「なに、西にある森だと!?」
相手の青い瞳が見開かれる。
「はい、そ、それがなにか?」
「お前が覚えていることを全て喋れ」
「気付いたら森の中にいて...凶暴な生き物しかいない場所なので10日ぐらいかけてなんとか脱出して、この草原を歩いていました」
「襲われなかったのか?」
「襲われました。何度も死ぬかと思いましたよ」
「怪我はしていないのか」
「ひどい怪我をいくつもしたんですけど、意外と早く治りました」
「...」
相手は黙り込んでしまった。しばらくすると彼の周りに人が集まり、何かを話し始めたがここからだとその内容がわからない。
殺されたりしないよな・・・?
〜村落内、広場にて〜
「こちらです」
朱色に染められた木の椅子に座る老婆の前に、牙の鞭が差し出される。
老婆は体中につけられた装飾をじゃらじゃらと鳴らしながら、牙の鞭を手に取る。
「伝承の絵、森に住む悪魔たちの中に同じ姿の蛇がおる」
老婆は牙の鞭を見つめながらそう言う。
「彼があの森から出てきたというのは本当でしょうか」
「記憶がないと言っておったそうじゃな。超常なる者に魅入られたのやもしれぬ。それならば森から出てきたとしても不思議ではない」
「我々はどうすれば」
「そのものが滞在している間は、カシャに世話をさせれば良い。魅入られたものに近づくこと、追い払うことは災いを産む。同じく魅入られた者、カシャに世話を。これは返しなさい」
老婆はそれだけ言って牙の鞭を返してもとの姿勢に戻ると、それきり枯れ木のように動かなくなった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
太陽が地平線に沈み始めたころ、先程話した男が牙の鞭を持って戻ってきた。
「非礼を詫びる。これは返す。困ったことがあればカシャという女に言うといい。今からカシャの住む場所に至る道に案内する。あなたはこの粘土版を持って、カシャを尋ねてくれ。」
「...?はい」
態度が少し変わった気がする。あの森から来た人間ということで不気味さを感じているのかもしれないな。
しかしなぜ直接案内してくれないのか?村の中心からかなり離れたところに住んでいるのか?
そうだとしたらなぜカシャという人は離れた場所で暮らしているのか・・・
気になる部分が多かったがとりあえず言われたままにする。
草原の上を男と二人、無言で歩いていく。起伏の激しい草原の大地、丘と丘の隙間から、ちらちらと村らしきものが見える。沈黙に耐えられなくなった弘樹は男に話しかけた。
「すみません、あれが皆さんの住んでいるところですか?」
「そうだ」
「カシャという人は村から離れて暮らしているのですか?」
「そうだ」
「なにか特別な理由でもあるのですか?」
「そうだ」
「理由を聞いても良いですか?」
「それは難しい」
「わかりました。あ、困ったことはカシャさんに聞くということでしたね。何度も不躾に質問してしまってすみません」
「...」
再び無言の時間。質問から話を広げようとした弘樹だったが全く上手く行かなかった。
「ここだ。ここからカシャの家まで木標が並んでいる。木標を辿れ」
一つ一つの間隔が広いようで、ここからでは3つほどしか見えない。
「ありがとうございました。」
「粘土板を渡すのを忘れるな」
そう言い残して彼は走り去っていった。
速度に驚いたが、気を取り直して目印を辿っていく。いくつかの丘を超えたところで、今までと比べて起伏の少ない草原が目の前に姿を表した。草原の奥へと連なる木標を目で追っていくと、小高い丘とそこに立つ小さな家が見えた。丘と家は夕日に鋭く照らされ草原に影を走らせている。
丘に近づいていく。目を凝らすと、家の隣に人の後ろ姿が見える。あの人がカシャさんか。
声が届く程度の距離まで近づいたあと、声をかけた。
「すみませーん!村の方から来ましたー!あなたがカシャさんですかー?」
「......」
風が草原を駆け抜ける。草が揺れ、音を立てる。
人影は振り返った。赤い双眸がこちらを見つめる。
「そうだ。あなたはどうみても村の者ではないな。ここに何の用だ」