6.次の時代は、私と生きて頂戴
私が警視庁から解放されたのは、紅葉を馘首した翌日の十一月五日の事である。
空を仰げば紅い。長い間電燈が点いた取調室に監禁され、休憩を挟む事なく聴取を受けていたため、この空が朝焼けか夕焼けかの判別はつかなかった。
「そこの特務課の御方。少々ばかり、お時間をいただけないですかね」
ハンチング帽を被り、洋襟に袴という書生然とした風貌の青年が駆け寄ってくる。
どうした、と訊けば、お聞きしたいことがありましてね、と書生は人懐こい笑みを浮かべる。
「よく私が特務課の人間だと判ったな」
「そりゃその真黒な制服で判りますよ。それにおたくら有名ですもの。何をしているのか詳しくは知りませんし、上役からも特務課には首を突っ込むなと釘を刺されているので、敢えて知ろうとも思いませんが――そんなことよりもですね、連続少女殺人事件の件ですよ」
青年が声を上げたため、離れた処に立っていた門番が私を睨む。
「少しは周囲に気を遣ってくれ。それで、それがどうしたと云うのだ」
「教えて欲しいんですよ。兄さん、その事件に一枚噛んでいるんでしょう? いい加減、進展がある頃かと思うんですよ」
「誰だって同じ事を思っているだろうよ。それを訊くということは、君は記者なのか」
「ええ。朝日新聞社の者です」
「生憎だが、私から君に話せる事はない。他の事件を追った方が利口だろうな」
「まあ、そりゃ昨日トビキリのが東京駅で起きましたけれど」
青年は云い淀む。
「東京駅で何があったのだ」
「さてはご存じない? 驚かないでくださいよ。あの平民宰相が殺られたんですよ」
記者は砕けた口調で云った。
平民宰相――立憲政友会の原敬首相のことである。
「君、それは本当なのか」
「ええ。今ウチでも号外を出しましたけど、刃物で胸を一突きですよ」
何が面白いのか、記者は誇らしげに云った。
あの首相には期待していたのだが――これも時代なのかもしれない。
「あれ? あんまり驚きませんね。もしかして知っていたんですかい」
「いや、初耳だよ。だがまあ、人の死にはもう驚かないと決めているのだ」
今生において、茜の死以上に衝撃的な事実など起こり得ないだろう。
「では記者殿、達者でな。私はこれで失礼するよ」
「待ってくだせえ。何かあれば朝日新聞社の――」
鞄から名刺を出そうとした青年を無視して、傍に置いたバイクに跨がり発進させる。早朝とも夕方ともつかぬ空気を緩慢に泳ぎ乍ら彼方此方を見遣れば、平生と変わらぬ帝都の街並みが流れていく。
学友と姦しくお喋りに興じる女学生達に、生き急ぐかの如く足早に歩く俸給生活者達。時代の先端を邁進するモボとモガ達――。
何処にも、凄惨な事件があった気配は見受けられない。皆、全て忘れてしまったかのような呑気な顔で帝都を闊歩している。
案外、このようなものかもしれない。
皆、己の生涯に懸命なのだ。他の事になどそう構ってはられないのだ。
これから先、また衆目を引く騒ぎが起きるだろう。更にまた別の事件が起きて――徐々に過去の出来事から忘れ去られていくのだ。そうして幾層にも凝縮され、圧迫された地層の如し記憶が形成されて――大正という治世が終わる時、何処かの誰かがその大地を採掘して、この時代の意義や功罪を好き勝手に述懐するのだろう。
そこに例外はない。私だって同じだ。茜の眠りを見送った事も、紅葉を斬った事も、今でこそ鮮明に記憶しているが、何時かは過去にしていかなくてはならない。
私はこの大正の行く末を見届けるのだ。
過去に拘泥してはならない。前に進まなくてはならない。
愛しくも悲しい、私達が生きた大正を看取ってやるのだ――。
そこまで考えると、勝手に右腕が動き、バイクを加速させていく。
抜刀隊の官舎に到着した。敷地内にバイクを停車させようとした時、館の正面に誰かがいる事に気付く。
私と同じ黒一色の制服に身を包んだ女――馨である。庭先の彩葉椛から此方に向き直ると上品そうに微笑んだ。私も左手を挙げてから降車する。
「半刻前、貴方が警視庁から釈放されたと連絡があったのだけれど、ちょっと遅かったわね」
斜陽に目を細め乍ら馨は云った。
