1-3.相馬事件とは如何なるものか?
家屋の詰まった裏通りを抜け、上野駅正面の大通りに戻る。
混凝土の西洋建築が腰を下ろす駅前の光景である。
近場には国立博物館に上野動物公園、帝国図書館、少し歩けば美術学校や音楽学校もあり、文化の殿堂と呼ばれるようになって久しい。しかし、同時にここ上野は繁華街としての歴史も古く、聖と俗が混じり合った一種混沌とした雰囲気が特徴である。
下谷上野警察署の斜向かいにある小規模な赤煉瓦の洋館が抜刀隊の官舎である。気取った意匠の塀に囲われた二階建ての館は、写真屋にも似た小洒落た外観である。
門をくぐった先には本館と同じく煉瓦造りの車庫があり、庫内には赤い漆塗りの国産車輌・三菱A型と、黒一色の自動二輪、米国インディアン製・スカウトが鎮座している。護送ないし偵察を目的とした改造車輌であり、課長自ら特務課のために購入したものである。
玄関の横には猫の額ほどの庭があり、一本の色葉椛が植えられている。
猫の鳴き声がした。
振り返れば、門柱の上に三毛猫が前脚を揃えて座っている。
小雪と名付けられた、官舎で飼われている猫であり、彼女も抜刀隊の一員である。
玄関の扉を開ければ、門柱から下りた小雪はするりと身を滑らせて館へ入っていく。
小雪は板張りの廊下を音もなく歩くと事務室の前で止まった。こちらを返り見て一鳴きする。開けろと云っているのだろう。
私が事務室に入れば、既に上長と同僚が机に向かっていた。何やら難しい顔で、細々とした文字が並ぶ書面を睨んでいる。自分の机を見れば、昨日はなかった書類の束が積み重ねられている。大方、上野署の特高課から、票読みや検閲の仕事を回されたのだろう。
小雪は、私達に一瞬だけ視線を遣った後、定位置となった日の差す窓辺に陣取り、我関せずと云わんばかりに毛繕いを始める。
「おはよう、龍臣君。珍しく遅かったじゃない」
最奥の机に向かう女――黒澤馨が顔を上げた。
私と同じ制服を着た二十歳程の年若い娘である。鼻梁の通った涼しげな貌と、後ろで髪を纏める鼈甲の簪が目を惹いた。
窓際に座る男も顔を上げ、手にした分厚い印刷物を私の机に放り投げる。
「こいつはお前に頼むわ。お前、こういうの得意だろ」
狼藉を働いた対面の男は、鷲尾彪である。熊か猪を思わせる体躯に、眠たげな目と顎髭が特徴の同輩である。
机の配置からも判別できる通り、馨が隊長であり、彪と私が隊士である。
もう一人今は居ない者がいて、猫の小雪も加えて、計五人が抜刀隊の面子である。
たったの五名――陸軍でいえば小隊どころか分隊にも満たぬ人数である。
これでは抜刀隊に課せられた暗殺や拉致尋問といった特務どころか、上野署から回される検閲や密偵といった恒常業務もままならない。
隊士の増員及び補強の要求を課長に伝えてはいるのだが、機密が大いに絡む抜刀隊の特性故に、中々改善されないのが現状である。
「黒澤隊長。就業は八時からです。遅刻した訳じゃないんですからそう睨まないでください」
返答しながら寄越された紙束を簡単に検める。喫緊の案件ではないが、早々に片付けた方が今後のためである。
「貴方が平生通りに来てくれたら、この書類は貴方の物だったと思ったのよ。でも、今からでも遅くはないわね」
これを進呈するわ、と馨はいくつかの封筒を取ると、私の前に来て書類を突き出した。
「先方に急かされているから昼前までにはよろしくね。貴方なら容易でしょう?」
「先方というと上野署の特高係ですか」
軍刀を机に立て掛け、外套を椅子の背凭れに、制帽を堆積した冊子の上に載せる。着席して、そこで漸く馨から封筒を受け取る。
「ええ。向こうは向こうで今詰まっているらしいわ。ほら、女学生さんたちの事件」
「事件とは云いますが、只の家出という可能性だってあるでしょう」
「勿論そうであればいいんだけど――でも、きっとそうはならないわ。家出だとしたら警察も何か掴んでいるはずよ。あの人達だって優秀だもの」
言外に、行方不明となった少女達は何らかの事件に巻き込まれたと馨は含ませる。
具体的にどう思うか、とは訊かなかった。
今は何を云っても予断を招くだけである。
「警察連中で駄目となったら、その時は俺達の出番になるのかねえ」
馨の言葉を継いだのは彪であった。
「そうならないことを祈りましょう。きっと女学生さん達は無事でいるわ」
馨は纏めると、繰り返すけれど昼前までよ――と云って自分の席へ戻っていく。
