1-5.この大正を綺麗なまま終わらせること、それが我々の目的だ
「今から話すことは本筋と離れてしまうが――坂ノ上君。黒澤君でも鷲尾君でも構わないが、諸君はこの大正という時代をどう思っているだろうか。良い世だと思うかい?」
前傾姿勢になりながら、実篤はまたも唐突な問いを寄越す。
実篤だけではない。馨も彪も私を見ていた。
「私はそう信じております」
私は自信をもって肯定する。
生憎、私は東京で生まれ、東京で育った人間である。
帝都の外などまるで知らないが、年を経るごとに人が集い、街として区画され、多少の雑駁を孕みながらも完成されていく東京が嫌いではなかった。大正になってからはその変化が顕著となり、まだ十年しか経っていない大正の雰囲気と、その空気に酔った人間の創造する風俗が好きだった。
具体的に述べれば――。
大正三年、百貨店の三越日本橋本店に自動階段を備えた新館が落成した。「スエズ運河以東最大の建築」とまで謳われ、「今日は帝劇、明日は三越」という惹句が大流行したのだ。私が百貨店に行ったのは人生で一度だけであったが、その瑞々しい感動は今でも鮮明に覚えている。
まだ蔑称の域を脱してはいないが、「新しい女」というのも良いだろう。
平塚らいてう女史が中心となって創刊した『青鞜』である。元始、女性は太陽であった――から始まる創刊の辞は名文であろう。しかしながら『青鞜』を読む者は不良と見做され、公序良俗への反逆者と考える者も依然として多いのが現状である。公言こそできないが、平塚女史を始めとする青鞜社を、そして世の女権拡張論者を影ながら応援していたのだ。
陸軍予科士官学校に在籍していた頃では、土曜日曜の休みは、近場の寄宿舎に朋友達と共に屯して、好きな時に菓子を食べ、茶を飲み、解りもしない詩集や短歌、果ては学術書にまで手を出して――北原白秋の言葉遣いが美しい、いや文章なら志賀直哉が勝っている――などと仲間内で議論をしていたのだ。学校の外で醸成された文化に触れるだけで私達は癒されたのだ。
無論、大正が良い点ばかりだとは云えない。
帝都にいるからこそ余計に分かるが、政治に関しては酷評せざるを得ない。今年の二月に終止符を迎えた宮中某重大事件も記憶に新しい。護憲運動や米騒動、シベリア出兵も同様である。また普通選挙という言葉を契機に、民衆が政を知った過渡期故か、民衆はより過激に、他方政治家はより慎重になってしまったという結果である。
平民宰相と親しまれる原敬首相が、普通選挙の漸進的拡大を目指すと云い、選挙権取得の条件である国税を三円にまで引き下げたのが先日のことである。有権者の資格を制限せず、広く民意を汲み取ることは民主主義の鉄則であるが、どうも首相には時期尚早と考えている節が見受けられる――。
「では、明治と比べてはどうかな?」
実篤が訊いた。やはり姿勢は先程から微塵も変わっていない。
「大正の方が優れていると思います」
「優劣の話ではない。君自身の好悪でいい」
「ならば、私はこの時代を好ましく思っております」
「そうか。それならば――」
僅かな間を置いてから実篤は問うた。
「坂ノ上君。君は、大正の世が長く続くと思うかい?」
「いいえ。思いません」
即答した私に、馨が目を剥いた。聞く者によっては、不敬罪と騒ぎ立てられる内容である。
「何を根拠に君はそう云うのだね」
「根拠と呼ぶには些か薄弱ではありますが――」
大正天皇の容態が悪化したこと及び皇太子が外遊へ踏み切ったことを述べる。
「それに加えて、膚で感じる東京の空気から判断します」
「空気? 君は空気で時代の終焉が分かるのかい」
「強いていうのなら直感のようなものです」
「――ふむ。君は随分と鋭い感性を持っているんだな」
刹那、実篤が双眸を絞った。
猛禽の如し鋭い眼光が私を捉えるが、一瞬のことであった。
「君は、このまま大正が終わってもいいと思えるかい?」
実篤は問いを重ねる。
私は答えなかった。それが何よりの答えであった。
「後藤課長。この尋問には何の意味があるのですか」
代わりに問答の趣旨を尋ねれば。
「尋問? 君は、これを尋問だと云うのかい」