西から注がれる橙の光が、煉瓦造りの洋館と後方の椛を照らしている。涼やかな秋風が私達をすり抜け、馨の前髪と洋袴の裾が僅かに靡いた。風に乗って漂う夜の香りに、漸く今が黄昏刻である事に思い至る。
「どうしたのよ、そんなにこっちを見て」
「失敬、あなたの姿に見惚れておりました」
まるで絵画のようだった、と正直に述べれば、お世辞は止して頂戴、と頬を染めた馨はくるりと身を反転させる。
私達の様子を地階の窓から見ていたのだろう。三毛猫の姿をした小雪が、窓を開けて庭に下り立った。馨の足下に寄りついた後、急かすように小さく鳴いた。
早く事務所に戻れ、と云いたいのかもしれない。
小雪は私に一瞥くれた後、猫らしく不満気に鼻を鳴らすと、僅かに開いた玄関の扉からするりと館内に入っていく。
「あの子、やっぱり貴方の事が嫌いみたいね」
小雪の様子を見ていた馨が、面白そうに笑った。
「それより、課長が応接室であなたを待っているわ。貴方の口から報告が聞きたいって」
「課長直々の呼び出しですか」
ならば――遂に覚悟を決める時が来たのかも知れない。
妹が帝都を騒がせる大事件を犯したのだ。兄である私も、何らかの責を負わなくては道理が通らぬ。まして、人外を憎む実篤なら尚更である。
「その場に彪と栖鳳はおりますか」
「いいえ。同席するのは私だけよ。どうしたの? 難しい顔をしているわ」
「――いえ、辞世の句を考えておりました」
「辞世?」
「何でもありません。行きましょう」
この大正という世は、明治天皇に殉じた乃木希典夫妻の自決から始まったのだ。
ならば――一度は軍属であった私である。二度も妹を喪い、生きる意味をなくした私がこの時代に殉じたとしても、何も不思議ではないのだ。寧ろ、死に場所を得た喜びすら感じていた。
紗枝と馨を残して消えることに一抹の寂寥を覚えたが、それよりも安堵の方が勝っていた。
「黒澤隊長。今までありがとうございました。後はお任せします」
馨の顔も見ず、返事も聞かず、私は足早で応接間に入っていく。
「――さて。時間も有限であるから、早速本題に入ろうか」
実篤は真正面にいる私を見詰める。
「坂ノ上君。まずは――君を労おうか。今回の事件において、黒澤君を奪還した後、賊の首領であった鬼女紅葉を討ったことは君の功績だ。目に余る独断行為があったことも否定はしないが、そこは黒澤君から指導してもらうことにしよう。尤も、奮闘してくれたのは鷲尾君も栖鳳さんも同様だがね。皆の健闘に報いる為にも、近々報告もかねて局長殿と会うのだが、給金でも物品でも、各自欲しいものを纏めてくれ給え」
「承知致しました。それは私で、皆の意見を聞き入れましょう」
馨が頷けば、ウン頼むよ――と云い、実篤は銜えた葉巻の先端に火を点ける。
「僕が皆の希望をもぎ取ってくるためにも、だ。坂ノ上君。是非君の口から改めて事の仔細を聞きたい。慥かに、明日にでも警察から正式な報告書が上がってくるとは思うが――それじゃあ駄目なのだ。連中はあくまで人間社会を守護する刑事でしかない。事務屋でも文屋でもない。そしてなまじ凝り固まった頭で整合性をとろうとするものだから、お粗末な文章にしかならないのだ。君だって、云わずにいたことだってあるはずだ。故に、僕は君から直接聞きたいのだ」
重圧を秘めた音吐であった。
実篤の云う通り、ここで何も云わぬ訳にはいかない。
此度の事件は、私と茜のものなのだ。私と茜のせいで多くの者が犠牲になった。ならば、せめて上長の実篤には仔細を明かさねばならぬ。そして己が罪の責め苦を負わねばならぬ。
これが社会を全うとする大人というもの――否、私の生き様だ。
仮令この場で切腹を命じられても私は構わない。既に覚悟は済んでいる。
「申し上げます。この事件の発端は――全て私にありました」
そう切り出し、客観と主観を交えぬよう、慎重に始終を述べていく。
茜という妹がいたこと。彼女は、幼き時分より明晰すぎる頭脳をもつという理由だけで、座敷牢にとらわれていたこと。狂人という差別に苦しんでいたこと。私が妹を連れ出した際、何者かに攫われてしまったこと。実はそれが妹と鬼女の謀りであったこと。
当時軍属であった私は、帝都の少女達が誘拐ないし惨殺された事件の犯人と思わしき本拠地へ出向いたこと。首魁である大鬼を殺して妹を探せば、心臓を食い荒らされた妹の屍が残されていたこと。
