1-1.××瘋癲病院での目覚め
…………ブウウ――――ンンン――――ンンン…………。
振子時計の鐘の音で私は目を覚ました。
蜜蜂が唸るような深い余韻が耳に残っている。
目を開ければ、白い番瀝青の塗られた天井から温白色の裸電流が垂れ下がっている。
鈍色をした混凝土壁に囲われた二間四方ばかりの部屋である。三方の壁には鉄格子と金網で二重に張り詰めた磨り硝子の窓が取り付けられている。
窓のない壁には、真鍮の把手がついた木製の扉が鎮座している。施錠こそされていないが、見る者に威圧を与える重厚な扉である。
私は真白な敷布が敷かれた寝台に寝ていた。
暑くも寒くもない。疲労も倦怠もない。
目は冴えていたが、如何ともし難い不快が胸に満ちていた。
窓に目を遣れば、白い陽光が差し込んでいる。
遠くからは、雀の鳴き声や、郵便屋の自転車の呼鈴、棒手振りの声がする。
朝である。また、私は朝を迎えたのだ――。
幾度目かも分からぬ悪夢であり、心臓が抉られたように痛んだ。
鈍痛を堪えながら、鈍々と上体を起こす。
不意に、扉の外から軽やかな跫がした。音から察するに、線の細い女性のものである。
「失礼します。配膳に参りました」
早朝であることを心遣った控え目な声であった。
扉の横、床上三寸の高さに取り付けられた切戸が開き、箸と椀を乗せた膳が入れられる。白木の盆を運んでいるのは色の白い少女の手であった。
院長の一人娘であり、毎日この時間に食事を差し入れてくれる。
仮にである。
仮に、私が記憶を喪くし、己を思い出せずに居たら、彼女の腕を無手と引掴み、どうぞ教えてください。僕の名前は何と云うのですか――などと問い詰めていたのかもしれない。否、罪深い私の記憶など、壁に頭を打ち付けでもして忘れてしまった方が幸せだろう――と益体もないことを考えながら、湯気を立てる味噌汁を眺めていた。
生憎、私は記憶障碍を患ってもいなければ、おそらく狂人でもない。
私は己が坂ノ上龍臣という男であることを知っている。
そしてここが帝都郊外にある『××瘋癲病院』の一室、東棟第七号室であることも。
「坂ノ上さん。起きておりますか」
扉越しに院長の娘が尋ねた。
ああ、今起きたところだ――と答えようとして、己の声が酷く嗄れていることに気付く。獣の鼾の如し濁声であった。
相手も不審に思ったのだろう。扉が一尺程度開かれ、娘が顔を覗かせる。
「どうしたの? 具合でも悪いんですか」
「心配無用だ。ほんの少しだけ、夢見が悪かったのだ」
「でも酷い声よ。顔色も良くないわ」
入りますよ、と断ってから娘――藤島紗枝は入室する。
肩口で切られた丸い髪型に、耳の上につけた髪飾りが似合う十五くらいの少女である。矢絣の着物に葡萄茶色の袴を纏った、女学生らしい今時の恰好である。
紗枝は私の横まで来ると、私の肩をやんわりと押して寝かせようとする。
「大丈夫だよ。それより着替えたいし、食事も済ませたい」
「坂ノ上さんがそう云うならいいけど、あまり無理をしちゃいけないわ。毎日のようにうなされているの、気付いていないでしょう?」
「これは失敬、私はうなされていたのか」
自覚していなかった、と云えば、今日だって廊下まで響いていたのよ、と紗枝は小さな掌で私の背中を撫でつける。
「他の患者さんが心配していたわ。それに看護婦さんたちも」
「他の患者とは云うが――ここには私しかいないだろう」
現在、東棟一階に患者はいないはずである。
幸か不幸か、私がうなされていたとしても、石壁をポトポトと叩いて覚醒を促してくれるような気の利いた隣人はいない。
