夢を視てゐた。
妾の前にひとりの御嬢さんが斃れてゐた。
冷たひ地面に腕と脚を投出して、夜空を凝乎と見詰めてゐる。
温度と意思の掻消へた屍人の眼である。
血色の喪せた膚は土気色で、罅割れた唇は青黒ひ。
心臓を刳貫かれた儘呆然とする死穢に呑まれた骸である。
それでも。
無残な躰を湿つた夜の空気に晒し乍ら、無垢なる光を一身に受ける姿は。
最期の月光浴を愉しむ迦具夜比売命のやうで。
妾は、膿と屎尿が詰込まれた屍が幸福な死に方をしたのだと思つた。
「私が羨ましいのかい」
溶崩れた唇を震わせ乍ら屍姫が問ふた。
妾が首肯けば、如何してそう思ふんだい、と姫君が尋ねた。
妾は何と応へたのだろうか。見惚れてゐた所為か覚へていない。
「なァんだ。そんなことですか」
血と唾液で濡れた牙を剥ひて、嘗て人間だつた女は嘆息する。
萎れた肺嚢を圧広げ、哄笑したつもりであつたのだろう。
「御前様だつてすぐに私になれるんだ。だからサ、代わりにね」
女は精一杯の猫撫聲で語る。
「私が御前様になつてあげるよ」
女の宣告は、妾の心の奥底に何の抵抗もなく沁入つて。
何時の間にか、妾は己が何処の誰かも見喪ひ、月に居残つた迦具夜比売命の如し心持で。
椛の絨毯の上に寝転び乍ら、只只望月を見上げてゐた。
夢から覚めた。
薄ぼんやりとした灰色の光が高ひ無双窓から入り、埃と黴の臭ひが鼻を突く。
梁からは繊条の切れた白熱電燈が吊られてゐる。
ひとつしかない観音開きの扉の前には、天井から床まで格子が巡つてゐる。
褪せた畳には黒ひ斑点が浮ひて、湿つた藁布団は壁蝨と蚤の温床である。
此処は座敷牢である。
私宅監置の正義の許、狂人の烙印を捺された者が飼殺される此世の地獄である。
何故妾は此処に居るのだろう。
兄様の御力添えの御蔭で、やつとの思ひで抜出すことができたといふのに。
瞼を開ける。
厭な夢を視ていたやうで酷く悪い気分であつた。
疾うの昔の出来事だつた気もするし、遥か先に起こり得る悪しき予感のやうな気もする。
隣に女がゐた。
妾と同じひとつの布団を共有して、姉妹の如く寄添つてゐた。
閨は暗く、女の姿形どころか己の躰も見えやしない。
伝わつてくる擽たひ寝息と、熱りさへ感じる柔らかな体温から。
この女が類稀なる美貌を備へていることが判つた。
此処は酒呑童子の屋敷である。
ともすれば隣で眠る女は。
――鬼女紅葉。
いずれ妾を喰らふであろう鬼の姫君である。
きつとその時が来たら、妾はさぞ喜んでしまふのだろう。
嗚呼、愉しみだ。
早く、早く、早く――。
目が覚めた――のだろうか。
地面に横臥していた。
躰は冷切つているのに袈裟に斬られた創が熱を持ち、暑ひのか寒ひのか判別ない。
先刻まで恐ろしい夢を視ていた気がする。
だが、夢よりも死に瀕したこの状況よりも、妾は恐ろしい目に遭つてゐる。
此処は椛の庭である。
過去だろうか、未来だろうか。
少なくとも現在ではないのだろう。
果たして此処は、夢か、現か――。
無限を彷徨ひ、妾といふ存在が摩耗して消えてしまいそうであつた。
それが堪らなく怖かつた。
娘が、妾を見下してゐる。
夢は覚めなかつた。
妾の前に、妾が斃れていた。