「――いや、待っていただきたい。事情は分かったが納得はしていない。私は帳簿を眺めるためにここに来たんじゃありませんよ」
これでは事務屋――上野署の下請である。
私は、人に仇為す魑魅魍魎をこの手で殺すためだけに抜刀隊にいるのだ。
「適材適所って云うじゃねえか。こんな事務仕事、俺にはできねえよ」
お前ならどこかの成金様に雇ってもらえるぜ、と彪は云い、またしても私の机に封筒を乗せにかかる。その足で窓辺に行き、微睡んでいる小雪を抱え上げ、彼女の頭や背を撫で回す。
眠りを邪魔されたにも拘らず、小雪は上機嫌そうに喉を鳴らし、彪に鼻先を擦り付ける。
「彪。そうやって逃げているから、いつまで経っても貴様は莫迦なのだ」
「面倒事から逃げられるなら莫迦で結構。手前だって帝国大学を出たわけでもねえだろ。知ってるか? 目糞鼻糞を笑うってな」
「黙れ。喩えが汚い。同じ穴の狢と云った方がまだ恰好がつくだろ」
「何だい鼻糞が偉そうに。手前はつべこべ云わずに紙束と仲良くしてるんだな」
彪は意地の悪い笑みを浮かべる。無精髭の面といい煙草の脂が染みついた薄汚い歯といい、盗賊の一味と云った方がまだそれらしい。
「酷い面だ。まるで追剥ぎだな」
「冬眠明けの狸と云った方がいいわ」
私の言葉に、馨が呟いた。
彪に抱かれた小雪が、半眼で小さく鳴いた。
「彪。小雪は何と云ったのだ」
「煩いから黙ってくれとよ。それと、手前のことが気に食わないともな」
「願望を混ぜるな莫迦」
「それが本当なんだな。俺はこの人生で嘘だけは一度もついちゃいないんだ。それと、馨様。狸がするのは冬眠じゃなくて穴籠りでございますよ」
嘯いた彪は馨に向き直ると、下手糞な敬語で云った。
「あら、地獄耳ね」
「耳聡いと云ってくださいよ。夜目が利くことと耳が良いことが自慢なもので」
まるで獣だな、と私が茶化せば、煩えよ唐変木、と痛くも痒くもない反論が飛んでくる。
「動物とお話ができるのも凄いわ。私は、この子が何を云っているのか解らないもの」
「これでも修験者の端くれとして長いこと山に籠っていたんです。勝手に身についたんですよ」
馨に褒められた彪は照れたように頬を掻いた。
「山籠りとは、やはり貴様は獣じゃないか」
「今俺は馨様と喋ってるんだよ。邪魔すんじゃねえ」
「ちょっと。喧嘩は止して頂戴。どうしてこう貴方達は揃うと駄目になるのかしら」
ちっともモダンじゃないわね、と馨は困ったように頬に手を添える。
「それはこの伊達男のせいですよ」
「原因は貴様だ。ああ失敬、馬が合うから遣り合っているだけですよ。これくらいの喧嘩なんて珍しくもありませんよ」
慥かに、嫌味と罵倒の応酬の末、殴り合いの決闘になることも珍しくはない。簡単に収まった今日はまだ上品な方である。だが、これでも背を預ける仲間として認めてはいるのだ。
更に付け加えれば、軍属時代は人間の尊厳を無視した暴言暴力は日常茶飯事であった。無論、素直に肯定こそできないが、規律と緊張を守るために必要であったことは否定できない。
「貴方が云うのならそうなんでしょうね。それで、龍臣君。話を戻すけど今日はどうしたの。いつもならもっと早く来てくれるじゃない」
「下宿先のお嬢様を女学校まで送っていった時、その学校の塀一面にビラ紙を貼られる悪戯がありましてね。剥がすのを手伝っていたらこの時間になってしまったんですよ」
「貼紙だあ?」
私の話に食いついたのは彪であった。
「どうした。奇妙がることでもないだろう」
「まあ、それはそうなんだがな」
彪は顎に手を遣り、太い指で髭を撫でた。
「彪君。何をそう不思議がっているの?」
「いえ、何です。今朝方、上野署の連中も似通ったことをしていましたのですよ」
馨の質問に、やはり下手糞な敬語で彪は答える。
「何と云えばいいのか――冴えない面をしやがった二三人の連中が、壁一面に貼られた紙みたいなモノを剥がしていたんですよ。奴等、何か派手にしくじって誰かから恨みを買いやがったな、くらいに思ってたんですよ」
「その紙には何て書いてあったの?」
「いんや、そこまでは見てませんでした。何かゴマ粒のような文字があったことしか」
どうして確認しなかったのよ、と馨が云えば、手伝えと云われるのも癪だったので、と彪は悪びれもせず答える。
「そう。龍臣君、貴方の方は?」
「相馬事件を忘れるべからず、とだけ」
