■狂人を憐れむ歌 夢と現の境界
夢を視てゐた。
妾の前にひとりの御嬢さんが斃れてゐた。
冷たひ地面に腕と脚を投出して、夜空を凝乎と見詰めてゐる。
温度と意思の掻消へた屍人の眼である。
血色の喪せた膚は土気色で、罅割れた唇は青黒ひ。
心臓を刳貫かれた儘呆然とする死穢に呑まれた骸である。
それでも。
無残な躰を湿つた夜の空気に晒し乍ら、無垢なる光を一身に受ける姿は。
最期の月光浴を愉しむ迦具夜比売命のやうで。
妾は、膿と屎尿が詰込まれた屍が幸福な死に方をしたのだと思つた。
「私が羨ましいのかい」
溶崩れた唇を震わせ乍ら屍姫が問ふた。
妾が首肯けば、如何してそう思ふんだい、と姫君が尋ねた。
妾は何と応へたのだろうか。見惚れてゐた所為か覚へていない。
「なァんだ。そんなことですか」
血と唾液で濡れた牙を剥ひて、嘗て人間だつた女は嘆息する。
萎れた肺嚢を圧広げ、哄笑したつもりであつたのだろう。
「御前様だつてすぐに私になれるんだ。だからサ、代わりにね」
女は精一杯の猫撫聲で語る。
「私が御前様になつてあげるよ」
女の宣告は、妾の心の奥底に何の抵抗もなく沁入つて。
何時の間にか、妾は己が何処の誰かも見喪ひ、月に居残つた迦具夜比売命の如し心持で。
椛の絨毯の上に寝転び乍ら、只只望月を見上げてゐた。
夢から覚めた。
薄ぼんやりとした灰色の光が高ひ無双窓から入り、埃と黴の臭ひが鼻を突く。
梁からは繊条の切れた白熱電燈が吊られてゐる。
ひとつしかない観音開きの扉の前には、天井から床まで格子が巡つてゐる。
褪せた畳には黒ひ斑点が浮ひて、湿つた藁布団は壁蝨と蚤の温床である。
此処は座敷牢である。
私宅監置の正義の許、狂人の烙印を捺された者が飼殺される此世の地獄である。
何故妾は此処に居るのだろう。
兄様の御力添えの御蔭で、やつとの思ひで抜出すことができたといふのに。
瞼を開ける。
厭な夢を視ていたやうで酷く悪い気分であつた。
疾うの昔の出来事だつた気もするし、遥か先に起こり得る悪しき予感のやうな気もする。
隣に女がゐた。
妾と同じひとつの布団を共有して、姉妹の如く寄添つてゐた。
閨は暗く、女の姿形どころか己の躰も見えやしない。
伝わつてくる擽たひ寝息と、熱りさへ感じる柔らかな体温から。
この女が類稀なる美貌を備へていることが判つた。
此処は酒呑童子の屋敷である。
ともすれば隣で眠る女は。
――鬼女紅葉。
いずれ妾を喰らふであろう鬼の姫君である。
きつとその時が来たら、妾はさぞ喜んでしまふのだろう。
嗚呼、愉しみだ。
早く、早く、早く――。
目が覚めた――のだろうか。
地面に横臥していた。
躰は冷切つているのに袈裟に斬られた創が熱を持ち、暑ひのか寒ひのか判別ない。
先刻まで恐ろしい夢を視ていた気がする。
だが、夢よりも死に瀕したこの状況よりも、妾は恐ろしい目に遭つてゐる。
此処は椛の庭である。
過去だろうか、未来だろうか。
少なくとも現在ではないのだろう。
果たして此処は、夢か、現か――。
無限を彷徨ひ、妾といふ存在が摩耗して消えてしまいそうであつた。
それが堪らなく怖かつた。
娘が、妾を見下してゐる。
夢は覚めなかつた。
妾の前に、妾が斃れていた。