4-1.馨を奪還した翌日、銀座にて
馨を奪還した翌日――十一月三日の夕刻。
私は馨と共に銀座に訪れていた。
陽が沈もうという時分ではあったが、煉瓦街にはまだ人通りが残っている。時代遅れのガス灯が薄ぼんやりと光る中、乗合馬車や自動車が緩慢な速度で流れていく。
銀座から築地までを焼き払った明治五年の大火の後、都市の不燃化を目指して建造された街並みである。英国を模倣したらしい洋風二階建ての家屋が大通り沿いに並んでいるが、明治の頃は、煉瓦造りの家に住むと青膨れになって死んでしまう――という迷信が流布し、暫くは入居者が見つからぬ事態になったのだから、当時の市井が持つ西欧への心理抵抗を窺い知ることができよう。
尤も、大正となった今では、舶来品を扱う商店や新聞社、カフェやビールスタンドが開かれ、仕事終わりの俸給生活者から交流目当ての文化人が集まる華やか且つ雑多な――ハイカラな街となっている。
特別な用事があるわけではない。終業後、少し散歩に付き合って頂戴――と馨に誘われ、ここまでやってきたのだ。
今や銀座の象徴となった服部時計店の時計塔を眺めたり、宝飾類が並ぶ陳列窓に貼り付いたりと銀ブラ――書いて字の如く銀座をブラつくことである――を愉しむ馨を見ている内に、文句を云う気も失せてしまった。
「龍臣君。私、行きたい場所があるの」
視線を前方の喫茶店に遣りながら馨は云った。
馨の視線を辿れば――『カフェー・プランタン』である。
東京美術学校を卒業した松山省三が営業を創めた日本初の喫茶店である。作家や芸術家達が集う社交場でもあり、二階は会員専室である。尚、一時期は経営難に陥り、貨幣不足党と某新聞に揶揄されたこともあったらしいが、今では何とか持ち直したらしい。
「隊長。もしや会員でしたか」
「会員? ああ、プランタンじゃないわ。私達でも入りやすいところよ。フルーツパーラーって聞いたことないかしら」
「知ってますよ。千疋屋でしょう」
フルーツパーラーとは青果店を兼ねた喫茶店であり、水菓を使った飲料や軽食を提供するものである。日本で初めて開業したのが『銀座千疋屋』である。
「しかしどうしてまた。果物が好きなんですか」
「それもあるけれど、試作のメニューがあるって小雪が云っていたのよ」
「小雪が?」
「ええ。ご近所の野良猫さんから聞いたらしいわ」
猫達の情報網がこんなところで役に立つなんて不思議だわ、と馨は笑った。
千疋屋は地階が青果売場、二階が果物食堂となっている。窓格子越しには電燈が光り、誰かの談笑が漏れ聞こえる。
無意識のうちに、足が竦んでしまった。
「どうしたの? そんなところで立ち止まって」
「普通の店でしょうここは。私のような人間にとっては非常に入りにくいんですよ」
「どういうこと?」
「私の手は血で穢れているのです。そんな奴が、真っ当な商いをしている店に行くのも悪い」
「なんだ、そんなこと気にしていたの」
見た目と違って繊細なのね、と馨は困り顔を浮かべる。
「あなたは忠実に任務をこなしただけ。たとえ、どんな目的があろうとも。私達の任務はこの帝都に必要なものなの。決して穢れてなんかいないわ」
そう云い切ると馨はひとり店の奥に入って行く。店番をしていた店主らしき男が、軍刀を提げた私達を物珍しそうに見遣ったのち、階段は突き当りを右ですよ――と気怠げに告げる。
二階に上がれば、すぐに女給がやって来る。
二人だと告げ、一番奥の席に案内してもらう。
