二角
溶岩地帯を歩くイオナとレオは、ますます接近する音の元凶との会敵を予感していた。
「困ったな...」
ボリボリと頭を掻きながらレオが言う。
「今のうちに使っといたほうが良いかも、アレ。こちらを匂いや音で感知してるならいずれはバレるだろうけど、ひとまずの安全は確保できる」
「判断は任せる」
イオナに一任するレオ。
「いくよ」
イオナは自らが着ている服の内側を手で探ると、小さな円盤状の魔道具を取り出して中央の出っ張った部分を押す。
「ダンジョン内で使ったのは初めてだね」
「そもそもダンジョンの外でも2回くらいしか使っていないがな」
円盤状の魔道具は細い光の線を放ち、四方八方に放つ。それらの光は魔道具から数m離れたところで溶けるように形を変える。見えない球状の壁にどろどろの光が張り付いた。ドロドロの光が外部と内部を完全に遮断すると、瞬間的にそれらが消え、同時に中にいるはずのイオナやレオの姿も見えなくなった。
この魔道具は外部から見て内部を透明化し、さらに浮遊と低速の移動が可能になる。
「ダンジョン内だと、こんな高いところまであがるんだ...」
透明な床の下に映る大地を見ながらイオナが言う。
「これで振り切れるといいんだが」
レオも同じく下を見つめる。
二人を包み込んだ球体は、ゆっくりと階段の方へ移動を開始した。
「幸い、階段にモンスターはいないよ。あそこにたどり着くまで魔道具が持てば...っ」
イオナは自らの眼下に現れたモンスターの姿に息を呑む。
5mを超える高さの、浅黒いうねる筋肉の塊。
威容に発達した上半身には雄々しい二角を備えた牛頭が乗り、丸太のような太さの両腕は異常な大きさの槌を二つを引きずっている。
「なんだ、アレは...」
「レオ、覚えてる?」
驚愕するレオの傍ら、突然イオナは状況にそぐわぬ柔らかな声色でレオに問いかけた。
「どうした?」
様子のおかしいイオナに、レオは眉を顰める。
「覚えてないか。覚えてないよね...私もすっかり忘れてたよ」
懐かしそうに目を細めるイオナ。
「何を?」
「”膨れ上がった胴体、腕、角。奴が着たらもうお仕舞だ。両手の戦棍で忽ち粉々にされちまう!!武具を振るう雄牛の怪物、ミノタウロス!!”
…って、昔、外から村に来たおじさんが言ってた。多分あの人は研究者だったのかな、伝承や神話をたくさん知っていて、村の子供達に聞かせてくれた。
皆があんなにニコニコしてたのは、後にも先にもあの時ぐらいだった」
雪をかぶった家と山。枯れ木、やせ細った家畜と人間、極寒の冷気...二人の脳裏に、当時の村の様子が鮮明に蘇った。
「...思い出した」
ミノタウロスは、不可視のはずの球体をじっと睨んでいる。球体の移動する方へ正確にミノタウロスは追ってくる。
「私が古神の研究をしようと思ったのは...おじさんみたいに、みんなを笑顔にする話をしたかったからだった。もうみんなはいないのに、未だに続けてる」
「...」
「結局、どれだけあの場所から離れても、時が経っても...やっぱり私たちはみんなを忘れられない。でもみんなはいない。だから、居場所がない、目指すべき場所もない。私たちは精一杯忙しくしたり何かを楽しんだりして気を紛らわせることはできるけど、それだけ」
「...そうだな」
二人を乗せた魔道具が、減速し始める。
「俺たちは...忘れられると思い込んで、逃げ続けてきた」
魔道具は冷却状態に移行し始め、球体は徐々に高度を下げていく。階段はまだはるか先にあった。
「それにしても...おじさんが話してくれた神話の怪物に殺されるなんて...素敵な最期だと思わない?」
「...諦めるな」
「勿論、できる限りの抵抗はするつもり。研究者としてこの情報を持ち帰る前に死ぬわけにはいかない!と気合を入れたいところけど...」
球体は接地し、その殻はキラキラと光る塵となってどこかへ飛ばされていき本体の円盤だけが残る。
冷え固まったマグマで作られる黒の大地の上で、二人は巨躯を誇る神話の怪物と対峙した。
「勝てる気がしないや...」
「...」
レオは無言で、首にかかっているペンダントを握りしめる。
すると緑がかった輝く薄霧の風が生じ、レオの体に蛇のように纏わりついた。
「やれる分だけ、やるぞ」
「うん」
イオナの返事を聞いたレオは、神速の踏み込みでミノタウロスに挑む。
「くっ...」
レオは肩で息をしながら、震える剣をミノタウロスに向ける。色彩鮮やかな彼の服は彼の血によってところどころ赤黒く染まっている。
ペンダント型の魔道具を用いて人外の速さを得たレオだったが、それでもミノタウロスには手も足も出ない。巧みな槌捌きは高速で襲い来るレオの剣ですら難なくいなす。そして凶悪な破壊力の打撃を凶悪な速度とリーチで放つ。イオナが行う火筒の攻撃などはもはや眼中に無く、防ぐことすらしない。
