■狂人を憐れむ歌 正常と気狂の境界
妾が紅い洋装の鬼に喰はれてからどれ程の時が経つたであろうか。
たつたの数日といふ気もすれば、何年と経つてしまつた気もしてしまふ。
時間の尺度を喪ひ、此処が過去か未来かも判然としない儘、曖昧な世界を夢遊している。
胸に在るのは恋しい兄様への慕情と、白痴といふ烙印を捺された者達への深ひ憐みである。
閉じていた眸を開ければ、妾の前にひとりの娘が座つてゐる。
上品な海軍襟に洋袴といふ恰好から、何処かの女学校に通ひ、何ひとつ不自由せずに華よ蝶よと可愛がられてきた令嬢であろう。
見ている此方が可哀想になるくらい怯えて、おろおろと辺りを見回してゐる。
妾に仕へる男達に攫われたばかりなのであろう。
この娘の名も姿にも興味はなかつたが、その狼狽振りに嗜虐を擽られた。
柔らかひ膚を破つて腸を引摺り出せば、どれだけ痙攣を続けるのだろう。
道理を踏違へることなく生きた娘の血液は、さぞ鮮やかな紅色をしているのだろう。
きつと息絶へる瞬間、今の今まで己が正常な人間だと信じて疑はなかつた娘が、本当の物狂ひの如し悟性を無くした顔で死んでいくのだ。
今迄攫ひ、殺めた娘がそうだつたのだから。
嗚呼、それみたことか。
人間誰しも、文字通り一枚皮膚を剥いでしまえば、皆一様に白痴の如く死んでいく。
臓腑を陽の許に曝出せば、穢れ切つた極彩と、真黒な心臓が在るだけである。
それなのに、ある時は徒党を組み、またある時は白衣の御医者様の言葉を恃み、妾を指差して御前は気狂ひだと云ふのだから可笑しいものだ。
一度狂人と云はれてしまったら、もう御終ひである。
座敷牢か瘋癲病院に叩込まれ、あとは飼殺されるだけだ。
常人と狂人の境界など何処あるといふのだろう。
そんな簡単なことも理解できないなど、世の正気を保つた人間の方が余程狂つてゐる。
それを証明するために妾は人を殺すのだ。
御前様は決して常識人などではない。
寧ろ、侮蔑と憐憫を投げつけられる気狂ひだと云つてやるのだ。
死の間際、そう伝えられた娘の絶望の表情といつたら、愉快で愉快で仕方無ひ。
残酷なのは分かつてゐる。
だが、そうでもしなければ妾の心は晴れやしない。
妾が狂人でないことを証明できやしない。
妾は狂つてなどおりません。
ですから、どうぞ、兄様。
妾をこの悪夢から解放してやつてください。
あなた様が、タッタ一言呼んでくださればそれで結構です。
どうか、兄様。




