■酒呑童子の変
大正七年十月二十三日、月齢一四・八、夜半の頃。
男が酒呑童子の居城に踏み入った時には、東京第一師団が誇る精強なる歩兵は皆、物云わぬ屍となっていた。
十二畳程度の広間に、骸達は折り重なるように斃れている。躰の損壊は皆著しく、手脚は捥がれ、脳漿や臓腑を撒き散らし、凄惨たる有様であった。
光源は梁から垂れる裸電球の心許ない光のみである。
畳や襖は一面血に塗れており、見上げれば天井まで濡れている。
彼らが如何に散っていったのかを知る由もないが、勇猛で名高い第一隊でさえこの様相なのだ。裏門に回った第二隊も無事は済まないだろう。
――構うものか。早く行け、妹が俺を待っているのだ。
男は軍帽を被り直し、抜刀した護拳刀を握り直す。
横たわる屍を踏み超えようとした時である。
垂れ下がった電球が小さく跳ねた。
室内の陰影が揺れ、居室全体が揺さぶられたかのような錯覚に陥る。
男は己に突き刺さる視線を知覚する。
陰湿な怨嗟を孕む人間特有の害意である。
男は周囲を見回した後、護拳刀を横に薙いだ。
剣先に、何かを掠めた手応えがあった。
眼前に、黒装束を纏った青年が現れた。男とよく似た年恰好であった。整った顔面は浅く斬られている。何故、己が斬られたのか解らぬという顔をしていた。いつからそこにいたのか判然としない、空間から産み出されたかの如し存在であった。
男が護拳刀を握った拳で青年の鼻筋を殴れば、青年は簡単に崩れ落ちた。
もう、青年は動かない。
男は青年を一瞥した後、屋敷の最奥へ進む。
どの部屋も骸ばかりが転がっていた。
陸軍に属する同輩達が多いが、酒呑童子の配下である賊徒達も同程度あった。その賊が拉致したであろう娘達の死体も少々。人質にされたのか巻き添えに遭ったのか、或いは最期の慰みにと嬲られたのか――皆一様に無残な死に様を晒していた。
酒呑童子――。
ここ数年、帝都で悪行を重ねに重ねた犯罪組織の首領である。
金銭で殺人や偸盗を請負い、また人身売買の標的として婦女子の誘拐も多発している。
最早、帝都の治安は、官憲では手が負えぬ状況に陥っていた。
そこで白羽の矢を立てられたのが陸軍第一師団であった。警保局長及び内務省長官の要請を受けるや否や、師団長主導のもと僅か一週間で決死隊を編成し、今宵の奇襲作戦まで漕ぎ着けたのだ。
此度の軍務は単なる暴徒鎮圧に非ず。帝国陸軍の威信と文明国の矜恃をかけた、我が国未来百年のための戦である――と男を含め、部隊は皆言葉にせずとも信じていた。命を捨てる覚悟を決めていた。
――死地であると覚悟していたが、まさかこれほど苛烈になろうとは。
元来、酒呑童子とは、平安時代の武人・源頼光に討伐されたと伝えられる鬼である。この屋敷に棲まう賊の頭領が、武威に肖り自ら名乗ったのか、畏怖の対象として余人に称されたのかは分からない。
男は、手足を投げ出して死んでいる娘に目礼をひとつ遣り、最後の部屋へ続く襖を開けた。
広い座敷であった。
部屋の隅に置かれた行燈が空間を照らしている。
上座には、一人の鬼が居た。
屹立する二本の角と鋭利に発達した牙をもち、黒い膚に大岩の如し巨躯をしていた。襤褸の甲冑と袖付きの陣羽織という装いである。
戦装束の至る箇所に返り血を浴びていること、背後の板の間に置かれた太刀と脇差がぎらついていることから察するに、この者が先遣隊を鏖殺した筆頭――酒呑童子であろう。
悪鬼の隣には、女房装束を着せられた若い娘が座っている。
闖入者である此方に対して安堵とも狼狽ともつかぬ戸惑いを浮かべている。大方、この娘もどこからか攫われた被害者なのだろうと男は分かったつもりになる。
男は後手で襖を閉めた。
そのまま酒呑童子の真正面まで歩み寄り、目の前で胡坐を組む。
納刀した護拳刀を右脇に、脱いだ軍帽を左脇に置いた。
男と鬼の間には、据えられた膳と緊迫した空気だけがある。
男を訝る酒呑童子の手には、透明な清酒が注がれた大杯がある。
「晩酌中に失敬。ひとつ訊きたいことがある」