「二階にいる患者さんよ。一昨日なんか、地獄の鬼が呻いているって一人が叫んだら、それが他の人にも伝わったみたいで、宥めるのに苦労したって当直の婦長さんが云っていたわ」
「そうだったのか。いや、それは本当に申し訳ない」
「一度、お父さんに云って診てもらった方がいいわ。誰かに話すだけでも、きっと楽になると思うもの。ううん、聞くだけなら私にだってできる」
「それには及ばない。気持ちだけ頂戴するよ」
「でも――」
尚も言い募ろうとする紗枝を遮り寝台から立ち上がる。
「院長が忙しいのは君も知っているだろう。それなのに、私などのために手を煩わせたくない。院長には、本当に治療を必要としている者のために時間を割いてほしいからな」
そもそも、魘夢やそれに伴う譫言は私個人の問題である。換言すれば、これは私が背負うべき課題であり、他者の施しを受けるなど絶対あってはならないのだ。
「さあ、君も今日は学校だろう。私に構っていても仕方ないだろう」
退室を促せば、少々の渋りを見せたが、紗枝は引き下がってくれた。そのまま部屋を出ようとしたところ、あ、そうだ――と何かを思い出したように振り返る。
「お父さんが坂ノ上さんのことを呼んでましたよ。ご飯のあとでいいから院長室に来てくれって。何かお話があるみたい」
「分かった。しかし何の用件だろうか」
「それは私も知らないわ。聞いても、はぐらかしてばかりで教えてくれなかったもの」
あとで教えてくださいね、と不満げに頬を膨らませた紗枝は今度こそ七号室を出て行った。
食欲こそなかったが、床に置かれた朝食を胃に収め、寝台の下から長持を引き出す。
木綿の入院着を脱ぎ、長持から出した黒一色の軍装に袖を通す。歩兵宜しく、履くのはグシャ長の革靴である。
高い詰襟と帯剣用の革帯こそ陸軍の制服に似ているが、櫻花と刀の徽章をもつチェッコ式の制帽と、裏地が臙脂色の少しばかり華美な外套が異なっている。
それに佩用するのは騎兵用の護拳刀ではない。
金の装飾が施された恩賜の軍刀である。
軍属時代、とある武勲を上げた時のことである。連隊長殿から褒美は何が良いかと訊かれ、折れない名刀がいいと答えたら、後日高貴な血を引く御方から賜った逸品である。その折、輜重隊から近衛隊に転籍してはどうかと勧誘されたが、丁重に辞退した経緯がある。その頃には、既に軍を退くと決めていたのだ。
今となっては遥か昔のことである。
部屋を出て、廊下の突き当たりにある洗面所で身支度を調えてから院長室に向かう。
院長室は本棟の三階である。
ここは明治の初頭に、或る富豪ないし慈善家によって設立された古めかしい建築である。
薄暗いリノリウムの床を歩けば、どこからか湿気と蘚苔、濡れた膠泥の臭いが漂う。
窓から中庭を見下ろせば、病棟に沿って名も知らぬ広葉樹が並んでいる。
地階の受付裏から一直線に貫く敷石を辿れば小規模な噴水に行き当たる。庭木への灌水を目的としているであろう噴水の水盤は澄んでおり、その中央には青銅の水魔が佇んでいる。
掌を噴水口とした美貌の妖精は、口許に笑みを湛えながら此方を見詰めている。
その眼差しに寒心を抱くのは、彼女の歌声に引き寄せられた者は、水底に引き摺りこまれるという西欧の伝承を知っているからだろう。
院長室の扉は閉鎖病棟と同様に木製であったが、紅檜皮の重厚な一枚板にはゴシック調らしき繊細かつ優雅な彫刻が施され、如何にも院長室という威風を放っていた。
把手の少し上を三度指先で叩けば、入ってくれ、という返事が聞こえた。
入室すれば、この館の主――藤島亮は、窓際に置かれた革張りの黒椅子から立ち上がり、此方にやってくる。白衣を肩に掛けた壮年の男であり、その手には先刻配達されたばかりであろう朝刊が握られている。