妹を殺したのは紅葉という名の鬼女であり、妹の精神が紅葉の肉体に宿ってしまったこと。鬼の躰に乗り移った茜は、狂人と虐げられた恨みを雪ぐ為、両親家人を殺し、生家に火を放ったこと。それでも治まらぬ妹は、鬼の強大な力にすり寄ってきた賊共を遣い、無辜の少女達を攫い殺してしまったこと。
たったひとりの兄である私を誘い、鬼女の躰の中で永久を生きようとしたこと。説得の末、妹を眠らせることに成功したこと。蘇った鬼女紅葉を殺したこと――。
己の中で整理がついていたことでもあり、説明には然程困らなかった。
「私からは以上です。妹が、大変ご迷惑をおかけいたしました」
実篤に深々と頭を下げる。
「坂ノ上君。頭を上げ給え。君が謝る必要などどこにもないのだ。話を聞く限り、君はご家族の為に、懸命に事に当たっただけじゃないか。妹御にしても――事の発端は、この国の精神病患者に対する扱いが不当であることに由来するのだろう? ならば、それで凶行に走ったとしても、私は茜君を責める気にはなれないな。いや、何。茜君の意思が、鬼女紅葉の持つ残虐性に歪められた。君はその鬼を殺し、妹御の魂を救った――それでいいだろう」
実篤にしては珍しく同情的な云い振りであった。
「温情ですか」
「まさか。端から聞けば面白い復讐譚だからね。これに乗らぬというのも勿体ないだろう」
「私は既に使命を果たした身です。今ここで自害しても悔いはありません」
「ふん。武士宛らの態度は些か時代遅れに過ぎるというものだ。今はもう大正だぜ」
それも終わりかけのな――と皮肉そうに云った実篤は、紫煙をぷうと吐いた。
隣の馨が不快そうに顔を顰めた。その表情のまま。
「茜さんの受けた差別だのことだけれど」
と切り出した。
「どうにかならなかったのかしら。この間の相馬事件じゃないけれど――明治三十三年には精神病者看護法も発布されたし、三十五年には精神病者慈善救治会が発足されたとも聞いてるわ。救治会は今でも積極的に活動しているんじゃないの?」
「慥かにそれが時代の流れであり、啓蒙は市井にも広がってはいるのだろうがね」
答えたのは実篤であった。
「事実、大正五年には我々内務省に保険調査委員会が設置されたし、調査の結果、精神病者全数に対して実際の入院者は一握りであること、病院が都市部ばかりに偏在していることも明らかになった。大正七年には、呉秀三が『精神病者私宅監置の実況』を出版して、実に悲惨な私宅監置の実情が明るみに出た。医学界からの圧力もあり、大正八年には精神病院法が成立したが――これは精神病院の不足を私立病院で補おうとするのが趣旨なのだ。生憎問題はそこじゃない。未だにこの世は、身内から狂人が出たら、その地にいる限り一生後ろ指を指されることになるし、一度狂人という烙印を捺されたら、本人がいかに足掻こうとも、その傷は決して拭うことはできないのだからね。勿論、未監置の精神病患者が犯した殺人や強姦、放火といった犯罪も絶えずに起きていることを無視する訳にもいかないが――その議論に決着をつけるのは我々の仕事じゃない。それは百年後の者達に譲ろうじゃないか」
そんなことよりも――と実篤は演説を続ける。
「我が国の臣民達はまだ先進的じゃない。どうにも古臭くて、しかもそれを美徳とすら思ってるのだから何とも愚かしいことじゃないか。だから、という訳ではないのだが」
そこで実篤は葉巻の灰を灰皿に落とし、さも愉快そうに唇を歪める。
「僕は茜君の復讐を最大限利用させてもらおうと考えている」
「それは――どういう意味でしょうか」
「気を悪くしないでもらいたいがね。茜君が凶行に走った理由は、狂人と云われた苦しみと悲しみが原因なのだろう。ならば、世間の同情を大いに買うよう、煽情的に報道するよう新聞社に働きかけるのだ。そうしてやれば、今すぐ私宅監置を抹消することはできぬにしても、もう少々ばかり啓蒙は進むというものだ。いかがかね?」
尤も反論を聞くつもりはないのだがね――と実篤は云った。
「別に、私は反対しませんよ」
「僥倖だ。改めて云わせてもらうが、坂ノ上君。君はよくやってくれた。君のお蔭で、この大正も少しは終わりに近づいたのだ。君は間違いなく大正という世の一端を創ったのだ」
