5-2.私の死に囚われているがいい!
立ち尽くしていた私を現実に引き戻したのは、遠方から聞こえる喧騒であった。
振り向けば、館から黒い煤と赤い炎が上がっていた。怒号と銃声が聞こえる事から察するに、陸軍か警察の奇襲が成功したのだろう。何故連中が此処を突き止める事ができたのかは今は置いておこう。今問題なのは、屋敷から歩み出てきた黒装束の男――凛太郎の存在である。
凛太郎は燃え盛る屋敷も男達の叫びも意に介した様子もなく、遠間で足を止めた。斃れる茜を見遣ってから、改めて私を睨む。あらん限りの憎悪を込めた、復讐鬼の眼差しであった。
「鏡。私は今、茜を――妹を看取ったばかりなのだ。もう暫く、妹の死に浸っていたい。今は何も云わず退いてくれないか」
「巫山戯るな。紅葉様の仇だ」
凛太郎は腰に差した小太刀を抜いた。
暗殺に適した刃渡りの得物である。
「貴様が何故私の剣を避ける事ができたのか解らなかったが――今、思い出した。貴様とは前にも此処でやり合ったな」
「今更思い出したのか。お前に斬られた傷は消えたが――それでも恨みが消えた訳じゃない。紅葉様の為にも、お前は此処で殺す」
「そうか。ならば致し方ない。受けて立とう」
私も軍刀を抜き放つ。
夕陽がじわりと彩度を上げる。
椛が敷かれた地面も赤い。
赤一色の世界で、私と凛太郎、そして外套を被った茜だけが、何者にも染まらぬ黒さを保っていた。
凛太郎が走り出した。
私も走り出す。
間合いが一瞬で詰められる。
一撃で勝負は決した。
私の目の前に、頭蓋を割られた凛太郎が斃れていた。
特別な事は無い。
凛太郎の出鼻を潰したのだ。
紙一重で、凛太郎の刃は私に届かなかった。それだけの事である。
辛うじてまだ息はあるが、この暗殺者はもう間も無く息絶えるだろう。
「大正の世に心中したのは貴様の方だったな」
私が呟いた時、死んだかと思った凛太郎が顔だけを上げて前を見た。
私ではない。私の後方にである。
「嗚呼、紅葉様。やはりあなたは、美しい――」
凛太郎は、唇を震わせながら前方に手を伸ばす。喜色とも悲哀ともつかぬ、凛太郎には似合わぬ童のような顔であった。
振り返れば――。
眠りに堕ちた筈の茜が立っていた。
能面の如し貌で、凛太郎を凝然と見詰めている。
纏う雰囲気からも判る。あれは茜ではない。あれは――。
鬼女、紅葉だ。
紅葉は凛太郎の許に歩み寄ると、傍らに膝を突いた。
両手で凛太郎を仰向けにさせる。
「紅葉様。申し訳ありません。俺は」
凛太郎の言葉は途切れた。紅葉が、短刀で凛太郎の喉笛を貫いたのだ。
凛太郎が驚愕に目を剥く。否、あれは驚愕なんてものじゃない。仕えた主に死に様を看取ってもらうどころか、引導を渡される――絶望の表情である。
紅葉は短刀を引き抜き、湧水の如く血が溢れる傷口に、覆い被さるように口を付ける。
噎せ返る程の血の臭いがした。
暫く、紅葉は生血を啜っていた。猫が皿の水を嘗め掬う音にも、閨における秘事の粘性ある水音にも似ていた。
吸血を終えた紅葉が立ち上がった頃には、凛太郎は絶息していた。
「何をそんなに見ているの? 食事中に無粋な御方――」
紅葉が返り見る。恍惚を孕んだ声であった。
大きな眼は炯炯と光り、瞳孔は拡がっていた。
この女が鬼女紅葉である。
三年前、茜を喰らい躰を奪われた鬼が息を吹き返したのだ。
全身が粟立った。
限りなく根源的で本能的な――今まで感じた事の無い重圧を感じた。
「あなたは――茜さんのお兄様ね。茜さんの内側から見ていたし話も聞いていたけれど、こうして御会いするのは初めてね」
紅葉は目を細め口角を持ち上げてみせる。一般的に微笑と呼ばれるその表情も、獰猛な威嚇にしか感じられなかった。
「お前が、紅葉か」
「ええ。あなた様が殺した酒呑童子の娘のひとり――あなた様の御令妹を攫って喰らって、躰を奪われた鬼よ」
お初に御目にかかります――と紅葉は両家の令嬢宜しく頭を垂れる。
私と茜の事など何とも思わぬ態度が癪に障った。
