■蛇足 ××瘋癲病院七号室の妄想
××瘋癲病院に帰宅したのは真夜中であった。
どこをどう歩いたのか分からない。いつの間にか自然と七号室の扉の前に来て、石像のように突っ立っている私自身を発見した。
私は中に入った。今朝のままになっている寝台の上に、靴履きのまま這い登って、仰向けにドタリと寝た。扉がひとりでに閉まり、重々しい陰鬱な反響を部屋の内外に轟かした。
「――嗚呼、兄様。遅かったじゃありませんか。返事をして頂戴な。妾ですよ」
不意に、喜色を含んだ女の声がした。
この声には聞き覚えがあった。かつて妹が座敷牢に鎖されていた頃、蔵の壁越しに交わした遣り取りである。
ともすれば、これは幻聴である。
私の脆弱な精神から漏れ出した、遙か遠い追憶である。
「どうして返事をしてくださらないのですか。妾を忘れたのですか。妾です――」
声は、魂切るような甲高いものとなっていた。
私は寝台の上に長々と仰臥したまま、死人のように息を詰めていた。
……ブ――――ンンンン……。
時計の音が、廊下の行き当たりから聞こえてきた。
先刻の声がピッタリと止んだ。
……ブ――――ン……。
また、時計の鐘が響いた。同時に、頸を石膏で固めた彪の顔が浮かんだ。奴は強がっていたが、側頭部の打撲が酷く、聴力と平衡器官に障碍が残り、歩行すらも儘ならぬことを知っている。馨の側にいたいがために入院を断ったことも。
……ブ――――ン……。
栖鳳は、態度こそ普段と変わらぬが、警官隊の数名を喪ったことを気に病んでいるのを知っている。また、馨に対して過保護になったように見受けられる。当の本人に自覚はないが。
……ブ――――ン……。
実篤は何も変わらない。相変わらず大正を終わらせることに腐心してばかりである。新たな殲滅対象を見つけたらしく、官舎を開けることが増えた。
……ブ――――ン……。
馨とは――自惚れでなければ、関係が深いものになった気がする。検閲や票読みの事務仕事を押しつけられることこそ変わらないが、業務終わりに、護衛という名目で市街に繰り出すことが増えた。我々を見た小雪が不貞腐れたように唸るのも変わらない。
……ブ――――ン……。
藤島院長とは、事件以来顔を合わせていない。だが、伺いたいことは山ほどあった。我が妹の犯した罪――精神病院襲撃という手段は、精神医学史において何らかの有益を齎したのか。或いは、やはり狂人と称される者は野蛮だという意見を助長させるに過ぎぬものであったのか――。
……ブ――――ン……。
紗枝にも事件以降会っていない。精神的に疲弊した今、無性に会いたかった。労ってもらいたかった。他の患者のついでに出される病院食ではなく、彼女が手ずから作った温かい握り飯を食いたかった。
……ブ――――ン……ブ――――ン……。
……ブ――――ン……ブ――――ン……。
頭蓋を割られ、その場に崩れ落ちる凛太郎の映像が過る。
首だけになっても笑い続ける鬼女紅葉が。
血を美味そうに呷る酒呑童子が。
心臓を穿たれて斃れる最愛の妹が――。
……ブゥゥゥ――ンン――ンンン…………。
十二回目の鐘が鳴った。
本当の狂人は、誰でもなく私だったのではないだろうか。
何者かの視線を感じて、私は扉を見た。
ドアの前に、自分の顔が浮かび上がる――予感がした。
頭髪と鬚を蓬々とさせて、凹んだ瞳をギラギラと輝かしでもするのだろう。そうして私と顔を合わせると、たちまち朱い大きな口を開いて、カラカラと笑うのかもしれない。肝を潰した私は、何事か叫ぶのだろう――と思った。
だが、いつまで経っても影は現れなかった。
代わりに、女がいた。
暗闇でも明瞭と分かる緋色の装束に、豊かな黒髪が特徴の娘である。
黒曜石の如し円い瞳で、私を見下ろしながら。
「兄様。あなたには、まだこの時代を生きていただきます。大正は終わりません。私がいる限り、ずっと――」
と女は云った。
私は女を見て――良かった、と心の底から安堵した。