「大袈裟です。私は」
私自身の弔い合戦をしただけなのだから。
「謙遜する必要はない。それはそうと、君は朝まで警視庁に缶詰だったのだろう? それなら昨日、平民宰相が刺殺されたことも知らないだろう?」
「――いえ、知っております。先刻、町歩きの記者に聞きましたので。慥か、汽車を降りたところを胸で一突き――だったでしょうか。犯人の動機までは分かりませんが」
「それは今頃、刑事共が躍起になって調べているだろうよ。大方、普通選挙がどうとか、不景気がどうとか、そういったつまらない話でしかないだろう。まあ、一国の首相を殺したのだ。死刑は免れないだろうな。――うん? 随分意外そうな顔をしているじゃないか」
「まさか、殺されるとは思ってなかったので。本当に死ぬべきは、今まで足を引っ張っていた軍部の連中でしょう」
「だが、殺されてよかったじゃないか。後釜を決めるため暫しの失速は免れないだろうが――連中も少しは真剣になってくれるだろう。命を賭けぬ政治家の言葉など、上面を取り繕ったばかりの甘いものでしかないだろうからな」
またしても実篤は笑った。
「いずれにせよ――これでますます大正も終わりに近づいた」
実篤は、葉巻の一本を私に投げて寄越した。
「吸い給え。残り僅かとなった大正の空気を共に愉しもうじゃないか」
これも供養のひとつの形だよ――と実篤は云った。
「我ながら、私はとんでもない人達を集めたものね。一国の首相が斃れたのに、皆どうして平然としていられるのかしら」
顛末書を書く手を止めて声の主を見れば、馨は原敬暗殺の号外を眺めていた。今しがた、朝日新聞社の青年記者が持ち込んだ物である。
窓からは紅を増した夕陽が差し込み、二人しかいない事務室を照らしている。
課長である実篤は不在。栖鳳は非番である。彪に至っては麦酒が飲みたくなったと喚き、お気に入りの女給がいる店に繰り出して行った。窓辺で丸くなっている筈の小雪もいない。
紙と洋墨、煙草の匂いが漂う――慣れ親しんだ事務所の空気である。
「ねえ、聞いているの?」
馨が紙面から顔を上げて私を見遣る。
馨と面と向き合うのは随分久方振りのように感じた。
「聞いてますよ」
「それならすぐ返事をしなさいな。無視されたのかと思ったじゃない」
「これは失礼。顛末書に取り掛かっていたもので」
「貴方もどうやら同類のようね」
「何の話です」
「貴方も他の皆と同じで、とんでもない人間のひとりってこと。いいえ、貴方が一番よ」
「隊長、それは褒めているんですか」
「想像に任せるわ」
馨はまた号外に目を落とす。その姿勢の儘、ひとつ訊いてもいいかしら――と云った。
「貴方にとって、大正はどんな時代だった?」
「どんな時代かと云われても返答に困ります。そもそも、まだ終わってすらいませんよ」
「それなら云える範囲で構わないわ。教えて頂戴」
真剣味を孕んだ言葉であった。
――如何なる時代、か。
端的に云い表すのなら――。
「茜と生きた時代でした」
茜を家から解放するために将校を志し、その茜が失踪した時は酒呑童子討伐隊に志願した。屍を見付けた後は抜刀隊に所属して、人に仇為す化生共を放逐する事で、遣り切れない口惜しさを誤魔化していた。そうでしか、茜に報いる事はできぬと思っていた。
「妹さんのこと、本当に愛していたのね」
「家族ですから。たったひとりの妹というのは可愛いものですよ」
「後悔はしていないの?」
「後悔?」
「ええ。大切な妹を、貴方は看取ったのでしょう」
馨は、何か云いたげな眼差しで私を見詰めている。
「慥かに、悔いがないと云えば嘘になります。虫のいい話でしょうが――あの場で茜を眠らせず、共に生きていく未来も間違いなくあった筈です」
「そうだとしたら、貴方の隣にはずっと茜さんがいることになるのね」
かもしれない、と私が肯定すれば、少し妬いてしまうわね、と馨は切なそうに零す。
あの時――茜を説得でもして、共に抜刀隊の一員として生きる道もあっただろう。そうなれば、妹は生前と同じように、ずっと私の側を離れようとしなかっただろうが――所詮、仮定の話でしかない。