「あら、厭ですわ。私が茜さんの仇で、殺しても殺しても飽き足らない不倶戴天の敵だというのは知っておりますけど、何もそんな怖い顔をしなくたって良いじゃない」
「貴様、茜を殺しておいて」
「あなた様、それは誤解というものですわ」
「誤解だと」
「ええ。私だけを悪しきように云われてしまっては、いくら私が父様譲りの悪鬼と雖も、いい気分にはなりません」
それに滑稽ですわ――と紅葉は愉快そうに笑う。
理性が憤怒に圧迫される。
今すぐにでもこの女の首を斬り落としたかった。
「言い訳があるのなら聞いてやる」
「云っても良いけれど――約束よ。後悔しないでね」
「諄い。早く云え」
さもなくば斬るぞ、と云おうとした時。
「頼まれたのよ、全部。他でもない茜さんからね」
紅葉は云った。何でも無いことのように。
「頼まれた?」
何をだ、と訊けば、全てよ、と紅葉も短く答える。
「私が日本橋で茜さんを攫う事も、このお屋敷で一緒に暮らすことも、私が彼女の心臓を食べてしまう事も。嗚呼、でも早合点は止して。慥かに私は茜さんから己を食べて頂戴と頼まれはしたけれど、私にはそんなつもりはなかったの。だって――勿体無いじゃない。食べてしまったら、茜さんの事を全て知ってしまうのよ。どんな生き方をして、どんな記憶をもっていて、何が好きで何が嫌いか、裏で考えている事だって全て解ってしまう。そんなの――詰まらないでしょう。人間と云うのは分からないところがあるから知りたいと思うし、一緒にいたいと思うものでしょう? こんな私でも、そう思う事のできた茜さんと生きたかった。私から云わせれば、茜さんは臆病を拗らせた小賢しいお嬢さんよ。――嗚呼、ごめんなさい。話が逸れてしまいましたわ。茜さんを直接殺したのは軍の男達よ。あなた様の同輩」
「陸軍の奴等が。どういう事だ」
「あの日――乱戦に巻き込まれないように、私と茜さんは奥の離れでじっとしていたのだけど、そこに軍刀を持った男達が入って来て――いきなり、私に斬り掛かって来たのよ。そこに茜さんが割って入って庇ってくれたの。今にして見れば、それも彼女の計算だったのかもしれないけれど――まあ良いわ。その男達の始末は父様と凛太郎に任せて、ふたりで此処まで逃げ延びて――茜さんは最期に、自分を喰うように頼んだの。これがあの夜の真実」
何も難しい話ではないでしょう――と紅葉は回顧するように周囲を見回した。
「何故、茜は自分から攫われるような事をしたのだ」
「彼女はあなた様の気を引きたかったのよ。先刻云ったでしょう。彼女はあなた様の御心に生きようとした。それがあの子の行動原理。共感も同情もしてやれないけれど、至って単純明快。あなた様との逢瀬の最中に行方を眩ましたのだって探してもらえるのを見越してのことだし、私に自分を喰わせたのだって鬼の肉体を内側から操ろうとするためだったのよ。本当にしてやられたわ。あの子は元来虚弱な躰だったから、永く生きることのできる肉体を欲したんでしょうね。その躰を使って――あなた様を識ろうとした」
「識るというのは、つまり」
「そう。食おうとしたのよ。あの子はあなた様と生きようとした。私の躰で。あとはあの子の云った通り」
そこで紅葉は何とも云えぬ表情を浮かべる。
「そうか。茜が狂ったのは私の所為だったという訳か」
私が居なければ、茜は死を選ぶこともなかった。
他の少女達に被害が及ぶことも無かった。
そう思うと遣る瀬ない。
「慥かにそういう見方もできるでしょうが、自分を責めたって仕方ありませんわ。それで――あなた様はどうされますか」
紅葉の言葉は、慰めのような甘い響きをもっていた。
「私の中で眠るあの子の為にも、私に食べられては戴けませんこと? それが、あの子の本懐よ。あの子の供養ににはあなた様の血と魂が必要なの。――ね、茜さんのお兄様。宜しいでしょう?」
何時の間にか紅葉は目の前に立っていた。悲しくなる程に綺麗な瞳をして――その姿が、茜の最期と重なって――私は己が何をしたかったのか、何をすべきであると云う意思を完全に喪失してしまった。
