堺 弘樹
堺 弘樹。男。17歳。高校生。
彼は平凡で退屈な人生を歩んできた。これからもそうなるはずだった。
「そろそろ夏休みか。毎年楽しみにしている割にはいざ入ると暇なんだよな」
弘樹はそんなことをぼやきながら自転車を漕いで学校に向かっていた。よく晴れた日だった。
突然の衝撃。
視界が、一瞬だけ白い光に埋め尽くされた。それと同時に体が引き裂かれるような激痛。全身が熱い。それなのに体の奥底が寒い。見慣れたいつもの通学路が、闇に溶けて消える。
体の底からはいでた寒さが全身の熱を徐々に飲み込んで...突如として感覚に変化が起こる。痛みや寒さが、体の先端から消滅する。世界と自分の繋がりが消えていくような、今まで自分だと思っていた肉体が、魂が、ばらばらになっていくような。これが...死
弘樹の意識は闇の底へ吸い込まれていった。
「はっ」
気がつくと弘樹は、何も見えない暗闇の中に浮かんでいた。
「ここは何だ...登校中になにがあった?」
自転車を漕いでいたこと以外に記憶がない。体もどうなっているのかわからない、何かに拘束されているわけではないのにほとんど手足を動かすことができなかった。
弘樹がこの異常な状況を認識しつつあったとき、突如闇の中に虫のような何かが現れた。暗闇の中で、それだけがくっきりと嫌なほど鮮明に見える。虫のような羽、足、触角、甲殻が左右対称に全身を構成する。どのパーツも数や位置が普通ではない。
弘樹は思わず目をそらそうとしたが、眼球が全く動かない。
それがゆっくりと近づいてくる。
より鮮明になった姿が、目に浸潤し、脳に刻み込まれてゆく。
「あああぁぁぁ!!...........!!」
弘樹はパニックに陥り、大声を出したが不気味な存在は一向に介さず、ついには恐怖のあまり声を出すことすらできなくなった。
自分から50cmほど離れた距離まで近づいたところで、無数の触覚のうち数本が急速に伸び、
目の裏にねじこまれる。
声が聞こえる。
「「私に生贄を捧げた国は滅び、攻め入った者達も滅んだ。空も、大地も、そこに住まう生物も、全ては変わり続けた。途方も無い時が経ち、勇者召喚が行われた跡地に大沼が生まれた。「沼、ここに勇者の降臨を」この言葉通りの約束を果たす時がついに来た。お前はお前が元いた世界で生きることへの執着が見られない。被召喚者としてふさわしい。」」
「「勇者は召喚した地に降りかかる災いに適応した能力を持つが、これからお前が降り立つ沼地は魔物の蔓延る無人の森に囲まれている。地そのものが災であり、災いに苦しめられるのはお前だ。よって自らの命を存続させるだけの強靭さを与える。病に耐え、飢えに耐え、傷に耐え、寒さに耐え、熱に耐え、恐怖に耐える。」」
「「これで説明は終わりだ。お前が私の存在を認知するのは都合が悪いため、ここで起こったことは思い出せないようにしておく。思い出せずともある程度納得は残る。それと諸々の調整があれば、概ね問題ないだろう。さらばだ」」
ねじこまれた触覚により眼球が回され、目の前の化け物も暗闇すらも、全てを見失った。
雨音が聞こえる。
周りを見渡せば、一面雨に泡立つ沼が広がっていた、下を見ると、腰から下が沼に浸かっている。
ここはどこだ?一体なぜ自分は沼に?
どうしてこうなったのか、まったく思い出せない。
「いや、今そんな事を考えても状況は何も変わらない。とりあえず、ここから出なければ」
不自然な切り替えの速さを見せた弘樹は、匍匐前進で沼の上を進み、周囲を取り囲む森へ向かった。