「ですが、そう上手くなんていきませんよ。鬼女紅葉の影響があったとしても、茜が多くの者を手に掛けたのは事実です。もしそんな者が側にいたら、特務課では殺人鬼を飼っているのかという世間の誹りは免れません。課長も赦さないでしょう。何より――人殺しに幸福な未来なんて必要ありません。茜も私も、そんな半端な事は望みませんでした」
「それなら、彼女は貴方に何を望んだの?」
「私を喰らいたいと云ってました。それが無理なら、せめて私に殺されたいと」
「殺されたい?」
馨は怪訝そうに首を傾げる。
「私が茜を生涯忘れないという条件付きで、ですがね。いずれにせよ――茜は分かり易い永遠を欲しがったのでしょう」
未来を無視したあまりにも幼い執着である。
――坂ノ上龍臣――。
――お前を迎え入れてくれる時代など在るものか――。
紅葉の最期の台詞が蘇る。
鬼女の首は、高名なる法師によって、あの庭園に、丁重に奉られるという話であった。
紅葉の言葉は事実であろう。如何なる詭弁を弄しても、私は妹を救えず、鬼女の首を落とした殺人鬼である。そう簡単に気持ちの整理などつけようがなかった。
時代を看取ると意気込んだのは良いが――私に次なる世を迎える資格などないだろう。
「隊長はどう思いますか」
「どう思うって、何が?」
「私の下した判断は間違っているでしょうか」
「貴方にしては珍しい事を訊くのね」
馨は一瞬目を丸くしたのち、曖昧に濁した。
「いつか云ったでしょう。貴方は毅然と――いえ、不遜でいてくれた方が格好いいのよ。貴方は正しいと思ったからそうしたのでしょう? それなら、私は貴方の判断を尊重します」
「しかしながら、今になって苦しくなってきました。このままでは、新しい時代を迎えるなどできそうにない」
「それなら――残された時間で心の整理をすべきよ。貴方は最近働き過ぎ――と云うより、私達が貴方に頼り過ぎていたのだから、少し休憩をとりましょう。心身共にね」
そうね、それがいいわ――と馨は満足そうに二度頷いた。
「しかし、宜しいのですか」
「休息をする事が今の貴方にできる最善の行いよ。そうやって――この時代が終わる前に整理をつけてしまいなさい。それが、茜さんが貴方に課した使命じゃないかしら。少なくとも、死に囚われて前に進めないのは正しい在り方じゃないでしょう?」
「この時代が終わる前に、ですか」
「短いかしら」
「ええ。短すぎます。いつまでも大正が続いて欲しい」
私はいつまで、この華美で軽快で、残酷な大正の空気に浸っていられるのだろうか。
「そんなの誰だってそうよ。貴方だけじゃない。皆、この時代にやり残した事や、未だ果たせぬ夢なんかがあるのよ。私も、先生も、彪君も、課長も――もしかしたら小雪にもね」
猫にもあるのか、と云えば、小雪だって立派な仲間よ、と馨は小さく笑う。
「多分、この大正を生きている人は皆そう思っているわ。幕が下りる前に、本当に自分がしたかった事を果たそうと――自分が生きた証を残そうと――生き急いでいるのよ。貴方だってそうだったでしょう?」
馨の言葉は十分過ぎる説得力を持って私の腑に落ちていった。
首肯する代わりに、隊長は何がしたいのですか――と訊くが、馨は形容し難い表情で天井から垂れる電燈を見詰めるだけであった。
暫く、私も馨も口を開かない。
だが、決して悪い沈黙ではなかった。
「次の時代は――」
馨が云った。
「どのようなものになるのかしら。今より良い世になってくれると嬉しいわね」
「時代の良し悪しは終わる頃じゃないと判りませんよ。尤も、良いと思える世にしていかなければなりませんがね」
「そうね。目的のためなら心中も厭わない――なんて思っていたけれど、貴方がそう云うのなら、他でもない貴方を見習って懸命に生きるのも悪くないわね。だからそのときは――」
息継ぎをしたのち、馨は私を見た。
「貴方の力を貸してほしい。そして、次の時代を私と生きて頂戴」
力強い宣言であった。
私は、そこで初めて己が赦されでもしたかのように思えた。残り僅かとなった大正も、眼前に迫り来る次の時代も、馨と居られるのなら面白いとすら感じた。
――兄様。どうか、お幸せに――。
茜が微笑んでくれたような――錯覚に陥る。
私の中で、大正という時代にひとつの区切りがついた瞬間であった。