「...」
ミノタウロスは鳴き声一つ発さず、無造作に槌を振る。ミノタウロスは防御する時とは打って変わって適当に攻撃を放つ。ミノタウロスにとって、人間の体を破壊するのに力や技量は必要ない。
「一撃が...重いっ」
巨大な槌の攻撃はまともに受ける事ができない。回避と受け流しに努めるレオだったが,
ミノタウロスの攻撃のターンが一向に終わらない。既に体力は限界に近づいていた。
「ぐ」
槌がレオの肩に掠る。僅かな接触面積の攻撃も高い圧力を伴い脅威となる、骨がいともたやすく砕けた。
大きな損傷によって思い通りの動きができなくなり、防御に隙が生じる。完全に威力を受け流す余裕が無くなっていく。
「ぐ」
遂に、槌の攻撃がレオの真芯を捉える。剣でまともに受け止めてしまったレオは大きくふっ飛ばされる。
その瞬間、ミノタウロスは今まで無視していたイオナに視線を移した。
レオに追撃すること無く、イオナに向かって猛然と走り出すミノタウロス。
「っ...」
円弧の軌道を描く槌が、イオナの腹部に吸い込まれるようにヒットする。
体内の臓器がごちゃまぜになって破裂し、大量の鮮血と共に外へ漏れ出た。
「イオナッ!!」
レオはあらん限りの速度で立ち上がりイオナの元へ駆け寄ろうとするが、力をほとんど使い果たしていたため思ったような速さで動けない。
そこへ投擲された槌が飛来し、レオの脇腹を砕いた。
「ぐはっ...っ...!!」
潰された部分はごっそりと抉られ、断裂した皮膚の下から血液が心臓の拍動に合わせて噴き出す。
それでもレオはミノタウロスからイオナを守るように、片膝をついた姿勢で剣を構える。
「レオっ、もう、いい...」
口から血を溢しながら、掠れた声でイオナが言った。
「...」
ミノタウロスは仕切りに耳をひくつかせながら、じりじりと二人の方へ近づく。
「今まで、運良く逃れてきた、結末が...やって、きた、だけ。ずっと、無茶して、きたから...」
零れ落ちた臓物の上に倒れ伏すイオナの眼から、光が消えていく。
「おい、待て、イオナ...ッ」
「...私が、先みたいっ...じゃあ、ね」
それきり、イオナは動きを止めた。
「...」
ミノタウロスが地を踏みしめる音も、大気の流動する音も噴石の砕ける音も、あらゆる音が遠のく。
時間が極限まで引き延ばされ、万物が遅滞する。
静寂。
レオの心にはもはや、絶望や悲しみの感情すら存在しなかった。
迫りくる永遠の虚無...死に対して、ただ呆然とそれが到来するのを待った。
(...何だ)
死の暗闇に沈みかけたレオの精神を、何かがつなぎとめる。それは視界の変化だった。旅路に終止符を打った雄牛の怪物、死の寸前にあるレオにはもはや輪郭を持った影のようにしか見えないそれが、大きく揺らめいた。
(...!!)
そして、そのゆらめきは更に激しくなり、影が乱れ...そこでレオの意識は暗転した。
「...っ!!!!!!」
ミノタウロスの背後に忍び寄って斬りかかり、背骨を鈍色の剣で打ち砕かんとするシャド。
聴覚で接近を察知していたミノタウロスは体を反転させ、鈍色の剣を無視してシャドの体を粉砕しようと槌を振るうが、鈍色の剣が体表に触れた瞬間異常性に気付き身を引く。
「奇襲は失敗...」
シャドは剣を構えなおす。ミノタウロスはそこへ巨体のリーチをフルに生かした槌の薙ぎ払いを加えるが、シャドはその一撃を受けながら槌にしがみついた。ミノタウロスはもう一本の槌でシャドを叩き潰そうとする。
「今だっ!」
潰される寸前、シャドが叫ぶと同時に槌から手を離しながら収納袋を投擲する。
そこから飛び出したガルムがミノタウロスの短剣でミノタウロスの頭部を滅多切りにする。頸を後ろに引くミノタウロスだったが片方の角の先端が切り落とした。その間にシャドはイオナとレオに近づく。
「煙になってない...間に合った」
二人の体に腕輪型の魔道具をはめたシャドは、大きく広げた収納袋を上から被せてしまい込んだ。
「これでよし...ガルム、行こう」
シャドはガルムに一声懸けて走り出す。ガルムはミノタウロスへの攻撃を中止すると、切断されたミノタウロスの角を咥えながら逃走を開始した。
(...やたら動きが鈍い)
後方から追ってくるミノタウロスの様子を振り返って確認したシャドはそんなことを考える。
「槌を投げてくるかも、気をつけて」
シャドとガルムは背後のミノタウロスの動向に注意を払いながら、階段の方へ退却していった。
ミノタウロスは途中で二人を追うのを止めると、体の向きを反転させて噴石とマグマを振り撒く火口へ歩き出した。