男が云った。低く、落ち着いた声であった。
「ふむ。答えてやっても良いが」
対面の鬼が応じる。
右手の杯を呷り、空にした酒器を女房へと突き出した。
娘は震える手で並べた瓶子のひとつを掴むが、それじゃない血を寄越せ、と鬼は云う。
娘は黒い甕を抱えるように持ち、鬼の持つ杯へと丁寧に注ぐ。
粘性のある黒紅色の液体が、上等な漆器を満たしていく。
嗅ぎ慣れた腥い芳香が広がる。
酒呑童子は注がれた生き血を口にして僅かに減らした後、男へ差し出した。
「お主にこれが呑めるか。呑めるのなら聞いてやらんでもない」
尤も、お主の満足する答えかは分からんがな――と鬼は愉快そうに唇を歪ませる。
男が膳を見れば、大皿には無造作に乗せられた何本もの人間の手指がある。酒の肴だろうか。血色こそ失せているが、線の細い女の指であった。
それを見ても、男は怒りも怯みもしなかった。
ただただ冷淡な表情のまま。
「戴こう」
と云った。
男は両手で杯を受け取る。
口をつけ、直径二尺はあろうかという大杯を傾ける。
あれだけあった新鮮な血液を、五回喉を鳴らすだけで飲み干してしまった。
空になった器を鬼へ突き返し、舌で口許の血を嘗め取る。
希臘彫刻の如し端正な貌である。
唇を血で染めた姿は、冷ややかで妖しい魅力を湛えていた。
「不味いな」
男は呟いた。そこに動揺は見受けられない。
唖然としたのは鬼と女房の方であった。
「儂の目の前で血を飲み干すとは、頼光宛らの男よのう」
「何を莫迦な。俺には童子切安綱も無ければ、神便鬼毒酒も持ち合わせていない。そもそも、俺は鬼退治をしに来たのではない」
「いいだろう。お主は何を聞きたい」
「妹を探している。どこに居る」
「ほう。名は?」
「茜という。お前達が攫ったはずだ。まさか、殺してはいないだろうな」
男の目に鋭い敵意が宿る。
鬼は少々の間を置いた後。
「今、お主が平らげた血がそうだと云ったらどうする?」
と訊き返す。
挑むような笑みであり、男には鬼の真意を汲み取ることはできない。
「血だけに非ず。この皿に乗った手のひとつがそうだと云ったら?」
男は返答しなかった。何も云わぬ代わりに、右手の指先だけで護拳刀の鞘を後ろに滑らせ、逆手に握った護拳刀を、鬼の喉に突き立てた。一挙動の俊敏なる動作であった。
男は、この時慥かに眼前の鬼を殺す気でいた。
だが、抜き放たれた白刃は鬼を貫きはしなかった。
酒呑童子は、たった二本の指で機械製の刀身を掴んだのだ。
娘の息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。
酒呑童子が背後の大刀に手を伸ばすのを見て、護拳刀を引き抜き軍帽を取った男は後方に跳び退く。
男のいた場所に、大太刀が振り落とされた。
常人が使う物とは、刃渡も鎬の高さも比較にならない、最早金棒と呼ぶべき代物であった。
男の反応が一瞬でも遅れたら、男は脳天から両断されていたであろう。
命の危機にあったにも関わらず男は余裕を崩さない。
「酒呑童子よ。鬼は、横道に逸れないはずではなかったか」
軍帽を被った男は揶揄しに掛かる。
鬼に横道はない――とは、御伽草子において、酒呑童子が源頼光に云い放った最後の台詞である。即ち、自らを修験者と偽り、饗応の場にて供された姫君の血肉を喰らってまで油断を誘い、神便鬼毒酒を飲ませて寝首を掻いた頼光達を卑怯者と罵倒したのだ。
「何、ちょっとした御巫山戯というものよ」
刃を向けられて黙っていられるほど儂も気が長くないのでな、と鬼は膳を跨ぎ超える。
「お主が捜している娘だが――気が変わった。儂と死合え。お主がこの躰に一太刀入れる度、お主の知りたいことを語ってやろうではないか」
「貴様は、茜がどこにいるか知っているのか」
「然様。儂に知らぬことなどない」
「今度は嘘を吐いてくれるなよ」
「嘘を吐くのは虚弱なお主ら人間のすることよ。我ら鬼は戯れもするし、都合が悪しき時は黙りもするが、約束を謀ることだけはできぬ。それが鬼というものだ。天地神明に誓ってもいい」