馨を長椅子に座らせ、私もその対面に座る。
献立表を馨に渡し、女給との遣り取りは全て任せることにした。
窓から煉瓦街を見下ろせば、斜向かいのカフェから千鳥足の男が出てきたところであった。赤ら顔で相好を崩しているあたり、お目当ての女給に勧められるが儘、麦酒を浴びるほど飲んだのだろう。同じような連中で溢れているあたり、何ともまあ気楽なものである。
享楽に浸っているのは男達だけではない。着物を纏った三人組の女性も、舶来化粧品の屋台の前で姦しく騒いでいる。その歓声を聞きつけた道行く淑女達が次第に集まり、売り子の青年が熱心に目の前の女性を口説けば、女性は参ったと云わんばかりに懐から財布を取り出す。商談は成立したようであった。
繁華街の熱気と黄昏の涼しさが混ざり合った刹那の光景である。
願わくば、この賑わいが永く続いて欲しいものだ――。
「龍臣君? 何をそんなに難しい顔をしているの。あなたの分も頼むから云って頂戴」
「隊長と同じ物で構いません」
私が答えれば、フルーツポンチと葡萄酒を二つずつ御願いね――と馨は女給に告げる。フルーツポンチとは初耳であった。大方、それが試作品なのだろう。
「それで、最前は何を企んでいたの?」
「企むとはまた人聞きが悪い」
「じゃあ何を考えていたの?」
「この時代が永く続いて欲しいと思っただけですよ」
「貴方、ロマンチストなのね。ちょっと似合わないかもね」
「云われずとも自覚しておりますよ」
元来、私はこういう感傷とは無縁の人間である。
妹を救えなかった自己嫌悪に突き動かされる儘、己の正義を振りかざし、気に入らぬ者を斬り捨てることでしか己を正当化できぬ途方もない悪人なのだ。それが何故、時代を憂いるような身の丈に合わぬことばかり考えているのかといえば。
――期待しているのだ。
私は、あの時救えなかった妹に赦されるのではないかと――過去の清算を望んでいるのだ。その浮ついた心が余裕を生み、奇妙な感慨を齎しているのだ。
私にとって、茜に先立たれたことだけが大正にやり残した後悔であった。その痛みを雪がなくては、新たな世を迎えることなどできやしない。喩えれば、無罪放免を前にした咎人が、娑婆では何をしようか、牢獄でやり残しはないかと感慨に耽っているだけなのだ。
そこまで考えて――滑稽に唇が歪んだ。
「ごめんなさい、気を悪くさせてしまったわ」
私の笑みの意味を取り違えたのだろう。
馨は目を伏せてしまった。
「違います。隊長の仰る通りだと思って――面白くなっただけですよ」
「本当に? 怒ってないの」
「私はよく他人から怒っているのかと訊かれますが、これでも楽しんでおりますよ」
「それなら、よかったわ。折角来たのに雰囲気が悪かったら嫌ですもの」
「誘って戴いて光栄に思っておりますよ」
私だけでは生涯来ようとは思いませんからね、と云えば、馨は安堵したように微笑んだ。
それからは、暫く障りのない世間話に興じていた。
活動写真では『虞美人草』と『豪傑自来也』が面白いわ。志賀直哉の『暗夜行路』が味わい深い文章だから読んでみなさい――という流行の話であったり、私は未だに松井須磨子の『カチューシャの唄』を蓄音機で聴いているの。ヴァイオリンの稽古をしているから、いつか聴かせてあげる――といった音楽の話であったり。
私達の会話が落ち着けば、漸く盆に注文の品を乗せた女給がやってくる。洋卓に色鮮やかな試作品と葡萄酒を注いだ洋杯を移すと、愛想笑いを撒いて去っていく。