論文でも書いていたらしく、学術書の積み上げられた両袖机の中央には、英語の綴られた用紙と舶来品の万年筆が置かれている。その横の灰皿には既に十を超える吸殻が転がっていることから、進捗は思わしくないらしい。
「朝から呼び出して済まなかったね。どうしても君に頼みたいことができてしまったのだ」
院長の物腰こそ柔らかいものであったが、丸眼鏡の鏡面越しに覗く双眸には鋭い智慧が光り、知的階級特有の無意識なる圧迫を秘めていた。
「それは構いませんが、お嬢様が拗ねておりましたよ。博士が何も教えてくれなかったと。後程機嫌取りでもしてやったらどうですか」
「それは論文を仕上げてからにしよう。いや、なに。あの娘に云う訳にはいかなかったのだ。何しろ、頼み事とはあの娘に関わることだからね」
「どういうことでしょうか」
「まずはこれを見てくれ。君なら既に知っていることかもしれないが」
院長は私に新聞を手渡し、この事件なんだがね、と一記事を人差指で二度叩いた。
本日の朝刊、大正十年十月二十八日、朝日新聞の紙面である。
示された記事を見れば――。
『東京市ニテ女學生の失踪相次グ、此デ四人目』
品質の悪いザラ紙に、活版印刷の角張った文字が踊っている。
近頃、帝都を騒がせている事件である。
女学生ないし妙齢の女性が、忽然と行方を晦ますのだ。
警視庁の官憲達は街中を這いずり廻り捜査に尽力しているらしいが、未だ手掛かりは掴めないという。
失踪した少女達には何の繋がりもない。また目撃証言もなく、言動に不審な点も見受けられず、故に連中も困窮していると専らの噂である。
――聞き覚えのある事案である。
現状はまだ失踪扱いである。
偶然が重なった、ただの家出という可能性だって捨てきれない。
だが、仮に。
行方不明となった娘のひとりが他殺体となって見付かったらどうだ。忽ち帝都を騒がせる一大事件と成り果てることだろう。
「まさか、お嬢様のために下手人を捕らえよと仰るつもりですか。だとしたら管轄が違います」
「流石にそんなことは云わないよ。ただ、今日からあの娘の送り迎えを頼みたいのだ。近頃、やけに物騒になってきたからね。剣を下げた軍服がつき従いでもすれば、下手人も手を出そうとは考えまい」
「成程。お嬢様を女学校まで送迎せよ、ということですか」
院長は、親心として万一のことを危惧したのだろう。
況して、これ以上娘の身に何かがあってはいけないとも。
「送迎というよりは護衛だよ。身柄の安全保証が絶対条件なのだから」
そこで、院長は懐から紙巻きを取り出して咥えると、同じく取り出した燐寸で着火させる。満足そうに煙を吐き出した後、その場から机上の灰皿に放り捨てる。
放物線を描いた燐寸は、灰皿の縁に弾かれると書きかけの論文の上に着地した。
顔を顰めた院長は、慌てて革張りの椅子に戻っていく。
「君の職場なら、あの娘の学校と遠くはないはずだ。難しい話じゃないだろう?」
「行きなら可能ですが、帰りとなると難しいですね。此方にも任務がありますので」
「仕方ないな。だが少し困ったな。どうしたものか」
「そこまで心配なら雑役夫にでも頼めばいいでしょう」
「それも考えたのだが、ここには腰の曲がった年寄りしかいないのだ。いざという時に動けないのでは意味がないだろう」
「それなら車夫でも雇ってはどうですか。今では一円払えばどこにだって行ける時代ですよ」
「生憎だが、ここは経営に苦しい貧乏フーテン病院なのだ。ない袖は振れぬというものだ」
諧謔混じりに院長は肩を竦めた。
今日日、癲狂院や瘋癲病院というのは、隔離収容という処置が唯一の療法と信奉されていた前時代的呼称であり、今では精神病院と云うのが一般的である。だが如何なる訳か、当の博士は癲狂院という看板をいたく気に入っているらしく、未だに改名する気はないらしい。