――茜がそう思っているのなら、喰われてやるのも悪くない。
否、俺の魂で贖えるなら、喜んで死んでやろう。
紅葉は、私の返事を聞かず、詰襟の第一釦を外し、両手で私の頸を撫でた。
血に飢えた化生の、陶然とした眼差しである。
紅葉は短刀の鞘を抜き、白刃を私の頸に突き立てようとして――。
「手前、何をしてやがるッ!」
野太い男の声であった。
その怒声で我に返った。
弾かれたように振り返れば、十数名の警官隊を引き連れた彪と栖鳳が駆けつけた処であった。栖鳳の号令により、武装した警官達は散会し、素早く私と紅葉を包囲する。
我々とは所属を別とする実篤子飼いの私兵であり、銘々が大盾と刀を装備した――制圧に秀でた対妖怪の専門部隊である。
紅葉は私から身を離して後方に跳び退がる。
「本当に無粋な人達ね。千載一遇の機会だったのに」
紅葉の纏う雰囲気が変わった。
膚を刺すような殺意を放ち、周囲をぐるりと見回す。
獲物を探す瞳であり、表情は失せていた。
警官隊に動揺が走る。
この場にいる全員が得体の知れぬ恐怖に呑まれていた。
気が付けば、陽も沈みかけ、黄昏を迎えていた。
狩りを始めようというのだろう。
紅葉が僅かに身を屈めた刹那――。
「させるかよッ!」
咆哮した彪が跳んだ。
諸手で握った大柄の護拳刀を紅葉の脳天に叩きつけようとするが――。
「遅いわ」
細い躰のどこにそのような膂力を隠し持っていたのか。紅葉は素手で白刃を受け止めた。
驚いたのは彪だけではない。機を窺っていた栖鳳も、警官隊も、端で見ていた私ですらも、目の前の光景を信じられずにいた。
「――手前、穢い手で掴んでんじゃねえぞ」
彪は刃を引き抜こうとするが、紅葉に握られた白刃は一寸たりとも動かない。
忘れていた。これが、鬼の胆力なのだ。
連中は生まれながらにして、人知の及ばぬ遙か高みにいるのだ。
「大丈夫。殺しはしないから怯えないで。少しだけでいいの。黙ってくださる?」
云うや否や、紅葉は反対の拳を握りしめた。
――避けろ、彪。
私が叫ぶ前に、紅葉の振り上げた拳が彪の顎を砕いていた。強烈な一撃であり、彪は蹈鞴を踏んだが――それでも彪は倒れなかった。紅葉の放した護拳刀を再び担いで――。
「甘いことを云ってんじゃねえ!」
鋭い気迫と共に振るわれた横薙ぎは、地を這った紅葉に躱される。
「俺は帝都のために、手前を――」
彪の言葉は続かなかった。間合いを詰めた紅葉の貫手に喉を穿たれたのだ。次いで紅葉の放った上段蹴りが側頭部に当たり、遂に彪は昏倒してしまった。
「全員でかかれ! 虎ノ字を見殺しにするな!」
恐慌に陥りかけた私達を繋ぎ止めたのは栖鳳の一喝だった。
我に返った警官隊が、雀蜂に群がる蜜蜂の如く、紅葉に襲い掛かるが――。
「退きなさい。あなた方に用はないの」
真っ先に飛びかかった大男が文字通り投げ飛ばされたのを皮切りに、十数名全員が、急所を穿たれるか蹴りを放たれるかして、その場に叩き伏せられてしまう。まるで、達人の百人組手を見ているかのような光景であった。
慥かに誰一人として死んではいない。
死んではいないのだが――。
「――ふん。外見は人だが、中身は桁外れだな。人を殺めぬところが余計に拍車をかけている」
精鋭を集めたはずだったのだがな、と栖鳳は憎々しげに漏らした。
紅葉を見れば、全身が裂傷だらけで、至る所に刀が突き立てられている。血達磨宛らの様相でありながら、それでも表情は依然涼しい儘であり、私だけを凝然と見詰めていた。
「これは儂も覚悟せねばなるまい」
栖鳳は懐から臙脂の呪符を取り出し、前方に掲げ――呪符から黒色の炎が噴出する。栖鳳が生み出しだ秘技であり、相手を灰にするまで燃え続ける外法の火である。
三本の蛇を象った炎は、紅葉を食らわんと大口を開けて突進するが――。
「無駄よ。私に法術は効かないわ」
紅葉は右手を振り払って黒炎を受け流す――否、炎を掌に押さえ込んで簒奪してしまう。