「相馬事件?」
馨と彪が異口同音に問うた。
尤も、その台詞が内包する意味はまるで異なるのだろう。
案の定、何だいそりゃ、と彪は太い首を傾げる。
「明治の頃、加藤瘋癲院と巣鴨病院で騒がれた事件よ」
「事件って云うと、具体的にはどんなもんで?」
「加藤瘋癲院――今で云う精神病院に入院した相馬誠胤という人物がいたのよ。その相馬氏を巡る一連の御家騒動――という認識でいいと思うわ」
そこで馨はこちらに意味ありげな視線を寄越す。あとは私が説明しろということだろう。
「相馬氏は旧中村家――福島県の一部の家督相続人だったのだが、元々精神疾患をもっていたようでな。若い頃から幻覚や妄想を訴え、二十五歳の時に加藤瘋癲院に入院したのだ。それ以前は座敷牢に私宅監置されていたようだが――まあ、それは置いておこう」
「どうした? 苦虫を呑み込んだような面しやがって」
「それを云うなら噛み潰すだ。相馬氏が瘋癲院に入院してからだが――相馬氏の忠臣を名乗る錦織剛清という者が、相馬氏を精神病にしたのは御家乗取り企む志賀直道の陰謀だと考えたようで、病院側に執拗な面会や退院要請を行ったのだ。ところが病院側が応じないため、その自称忠臣は脅迫状を出したらしい。院長も流石に困ったようで、相馬氏を別の病院――巣鴨病院に移してしまったのだ」
「成程な。それで結末はどうなるんだ?」
「その忠臣は、相馬氏を巣鴨病院から攫ってしまうという暴挙に出たのだ」
「へえ、そりゃ大した野郎だな。錦織って奴の気持ちも分からんでもないがね」
「この騒ぎを聞き付けたのは文屋だ。精神病院の不祥事を喧伝する絶好の醜聞となった訳だ。錦織も世間を焚き付け、相当な騒ぎになったらしい」
この騒動は芝居の恰好の演目にもなったようで、相馬騒動見立鏡と題され、市川團十郎によって演じられたとも聞く。
「しかし大袈裟じゃねえか。元はといえば、脅迫状を出した方が悪いじゃねえか」
「まあ、それはそうなのだが問題はそこじゃない」
この事件の問題は――。
「第三者の手によって家督相続人ともあろう大事な者が精神病に仕立て上げられたことなのだ。これでは、都合の悪い人間なら誰であっても癲狂院に監禁されてしまう――という惧れを世間に訴えたのだ。どこかは忘れたが『世紀の大暗黒・癲狂院』という派手な見出しを掲げた新聞もあったはずだ」
精神病の性質の悪いところは、診断は全て医者の匙加減となり、患者の意見がまるで通らないことなのだ。例えば患者の父母家人が、どうぞこの不出来な末娘を未来永劫入院させてやってください――と金子を包んで医者に渡せば、医者は喜んで精神障碍者と診断してしまう。体の良い厄介払いが成立してしまうのだ。
「するとつまり、その相馬何某は、本当は精神病じゃなかったということか」
「いや、あくまで錦織の考えだ。事実はもう分からない」
「話の流れは分かった。それで決着はついたのかい」
「相馬氏は一度は退院したが――明治二十五年に原因不明の吐血で死んだよ。錦織はこれを毒殺だとして、家令の志賀直道や病院関係者など計二十六人を告訴したが――結局、敗訴したのは錦織の方だった。明治二十七年の最終判決では、逆に誣告罪で懲役四年と罰金四十円の判決を受けたはずだ」
この裁判は、当時の内務省衛生局長である後藤新平が同調したこともあり、新聞屋も相馬疑獄と大いに騒ぎ立てた。また錦織の著書『闇の世の中』も広く読まれ、是非こそあれ世間の関心を買うのに一役買っていた。
「なんでえ、結局曖昧なまま終わっちまったのか。それにしてもやけに詳しいじゃねえか。明治の中頃っていえば、お前は産まれてねえだろ」
「貴様もそうだろ。私が特別詳しいんじゃない。貴様が活字を読まないだけだろ」
まさか文盲じゃあるまいな、と私が云えば、人を虚仮にすんじゃねえ、と彪は遣り返す。
「話を戻すけどよ、その相馬事件が何とやらっていうのは、女学校と何の関係があるんだ?」
「さあな。そこまでは分からん」
「それじゃ意味がねえだろ役立たず。聞いて損したぜ」
「役立たずは貴様だ。世間知らずが何を喚いているんだ」
再び応酬が始まりそうなところに、程度の低い喧嘩は止めて頂戴、と馨が釘を刺す。
「おそらく、何の関係もないのでしょう。上野署との繋がりは解らないけれど、いずれにせよ私達の任務には成り得ないわ。少なくとも今はね」
少々の含みを持たせながらも馨は結論付ける。