「車輌さえ用意していただければ、私なら運転も整備も可能です」
「そう簡単に云わないでくれ。車夫を雇うよりもよりも高くつきそうじゃないか。まあ、いい。帰りのことは後で考えることにするよ。とにかく、今日から行きだけでも頼むよ。では、僕は彼女に事の次第を伝えてこよう。君は正門で待っていてくれ給え」
今の時間なら配膳室いや資料室かな、と呟いた博士は足早に部屋を出て行った。
私はひとり、西洋紙と洋墨、煙草の匂いが漂う部屋に取り残されてしまった。
何となしに居室を見廻せば、左右に設置された背の高い書架には、精神保健に関連する学術書が和洋問わず所狭しと並べられている。
一見すれば、特別な仕分けもない書庫に見えるが、注視すれば、この部屋の主が、精神医療と患者への待遇改善に重きを置いているのが窺える。
その証左に、数年前、提唱されたばかりの森田療法に関わる冊子や、日本神経学会創始者のひとりである呉秀三の論文が書架の半分以上を占めている。
大正七年、同氏によって発表された『精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的觀察』に記された『わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし』という言葉は記憶に新しい。
無辜なる常人を狂人と称して、座敷牢に幽閉するなどあってはならないことなのだ。
――茜。
三年前に死んだ妹の姿が脳裏を過る。
妹は、椛の絨毯の上で殺されていた。
両親や家人から、彼奴は狂人だと蔑まされ、あの娘はさぞ悲しかっただろう。
――助けてやれずに済まなかった。
――いつか必ず、お前の仇を討ってやる。お前の悲しみを雪いでやる。
堪らなくなり、私は逃げるように部屋を出た。その足で正門に向かう。
私が玄関の柱廊を抜けて正門に着いた時には、既に紗枝はいた。
煉瓦積みの門柱に背を預け、退屈そうに俯いている。
「お嬢様。済みません、待たせてしまいましたか」
私が声を掛ければ、紗枝は顔を上げ、取り繕ったような笑みを浮かべる。
「いえ、そんなことはありませんよ。私も今着いたところです」
「親父さんから既に聞いているとは思うが、君の護衛を任されることになった。窮屈に感じることもあろうが、今日から宜しく頼むよ。あくまでも行きだけなのだがね」
「こちらこそお願いします。でも、いいのかしら。迷惑じゃないかしら」
「構わないよ。お嬢様こそ厭じゃなければね」
「いやじゃないわ。むしろ嬉しいわ。坂ノ上さんについてもらうなんて、なんだか立派な人になった気分ですもの」
「それなら良かった。では、行こうか」
一度だけ病棟を返り見れば、屋上から伸びる時計塔が午前七時を回ろうという時分であった。
真四角の文字盤には、今や見慣れたラテン数字ではなく、十二支の絵模様が刻まれている。
院長曰く、大時計の動力は、この病院に入院していた或る偏執狂が作り上げた傑作であり、精妙な共鳴盤と撥条からなる永久運動であるという。
それに加え、強烈な反射板を備えた真空の硝子箱が設置され、内部に蓄えられた水が太陽光で蒸発すると、上部の毛細管により下部に集約及び還元され、水滴となって落下しながら、振動板の端に設けられた水車を回転させるように工夫された――一種の漏刻である。
螺旋による補給を不要とした時計塔を担いだ西洋建築は、端から見れば死霊が集う化物屋敷であり、彼等は今も終わらぬ応酬を繰り広げているのかもしれない――。
即ち、存在とはかくあるべき、と。