「お爺様。私は、そこのお兄様に用があるのです。たったそれだけなのに、こんな物騒なもの出さなくたっていいじゃありませんか」
「鬼ごときが図に乗るなよ。――出てこい」
栖鳳が右手を挙げると同時に、庭園に潜んでいた男達が姿を現す。全員が歩兵銃を構えている事から察するに、栖鳳が仕込んだ狙撃部隊か――。
撃て――と栖鳳が云った瞬間、銃声が轟く。
軍用銃特有の重く低い炸裂音である。
四方から放たれた弾丸は、あっさりと紅葉の肉体を貫いた。
肩が、胸が、腹が、腕が、脚が爆ぜ――血煙が上がる。
「あら酷い。せっかく、情けをかけて見逃してあげようと思っていたのに」
この時、紅葉は慥かに吐血しながら蹌踉めいた。
誰が見ても、瀕死に追い込まれた絶体絶命の状況である。
討てる、鬼女紅葉を討てるのだ――と誰かが云った。
怨敵の死を願う安堵交じりの呟きである。
だが。
――駄目だ。鬼に銃は効かない。
理屈は分からぬが、酒呑童子の時はそうだった。
膝に弾丸を撃ち込んでも、悪鬼は立ち上がったのだ。
「赦さない」
案の定、紅葉は斃れなかった。
黒い炎を纏った右手を夕闇の空に掲げて――。
黒い三頭の大蛇が伸びた。
鞭のように躰を撓らせ、遠方の狙撃部隊へ次々と襲いかかる。
頸を食い千切られた者達は悲鳴を上げ、抵抗もできずに死んでいく。
「お爺様。この子達をお返ししますわ」
紅葉は右手に戻ってきた黒蛇を栖鳳に投げた。
増幅した質量ある炎を真正面から浴びた栖鳳は、後方に吹き飛ばされ――次の瞬間には真っ白な灰と化していた。
栖鳳が死んだ。
たった数分で、彪も栖鳳も、警官隊も――この場の全員が無力化されてしまった。
――嗚呼、そうだ。これが、鬼なのだ。正真正銘の化物なのだ。
――酒呑童子よ。貴様の娘は、さぞ父親に似たものだな。
だが、私とて死ぬ訳にはいかぬ。
妹の分までこの時代を生きると決めたのだ。
私の帰りを待つと云った女に、復讐を果たすと約束したのだ。
そして、それ以上に。
おそらく私は――。
「さて、茜さんのお兄様。邪魔者はいなくなったことですし、改めてお願い致します。どうか、今私に血を啜らせていただけませんか。私の中で眠っている茜さんも、それを望んでいることかと思います。私は、彼女の意思を尊重してあげたいのです。どうです? 悪い話ではないでしょう」
斃れた男達の中心に立つ紅葉は云った。自身の爆ぜた躰も、己に突き刺さる幾本もの刀剣もまるで意に介していない。
「論外だな、紅葉。私は既に茜を看取ったのだ。茜も別れに納得してくれた。今更決めたことを覆しなどしないよ。茜はそんな女だ」
「そうね。慥かに、彼女は頑固なお嬢さんだった。きっと、あなたを食らっても、素直に喜んでくれやしないでしょう。でも、本当にいいのかしら」
「貴様も執拗いな。分かっているだろう。ここまで来て後に退けぬことくらい。それに、貴様にとって私は父親の敵だろう。最早殺し合う意外に路はない」
私は抜刀した。
既に陽は落ち、遠くの山際が燃えるだけとなっていた。
「討たれた父様のことなどいいのです。それはあの人が弱かった。ただそれだけのことですもの。恨むことなど決してありませんわ。それが鬼というものですから」
私が本当に云いたいのは――と紅葉は云った。
「無駄なことはお止しになったらどうですか、ということです」
「無駄、とな」
「きっと、あなたでは私に勝てますまい。この者達がやられるのを見ていたでしょう。剣でも鉄砲でも術でも私は殺せませんもの。私は慥かに鬼です。ですが誰かを無意味に嬲るのは趣味じゃありませんわ。それが茜さんのお兄様であるなら尚更のこと。貴方だって苦しんで死ぬのはお嫌でしょう?」
紅葉は自身を貫く刀を抜きに掛かる。
千切れかけた手首も、反対の掌でひと撫ですれば癒合してしまった。
「流石、鬼となれば云うこと為すことが桁違いだ。もう勝った気でいるのか」
「でも事実でしょう。それなら伺いますが――貴方には、私を殺せるのですか」