「乾杯といきましょう」
馨は洋杯のくびれに三本の指を添える。
「では、隊長が無事復帰されたことに」
「そこは貴方達の健闘を称えるところじゃなくて?」
馨は薄く笑い、小首を三十度程傾ける。
女性らしい所作であった。
互いに洋杯を示し合わせる。馨が口をつけたのを確認してから私も葡萄酒を僅かに呷る。
滑らかな口当たりであった。果実らしい華やかな香りが酒精と共に鼻から抜ける軽快な風味であり、甘い水菓子にはちょうどいい酒である。度数も『神谷バー』の電気ブランと比べてだいぶ低く、酒に強くない者でも十分楽しめる範疇であろう。
馨はスプーンを取り、器に盛りつけられた苺を掬い口に運ぶ。
「流石に千疋屋は違うわね。とっても美味しい」
「聞けば、仕入先や鮮度など、色々と拘っているらしいですからね」
「そうだったのね。こういう素敵なお店なら、いつまでも続いてほしいわね。さっきのあなたの話じゃないけれど」
馨は愉快そうに笑った。
「どうしたのよ、そんなにこっちを見て。はしたない、なんて無粋なことは云わないでよ」
「いや、なに。聞いてもいいものかと考えていました」
何を、と訊く馨に、今までのことですよ、と答えてやる。
昨日、私と彪は武蔵野に急行した。記憶に違わず生家跡は未だに瓦礫の山と煤だらけの蔵が鎮座しているだけであったが――誰がかけたのかも分からぬ錠前を両断して突入すれば、案の定、座敷牢には拘束された馨がいた。馨の捕縛を解き、上長に報告、馨を総合病院に送り届けて――今に至るというわけである。
実篤に付き添われた馨が官舎に戻ってきたのは本日の夕方であった。入院込みの検査であったり、内務省偉方からの事情聴取であったり、気の休まる時間がなかったとだけは聞いていた。
「話したくなければ無理に訊くつもりはありませんよ」
「いえ。話したくないわけじゃないのよ。助けに来てくれた皆に報いる為にも、黙っているつもりはないの。けれど、何から話したものか迷ってしまって」
少しだけ考える時間を頂戴、と馨は洋杯に視線を落とした。
「まずは――そうね。改めてお礼を云うわ。本当にありがとう。あなたのおかげよ。本音を云うと、生きて戻れるとは思っていなかったんですもの」
「ご無事で何よりです。ですが、私だけの働きではありません。皆、隊長のことを案じておりました。後ほど声をかけてやってください。彪など、泣いて喜ぶでしょう」
「分かったわ。これからは、あなたたちに迷惑をかけないように注意するとして――それはそうと龍臣君。あなた、課長に何か云ったでしょう?」
方形に刻まれた果肉をひとつふたつと食してから、馨は意味ありげに笑った。
「何か、とは何です」
「あの課長が、えらく反省した様子で謝ってきたのよ。重荷を押し付ける真似をして済まなかった、今後は諸君に認められる模範的な人間になるから赦してくれ――だなんて云ったのよ」
「それはよかったじゃありませんか」
「どうせ貴方が一枚噛んでいるんでしょう?」
「指揮官のあるべき姿を説いただけですよ」
「呆れた。貴方って本当に口が減らないというか物怖じしないというか――でも、溜飲は下ったわ。そのお礼というわけじゃないけれど――貴方のこと、庇ってあげたわ」
「庇った? 庇ったとは一体」
「端的に云えば――紅葉の目的は貴方だったのよ。つまり、私は貴方について話すためだけに誘拐されたの。それを馬鹿正直に報告すれば、今頃は貴方が尋問されていたでしょうね」
鬼女紅葉の目的が私?