「そんな大層なものなどいらん。俺にさえ誓ってくれればそれでいい」
男は不遜な笑みを浮かべる。男が見せる初めての表情である。
「天晴れな男振りだな。お主、名は?」
鬼が訊く。
「坂ノ上龍臣」
男が答えた。
両者の間に沈黙が訪う。
男も鬼も、先刻の問答で殺し合う決意を固めたのだ。
二人の間合いはおよそ十歩。
張り詰めた空気から逃げ惑うように、行燈の炎が揺れた。
娘は両手で口を覆い、恐怖に荒くなる呼吸を必死に抑えていた。
先に動いたのは男である。
灯火が明滅し、鬼が目を絞った刹那を捉えたのだ。
右手の護拳刀を、右脚の踏み込みと共に振り落とす。半身となった一撃であるが、左拳を丹田に添えることで体勢の崩れを防いでいる。初動を極限まで削ぎ落とした舞うような剣である。
刃は円弧を描きながら鬼の頸に吸い込まれていくが、鬼はそれを大太刀で打ち落とす。次いで男の胴を水平に薙ぎ払うが、地を這うように身を沈めた男には届かない。
酒呑童子に僅かな隙が生じた。
男は跳躍し、角の一本を叩き折った。白い角は畳に落ち、転がっていく。
「答えろ。茜は生きているな」
「死んではいない」
「歯に物が挟まったかのような云い振りだな」
「お主の妹は慥かに生きていると云うて障りはないだろう。尤も、お主の想像とは異なる結末になるだろうがな。どれ、ひとつ予言をしてやれば――そうだな。お主はそう遠くない内に、その茜とやらに見えることができるだろうよ」
慎重な口調で酒呑童子は述べた。
「成程。俺が妹に会えるというのなら、俺はこの場では死なないということか」
つまりここで死ぬのは貴様の方か、と男が挑発すれば、神通力とは雖も己が未来までは解らぬものよ、と鬼は動じない。
「龍臣。今度は儂から仕掛けよう」
鬼が目を見開き、飛び掛かる。力を恃みにした、息もつかせぬ連撃を繰り出す。
男はその大刀を全て躱し、時にはいなすが、間合いに入ることができずに後退する。
男の両脚が居着いたのを鬼は見逃さない。
鬼は諸手の平突きを放つが、男は躰を捌いて回避する。
手袋越しに分厚い鎬の刀身を握り締めると、もう片方の手で、残った一本の角を斬り落とす。
「見事。よくぞ避けたものだ」
まさか角を折られるとは思わなんだ、と忌々し気に鬼は云う。
「茜はどこにいる」
「この屋敷の裏手だ。そこでお主を待っている。そこの障子から外に出るのが近い」
男は背後を見遣る。
濡縁に面しているらしく障子からは青白い光が透けて見える。
男は今宵が満月であることを思い出す。
「龍臣。三本目だ。そろそろ手加減は止めにしよう」
「いや、その必要はない」
男は腰の革袋から拳銃を引き抜くと、間髪入れずに鬼の膝を撃ち抜いた。決死隊に支給された、南部式大型自動拳銃である。
「お主、勝負を穢すのか」
膝を突いた鬼が男を見上げる。
「悪党に文句を云われる筋合いはない。付き合ってやっただけ有難いと思え。それに――」
鬼に寄った男は護拳刀を高く振り上げる。
「殺された娘達、同輩達のためにも、お前はここで死ぬべきだ」
云い切るや否や、男は鬼の頸へ護拳刀を打ち込んだ。
だが、鬼の首を落とすには至らない。
鬼の強靭な膚を一枚切るだけで、刃が撓り、鍔元から破断してしまったのだ。
――莫迦な。
驚いたのは男の方であった。
男も、この時ばかりは片眉を上げ、護拳刀を振り抜いた姿勢のまま動けずにいた。
男は自問する。
先刻、幾度も剛剣を受けたせいか。騎兵用の装備故に柄が短く、片手でしか振れなかったせいか。或いは粗悪な官給品だったせいか――。
「この戯け者めがッ!」
立ち上がった鬼が攻勢に転じる。
男の顎を掴み、床に叩き付けた。すぐさま男の胸部を踏みつける。
男の顔が苦悶に歪む。
圧縮された肺から空気が絞り出され、肋骨の軋む音がした。
男は拳銃を鬼に向けようとするが、あまりの痛苦に手を動かす事ができない。