私だって自分がどうしたら死ぬのか分からないのに――と云った紅葉は、今度は打ち抜かれた腹部を撫でる。立ち所に血を吹き零す穴は塞がり、傷は癒えてしまった。
「殺せるさ。否、殺さねばならぬ」
「御冗談を」
「慥かに私ひとりでは困難だろうが、今の私には仲間がいるのだ」
「仲間? もう、誰も動けませんよ」
「獣の生命力を舐めないことだ。あれは人と違って野良犬のように生き汚い奴だ」
「野良犬?」
紅葉が呟くと同時に、地に伏せていた彪が起き上がった。
「誰が野良犬だこの野郎――」
這うような姿勢のまま紅葉の足首を掴むと、護拳刀で腿を貫き、地面に縫い付けてしまう。
紅葉は自信に刺さる短刀の一本を抜き、彪に突き立てようとするが――。
紅葉の動きが静止した。
紅葉の右腕には黒蛇が巻き付き、腕を締め付けていた。
細い白腕は、炎に包まれ、指先から灰になっていく――。
「これは――」
初めて紅葉の表情が変わった。
「他人様の術を奪うからそうなるのだ。云っておくがそれは外法だ。何か対価を払わねば忽ち灰になってしまうぞ」
答えたのはのろのろと上体を起こした栖鳳だった。
灰となった躰は血肉を取り戻し、焼けただれた皮膚は元に戻っていた。
「お爺様。貴方は先刻、死んだはずでは?」
黒蛇に囓られる右腕を切り落とした紅葉はさぞ不思議そうに首を傾げる。
「死ねないのは貴様だけじゃないということだ。――のぅ、龍ノ字」
栖鳳は意味ありげな視線を寄越して、得意そうに口の端を釣り上げた。
彪も窮地を脱して私達の許にやってくる。
「龍ノ字。あとは任せた。もう動けるのはお主だけだ」
「翁。あなたは」
「死に損ないの年寄りをこれ以上働かせるものじゃない。それにこれはお主の戦だ。ならばお主が片をつけるのが筋だろう」
「その通りだな。行ってくる」
「待て。馨から言伝を預かっている」
「隊長が? 何と」
「復讐を果たしたら寄り道せずに真っ直ぐ帰ってこい。次は上野の通りを歩こう――だそうだ。要は、生きて帰ってこいということだ」
「――承知」
脳裏に、馨の整った横顔が過る。
美しい、と思った。
この女と、大正の世を生きていけたなら――と思ってしまった。
久方ぶりに思い出した、人間らしい感傷であった。
私が紅葉と対峙した時には、既に紅葉は己を貫く凶器を全て投げ捨ていた。
語り合う言葉も尽き、暫しの間、何を云うわけでもなく見つめ合っていた。
「帝都抜刀隊、坂ノ上龍臣。帝都安寧の為、我が妹の為、貴様の命を貰い受ける」
「酒呑童子が娘、鬼女紅葉。鬼に勝てると思い上がったこと、後悔しながら死んでいけ」
宣誓の後、互いに沈黙して――私達の間を、枯れ葉が舞い落ちる。
それが合図となったのだろう。
次の瞬間には、隻腕となった紅葉の姿は黄昏の黒紅に混じり消えていた。
僅か数秒後、眼前に紅葉がいた。
短刀を私の咽頭に向かって突き立てようとして――寸前で刃が止められた。
「そんな。どうして――」
驚いたのは紅葉の方だった。
意に反して躰が動かなかったという顔である。
「云ったはずだ。私と茜は決別を選んだのだ。貴様の中に茜がいる限り、貴様は私を殺せない。茜がそんなことを赦す訳がない」
「分からないわ。茜さんは貴方との永遠を欲していたのに」
「鬼である貴様には分からんだろうよ。これが人の矜持というものだ。故に人は貴い。貴様は人間に負けたのだ」
紅葉が何か云おうとしたが、構う事はしなかった。
軍刀を水平に薙ぎ、紅葉の首を斬った。
大量の血飛沫が上がる。
皮膚一枚残して斬首された頭部は、自重に耐えられず、徐に地面に落ちた。
白と黒と赤の、毬宛らの動きであった。
見開かれた二つの眼は私を凝然と見詰めている。
「坂ノ上龍臣――」
にぃ――と首だけになった紅葉は嘲るように唇の両端を釣り上げる。
「お前を迎え入れてくれる時代など在るものか。何時までも私の死に囚われているがいい!」
紅葉は哄笑した。
耳障りな声は何時までも耳に残って消えなかった。