「庇ってくれたことはありがたいのですが、もう少し詳しく聞かせていただきたい」
「構わないわ。昨日今日と事情聴取ばかりで、説明にはもう慣れっこだもの」
葡萄酒に口をつけたのち、手短にお願いね、と馨は退屈そうに嘆息した。
「隊長が攫われたあとは、あの蔵に連れていかれたのですか」
「ええ。どこにも寄らずに、すぐ牢屋に放り込まれてしまったわ。そのあとは紅葉と格子越しにずっと話していたの。あの黒い服の男も、いつの間にかどこかに行ってしまったわ」
「他に紅葉の仲間はいなかったのですか」
「そうね。紅葉も云っていたけれど、あの蔵は隠れ家のひとつでしかないわ」
ならば本拠地はどこだ――と訊きたくなったが堪えた。物事には順序がある。それを違えては理解も歪んだものになってしまう。
「紅葉とは、どのような話をしていたのですか」
「それはもう色々よ。互いの名前や年齢から始まって、名付けの由来や、故郷はどこでどんな場所か、今はどうして帝都にいるのか、何をして生計を立てているのか――一問一答の遣り取りだったわ。最初は当たり障りのない問答だったけど――私が抜刀隊の隊長と名乗って、向こうも精神病院襲撃事件と女学生連続誘拐殺人事件の首謀者だと云って――それが引き鉄となったのでしょうね。そこからは緊迫した、交渉じみた駆け引きになっていたわ」
「やはり、奴は女学生連続誘拐殺人事件に関わっていたのですね」
「関わっていたどころか主犯よ。今思っても、なぜ私が殺されなかったのかが分からないわ。彼女の目的を思えば、私は殺されて然るべき人間のはずなのだけれどね」
含みある呟きを零した馨は、悲壮とも安堵ともとれる曖昧な表情を浮かべる。何か言葉をかけようとも思ったが、仔細を知らぬ私が何を云っても上辺だけを取り繕った文句にしかならず、結局私は何も云うことができなかった。
「隊長。話を続けてもよろしいですか」
「ごめんなさい。何でも聞いて頂戴」
「ではお言葉に甘えて。駆け引きというと、それは向こうから情報を引き出すためですか」
「もちろん。お互いに取り決めたわけじゃないけれど、質疑応答に嘘はないと分かっていたの。――いえ、そうなるように仕向けたのよ。自分の知っていることをひとつ話す代わりに、相手の秘密をひとつ暴くことのできる一種の遊興ね」
「しかし、紅葉が嘘を吐かぬという保証はないでしょう」
そもそも、紅葉からすれば人質と会話に興じる必要などないのだ。聞きたいことがあるなら爪を剥ぐなり目を潰すなりした方が何倍も早い。
嗜虐と殺戮を何よりも好み、人を人とも思わぬ化物が鬼なのだ。
「何を云ってるのよ。鬼は嘘を吐かない――いいえ、吐けないのよ。そんなふうにできているのはあなただって知っているでしょう。それに、あの緊迫した空気なら、相手が嘘を吐いたかなんてすぐに分かる。私は腹芸が苦手なのよ。貴方とは違ってね」
「嘘も方便と申します。それで、交渉の成果はありましたか」
「収穫はあったわ。向こうの動機や手段、本拠地に配下の数――色々と教えてもらったわ」
「流石ですね。課長もさぞ喜んだのではありませんか」
「ええ。満面の笑みで高笑いしていたわ。我々の活躍が帝都を救うのだ――って、まるで子供みたいに。でも、課長のことなんて今はいいのよ。それよりも」
馨はスプーンを置いて私を真直ぐに見据える。
「あなたに知ってほしいことがある。紅葉が何を求めていたのかを」
「奴の目的ですか。奴は何と云ったのですか」
「全部、貴方のことよ」
何でもないことのように馨は云った。
「――失敬。仰る意味が掴めません。どういう意味ですか」
「どういう意味も何も、そのままよ。紅葉は貴方の情報を欲していた。具体的には――そうね。何が好きで何が嫌いか、どんな性格か、勤務中は誰とどんなことを喋っているのか、仕事振りはどうか、どこに住んでいるのか、周囲からの評判はどうか、結婚しているのか、していたら家族は何人だ、していないのならする気はあると思うか――本当に雑多なことばかり。紅葉は貴方を識りたがっていた。いいえ、執着していたと云った方が適切かもしれないわ」
「執着されるような覚えは――ないと云い切れないのが辛いところですね」
やはり紅葉は、酒呑童子を討った私を恨んでいるのだ。誰かを殺めた者が恨まれるのは至極当然の話である。因果応報とはよく云ったものである。
或いは――。
鬼女の裡に鎖された茜の魂が、私の死を希っているのだ。
貴方が妾から目を離したせいで、鬼に攫われてしまったじゃありませんか、と。
どうしてもっと早く、妾を助けに来てくれなかったのですか、と。
そのせいで妾は鬼に食われてしまったのだ、と。
この遣り場のない怒りを雪ぐために、どうぞ妾に殺されてくれはしませんか――と。
いずれにせよ――。
殺されて然るべき人間は私の方なのだ。
ただ、それだけの話でしかない。