僕としては雑談のつもりだったのだが、と実篤は白々しく答える。
「それならもう世間話は止めにしよう。同志の繊細な気分を害したくはないからね。その代わりと云ってはなんだが、少々ばかり拝聴してもらおうじゃないか」
私が返事をする前に、いいかね坂ノ上君――と実篤は饒舌に語り始める。
「君と同じように、僕だってこの時代のことを、そしてこの帝都を愛している。そう遠くない内に大正が終わりを迎えてしまうことも知っている。だが、このまま終わらせることだけは絶対にしてはならないのだ。――何故か。それはこの帝都が途方もない負債を抱えているからだ。負債とは表現したけれども、そのままの意味じゃない。次の時代が何と呼ばれるかは知らないが――その年号に持ち越してはならぬものが帝都には満ちているのだ。不可解で、不可思議で、雑多で穢れたモノだ。僕自身もそれが何か明確に云い表せはしないのだが――」
実篤はそこで言葉を切り、彷徨させていた視軸を私に戻した。
「今から帝都を震撼させるこれらの事件も、君がかつて斬殺した悪鬼も、その過去においてやり残した後悔も全て――次の時代には不要なものだと僕は思う。断言してやってもいい。おそらくそれらを放置すれば、この大正という時代の、雪げない汚点の一つとなってしまうだろう。いいかい坂ノ上君。黒澤君も鷲尾君もだ。栖鳳さんと小雪君は不在のようだが――次の世代に、謂れのない汚辱を負わせてはならないのだ。如何なる犠牲を払ってでも排除しなくてはならないものが帝都には沢山あり過ぎる。僕はそれらを抹殺するために諸君を招集したのだ。もう一度云わせてもらおう。我々の目的は、この大正を綺麗なまま終わらせることだ。諸君も、利害の一致があったからこそ賛同してくれたのだろう? ――立ち給え、坂ノ上君」
演説に区切りをつけた実篤は私の前まで歩み寄る。私は立ち上がる。
「君の正義は僕の正義でもある。皇女様より恩賜されたというその太刀で、存分に君の正義を貫いてくれ給え。当然、僕も君の奮闘には十二分に応える所存である」
実篤は自身の右手を差し出す。握手である。
――成程、これが特高式の命課布達式なのだろう。
私は熟考の末、実篤の掌を握り返した。
――大正を終わらせる、か。
間違ってなどいない。話の筋は通っている。
だがどういうわけか、実篤と私の正義には、ある一点において致命的な隔たりが存在して、生涯この男とは相容れぬだろうという予感を抱いていた。
その溝が何であるかは皆目見当も付かなかったが――。
私は、実篤の手を握ったことを後悔していた。
夕刻、窓越しに見る空は橙色となっていた。
事務室に残っているのは私と馨だけである。
実篤は昼前に本庁に戻った。彪は自動車の整備で車庫に出ており、栖鳳は私用で既に帰宅している。小雪は書棚の上で尻尾を揺らしながら宙空を凝視している。
私は椅子に背を預けながら一枚の藁半紙を眺めていた。今朝、紗枝の通う女学校に貼り付けられていたものである。筆跡を見れば、鬼女紅葉を名乗る女が認めた書簡と酷似している。内容からしても、差出人が同一人物であると考えるのが自然だろう。
私の頭を占めていたのは、二つの事件に符合があるかもしれないという疑念だった。
事件の捜査は、事実に基づくものである。そこに予断や先入観が介在すると、行き着く結果もまた歪なものにしかならない。故に実篤がいる場では発言を控えていたが、どうしても二つの事件が無関係だとは思えなかった。
一方は過去の大事件――酒呑童子の変に似通っており、他方はその悪鬼の娘が犯人だという。
――今日はここまでだな。
もう仕事をする気分ではなかった。尤も、とある主義者の監視報告書も、膨大な量の検閲業務も全て完了している。卓上を整理して帰り支度を始めた時である。
「おい、色男。手前に来客だぜ」
振り返れば、入口の扉から彪が顔を覗かせている。色男とは私のことらしい。
「妙な渾名で呼ぶのは止せ。それで私に客だと?」
「おうよ。可憐な娘さんが来てるぜ。手前の許嫁かい」
「揶揄うな。私に許嫁なんていない。取りあえず入ってもらってくれ」
私が許可すれば、彪に案内されてきたのは紗枝だった。
