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3-3.私もあなたも黄泉戸喫を済ませているのよ?

 翌朝。

 私は紗枝の要望に従い、彼女を連れて抜刀隊の官舎に向かっていた。紗枝曰く、東京の地図と寸胴のついた鎖があれば馨の居場所を割り出せる、とのことである。


「寸胴のついた鎖?」

「振り子みたいなものよ。お父さんから聞いたの。ダウジング・ペンディラムっていう方法。西洋なんかじゃこれを使って鉱脈を探ることもあるんだって。あとは隊長さんが普段身につけていたものがほしいわ。櫛とか髪留めとか――ペンのような日用品でもいいわ」

「理屈は分からないが承知した。振り子もペンも探せばあるはずだ。それよりも」


 周囲を見回せば、上野駅に向かうであろう老紳士が、歩みの遅い私達に迷惑そうな視線を寄越したのちに過ぎ去っていく。


「君は昨日、何か云いかけただろう」

「もしかして、黄泉戸喫(よもつへぐい)のこと?」

「ああ、それだ。ずっと気になっていた」


 私が云えば、もったいぶってごめんなさいね、と紗枝は小さく詫びた。


「坂ノ上さんは、黄泉戸喫って知ってる?」

「それは勿論」


 古事記ないし日本書紀に述べられた言葉であり、それが出てくるのは男神・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と女神・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の離別が描かれた場面――根堅洲国(ねのかたすくに)である。端的に云えば、伊弉冉が黄泉の食物を口にしてしまったが故、死者の国から生者の国に戻ることができなくなった、という話である。


 たかが飯を食らっただけではないか、と思うかもしれないが、古代人の生活や風俗を鑑みた場合そうとも云い切れない。余所の共同体と食事を供にするということは、自身がその共同体に隷属するということであり、命を賭してでも遵守しなくてはならぬ盟約ともなるのだ。


 故に――その意味を知っているから、浅慮な対応は(はばか)られた。


「意味も内容も、決して軽くない言葉であることも知っている。それを踏まえて訊くが、昨夜君が云った、黄泉戸喫を済ませているというのは何の比喩なんだい。君はまだ死んではいないだろう」

「それはそうだけど。でもね」


 紗枝は私を見上げる。

 身長差は頭ひとつ分程度である。


「私もあなたも、もう済ませているのよ?」

「そんな覚えなんてないのだが」

「あの時――酒呑童子に勧められて、こんな大きな杯に入った血を平らげたでしょう?」

「ああ、なるほど」


 三年前のことである。

 紗枝はあの山城を黄泉に、血の杯を冥界の食物に喩えたのだろう。


「私、とても怖かったのよ。兵隊さんが助けに来てくれたけど、みんな殺されて――そのあとに、坂ノ上さんだけが入ってきて、訊きたいことがある、なんて云うんですもの。しかも平然と血をごくごくと飲んじゃって――この人、軍服を着ているけど、本当に助けに来てくれたのかな。もしかして鬼の仲間なんじゃないかなって分からなくなったのよ」

「それはすまない。配慮が足りなかったな」

「いいのよ。だって。嬉しかったもの」

「嬉しかった?」


 意外な台詞であった。紗枝を見れば、自虐を孕みながらも陶然とした表情であり、爽やかな朝の外気とはまるでそぐわない、世界から浮いた存在に思えてしまう。


「私も血を飲まされてしまったから。あの鬼が、館から逃げ出そうとした子たちを殺した時の血。鬼は人の血をよく飲んで――私にも勧めたの。仲間の死を(いた)むのなら飲んでやれ、お主の中で死んだ娘達が生き続けるのだからな――って。私は拒めなかった。泣きながら飲んだのよ。でも、あの子たちが私の中にいるとは思わないし、仮にいたとしても、もう私の中に混じって溶けているのでしょうけれど――それ以来、頭が冴えるようになったの。ちょっと先のことなら分かるようになったの」

「それが、君の云う勘というものか」

「お願い信じて。出鱈目な千里眼なんかとは全くの別物よ。昨日も云ったけど、私、絶対に坂ノ上さんのお役に立ってみせるから」


 そう云い切ると、紗枝は私の数歩先を足早に進んでいく。




 官舎についてすぐに、彪と栖鳳に事情を話し、帝都の大地図と馨の愛用していた万年筆を用意させた。地図は少し前に発刊された九段書房の大東京市全図であり、万年筆は胴軸に漆を塗った並木製作所の国産品である。


 机に広げた地図を俯瞰したのち、紗枝は目を閉じた。左手には馨の筆記具を、右手には私が即席で作った振り子が握られている。

 おそらく精神の集中が必要な作業なのだろう。また、決してまやかしや冷やかしでもない、紗枝の真心からなる協力なのだ。それが分かっているからこそ、紗枝を囲む連中は皆一様に口を閉ざし、事の推移を見守っていた。小雪に至っては、基督教徒(クリスチャン)がよくするように両手を胸の前で組んで祈ってすらいる。