「鉛玉如きで儂は殺せんよ。命を懸けた斬り結びこそ勝負の醍醐味だとは思わんのか」
鬼は男を見下す。
勝利を確信した嘲りの笑みである。
男には歯を食い縛り、鬼を睨むことしかできない。
「お主を生かしてやりたかったが――いかんなあ。先刻はお主が妹と会えると云うたが、もしや彼世での再会のことやもしれんな。何、心配は無用だ。娘もじきにお主を追って死んでくれるだろうよ」
男は答えない。
「角を折ったまでは見事だが、所詮それまでよ。お主には鈍刀しかないのだ。頼光にはなれなかったなあ」
男はまだ答えない。
「然らば、龍臣。儂と戦えたことを彼世で誇るがいい」
鬼は、金棒で男の顔を貫こうとして――その動きが止まった。
鬼の腰に、女房装束の娘が縋りついていた。否、娘は鬼の脇腹に何かを突き立てていた。
あれは――板の間にあった脇差である。
鬼は躰を小刻みに震わせながら娘を見遣る。
「娘よ、邪魔をするか。この神聖な死合いに水を差すというのか!」
激昂した鬼は、標的を娘に移す。
蹴飛ばされた娘の躰は容易に吹き飛び、膳にぶつかり、瓶子や甕が倒れる。甕から零れた誰かの血が白い畳を穢していく――。
腰を抜かした娘は、迫り来る鬼を、見て必死の形相で後ずさる。
――起きろ、今が好機だ。
跳ね起きた男は瞬時に間合いを詰めると、鬼の脇腹に刺さっている脇差を引き抜いた。
振り返る鬼の心臓目掛けて小太刀を突き立てる。
顎に銃口を突きつけ、残った八発の弾丸全てを撃ち込む。
鬼は斃れた。
しばらく、誰も何も云わなかった。
血と硝煙の臭いが漂っていた。
男は茫然としている娘に歩み寄ると、膝を突いて視線の高さを合わせる。
「君のおかげで助かった。ありがとう」
娘は、男を凝然と見返すだけで答えない。
もしかすると此方が味方か量りかねているのだろうか、と男は察しをつける。
「俺は陸軍の将校だ。君は、攫われたお嬢さんのひとりでいいんだな」
娘は頷いた。
「君達を助けに来た。他に、君と同じ境遇の者はいるのか」
娘はまた頷く。居場所は分かるか、と男が訊けば、わかります、と娘は嗄れた声で云った。
「この館を出てすぐに東京師団の連中がいる。他の者を連れて、そこを訪ねれば良いだろう。保護してもらえるはずだ。この館にもう賊は居ないとは思うが用心はすることだ」
男は娘の手を取り立たせてやると、その躰に外傷がないことを確認する。
「命に別状はないようだな。では、俺はこれで失敬させてもらう。行くところがあるのだ」
用は済んだと云わんばかりに男は踵を返す。娘が縋るように手を伸ばしていることに男は気付かない。
障子を開け放てば、湿度を孕んだ夜の空気と、青白い無機質な光が流れ込む。
月面の岩肌で濾過された、生物にとって不要な光である。
縁側の先は広大な庭園であった。
椛が群生し、点在する石燈籠には誰が灯したのか橙の炎が踊っている。
緋色の落葉が堆積した柔らかい地面を男は突き進む。
しばらく歩いて――遠目に女が斃れているのが見えた。
男は駆け出す。女の許に寄れば――間違いなく、男の捜し求めた妹であった。
身に纏った紅色の着物は乱れ、胸も脚も露わになっている。
頸から下腹部までが縦に裂かれ、原色の臓器が溢れ出している。
胸は大きく穿たれ、そこに収まっているはずの心臓はなくなっていた。
見開かれた眼は虚ろで、何も云わず中空を眺めている。
月光に晒されて、女は死んでいた。
悪夢の如し惨状であった。
男は女の視線を追い、空を仰ぐ。
秋風に揺られる椛の低木に、只管に昏い漆黒の空である。
高さも広がりもない只々深い空間に望月が浮いていた。
輝く月が、ふたりを照らしている。
――兄様。
女の聲が男の耳朶を打つ。
――あなたが早く来ないから。妾、こんなにも醜くなってしまいました。
――助けに来てくれなかったこと、一生恨み続けますからね。
男は女を見遣る。
四肢を投げ出したまま、やはり女は死んでいる。
自己嫌悪が見せる幻聴である。
男がいくら待っても、女が蘇ることはなかった。