「お嬢様? どうしてここに」
この時分だと、授業を終え、病院で炊事の手伝いをしているはずであった。改めて彼女を見れば、顔面は蒼白であり、急いで来たのか肩で息をしている。
ザラ紙を裏返しに伏せて置く。机回りは先程片付けたため、部外者に見られて困る機密の類はない。
「――あの。病院に帰ったら、郵便受けにこんなものが入っていたの。それで、お父さんに相談したら、急いで坂ノ上さんに見せるようにって云われて――」
紗枝は私に細長い封筒を突き出した。
実篤が持っていたものと全く同じものである。
表には『××瘋癲病院院長殿』という宛名が、裏には『酒呑童子の娘、鬼女紅葉』と御丁寧に差出人が綴られている。
「龍臣君。それは?」
「件の鬼女からの手紙です。大方、他二件と内容も変わらないものでしょう」
「御託はいらねえ。早く読みやがれ」
異変を察知した馨と彪が私の左右につく。急かされるまま渡された書簡を検めれば、案の定、挑戦状と云ってもいい内容であった。
曰く――貴医院は、健常たる者を不適格な診断により精神異常者と仕立て、患者の親族から金子を巻き上げている。更には、患者を薬学の実験動物として扱い、幾人もの善良たる者が犠牲になっている。復讐として院長以下全ての侍従を殺して差し上げましょう。十月三十一日正午にお伺い致します。どうぞ覚悟されますよう――とのことである。
読み終わった便箋を、寄越せと手を伸ばしている彪ではなく馨に手渡す。
「襲撃の予定は十月三十一日らしいですね」
本日が十月二十八日金曜日であるから――。
「来週の頭になるわね」
「畜生が。随分急な話じゃねえか」
「私は課長に電話をかけてくるわ。この時間ならまだ課長も庁舎に残っているでしょう」
馨は事務室を去ろうとしたが、何かに気付いたように振り返った。温度のない視線は、真直ぐ紗枝に向けられている。
「ところで貴女――龍臣君とどんな関係なの?」
「え? どんなって云われても――」
戸惑った紗枝は、救いを求めるように私を見遣る。
「隊長。彼女は、私が間借りしている病院のお嬢様ですよ」
「藤島紗枝と申します」
一拍子遅れて紗枝がお辞儀をする。
「――そう。紗枝さんと云うのね」
「隊長? 何故、今それを聞いたのですか」
馨は私を黙殺すると、紗枝を見詰めたまま。
「紗枝さん。貴女は既に、この手紙を読んでしまったのかしら?」
と尋ねた。
紗枝は頷く。
「そう。それなら――書かれてあることは本当だと思う?」
「それは、どういう意味でしょうか」
紗枝の表情に不審が宿る。
「貴女の御尊父が、ここに書かれているような非道をする方かどうかを訊いているの。意地の悪い質問をしてごめんなさい。気を悪くさせてしまったら謝ります」
「気を悪くするなんて、そんな――」
いつの間にか、空気は妙な緊張を帯びていた。私の隣にいた彪の姿も消えている。整備を終わらせに車庫に戻ったのだろう。
「それで、どうかしら。貴女の病院には道徳はあるのかしら」
「隊長。そこまでにしていただきたい。そう凄まれてはできる話もできませんよ」
「心外ね。そんなつもりはないわ」
「私が代わりに答えます。××瘋癲病院は至極真当な医療機関です。私が保証します」
「分かったわ。貴方のことを信じるわ。紗枝さん、ごめんなさい」
馨は再度紗枝に詫びた。
「龍臣君。今日はもう上がっていいわ。紗枝さんを送ってあげなさい」
「では、私はこれで失礼します」
「ええ。また明日――」
目を合わせずに馨は云い、今度こそ退室していった。
帽子と外套を着用し、軍刀を佩きながら思索する。
仮にである。
××瘋癲病院が患者を徒に虐げるような悪徳極まりない場所であったなら。
此の世の活き地獄の如し環境であったなら――。
医師や看護師を殺して廻ったのは私の方だったのかもしれない。
そこまで考えた時、鬼女紅葉とやらにも正義があり、己が多少なりとも共感を抱いていることを自覚する。
だが、抜刀隊に所属している以上、人間社会に仇為す怪異は斬らねばならぬ。
その瞬間を迎えた時、己の刃が鈍ってしまうのではないか――という不安がよぎった。