「東京の真ん中――宮城から調べていきますね。申し訳ありませんが、集中しなければならないお仕事ですので、どうぞお静かにお願いします」


 目を瞑ったまま紗枝が云った。


「分かった。よろしく頼む」


 頷いた紗枝が振り子を垂らし、紙面から一寸ほど離した位置で水平移動させる。

 振り子の捜索範囲は同心円状に、徐々に拡大していくが――鎖に繋がれた銀製の弾丸に目立った動きは見受けられない。


 ――やはり、駄目か。見つからぬとなっては、もう馨は――。


 失意を自覚しかけた時である。


「ここですか」


 紗枝が呟いた。この場の誰に向けたでもない問いかけであったが、返答するかのように弾丸が時計回りに動き出した。


 イエス、という意味なのだろうか。


 いや、振り子はあくまで紗枝の右手に支配されているのだ。ならば不随意な腕の動きにこそ、千里眼の由縁があるのだろう。いずれにせよ、振り子と筆記具を触媒に、紗枝は地図から何らかの光景を見出すに至ったのだ。


 (おもむろ)に回っていた弾丸は、次第に、磁石のような吸い付く動きに変わり――ついに弾頭は地図のある一点で静止した。


「どうしよう。困ってしまいました」


 振り子を手放し、顔を上げた紗枝は云った。


「このあたりに、隊長さんがいらっしゃるとは思うのですが――」


 紗枝は地図を指差した。

 置かれた人差し指は、地図の左端――枠外を示している。


「この地図では、これ以上は分かりません」

「お嬢さん。東京市以西ということになるのかい」

「はい。東京市に近い場所ですから四谷区――いえ、豊多摩郡かなと思います。すみませんが、これくらいのことしか分かりません」

「気にしなさんな。上出来すぎるぐらいだ」


 紗枝に応じたのは彪であった。


「しかしどうするかね。ウチにある地図はこれだけだぜ。上野署から頂戴してくるか」

「虎ノ字。お主の場合、かっぱらってくるの間違いだろ。儂が穏便に済ませてくるから、少し待っておれ」


 栖鳳が事務所を出ようとするが――。


 待て、豊多摩郡だと?


 四谷より西にあり、人口が少なく潜伏に適し、尚且つ帝都にほど近い場所。更には、攫った馨を監禁できる密室――。

 思い当たる場所がひとつだけあった。


「待ってくれ、翁。それには及ばない」

「どうした龍ノ字。急がねば間に合わぬやもしれぬぞ」

「奴の潜伏場所に心当たりがあるのだ」

「何だと?」


 栖鳳が眉を顰める。


「お主、どうしてそんなことが分かる」

「詳しく話している時間はないが――あの鬼女は、私の妹を食らったのだ。故に、今もなお奴の中に妹がいるのだ。妹の考えそうなことなら、兄の私が分からぬ道理はない」

「それで、その場所はどこだ?」


 彪が尋ねた。

 制帽と外套、護拳刀を装着して、いつでも出撃できる装いである。


「武蔵野だ。私の生家がそこにある。その蔵が怪しい」

「外れたらどうする? 無駄足はごめんだぜ」


 私も軍刀その他武具を佩用して出立の用意を調える。


「儂が地図を持ってきてそこのお嬢さんに正確な場所を調べてもらうから、お主らはさっさと行ってこい。もし外したところで、電話でもくれれば教えてやれるだろうよ」

「相分かった。いいな、彪。車でいくぞ。運転は私がする」

「おうよ。任せたぜ」


 彪と連れだって事務所を出ようとした時である。


「龍ノ字。お主なら既に分かっているとは思うが――鬼というものは、闇を恐れた人の心から生じた非道な生き物でしかない。お主の大切な者が裡にいたとしても、宿主が鬼であることには変わりはないのだ。お主の妹は鬼に好き勝手利用されているにしか過ぎんのだ。いいか。決して情に絆されてはならぬ」

「――忠告、痛み入る。肝に銘じてこう」


 次は、何があろうと鬼女紅葉を斬らねばならぬ。妹の事を思うなら尚更である。


 だが――。


 私にできるだろうか。

 私は、鬼女紅葉を殺せるだろうか。


 否、やらねばならぬのだ。

 仮令(たとえ)それが、どれだけ痛みを伴う道であっても。

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― 新着の感想 ―
[一言] 黄泉戸喫を済ませた紗枝さんは予知ができるようになった では主人公は、何を手に入れてしまったのか…
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