3-2.鬼は、食らった者の魂を、その躰の内に留めることができる
私が下宿先の××瘋癲病院に帰ったのは二十一時を回った頃であった。
潜戸を抜けて石廊を通れば、当直室の窓から顔馴染みの下男が顔をのぞかせる。
「おかえりなさいませ、特高の旦那。紗枝さまが受付でお待ちですよ」
「む? どうしてまた」
「さぁ。詳しいことは聞いておりませんが、旦那に何か用事があるようですよ。早く行っておやりなさいな」
「分かった。これは土産だ、夜食にでもするといい」
駅前の露天で買った菓子の包みを渡せば、禿頭の爺は恭しく頭を垂れた。
「これはこれは。いつもありがとうございます。これで夜警も果たせます」
「大袈裟だな。いつも云ってるが私は食客だ。旦那と呼ばれるような偉い人間じゃない」
「そうは仰いますが、私どもは勿論、紗枝さまはそう思っておられませんよ。旦那のお蔭で、院長さまが救われたそうじゃありませんか」
「そうは云うが――いや、何でもない。失礼させてもらう」
会話を切り上げて受付に行けば、下男の云う通り紗枝がいた。暗い室内の中、行灯を傍らに置いて長椅子に座っている。
「お帰りなさい。そろそろ帰って来る頃だと思ってたわ」
私の存在に気付いた紗枝は微かに笑った。女学校の制服姿ではなく、浅葱色の浴衣に小豆色の羽織という恰好である。
「珍しい。もう寝ていたものと思っていた」
「本当はそのつもりだったんだけど――坂ノ上さん、お仕事大変そうだったから、少しでも、何かしてあげたくて。この時間だからお握りしか作れなかったけど、食べてくださいね」
「ありがたい。丁度、腹が減っていたんだ。しかしよく私の帰る時間が分かったな」
「乙女の勘はよく当たるんですよ」
茶目気混じりに答えた紗枝は、厨房から盆を持ってくる。海苔を巻いた簡素な握り飯と、茶の入った急須に湯飲み茶碗が乗せられている。
何てことはない日常の匂いに、張り詰めていた精神が弛緩するのを感じた。
昨日は帰らず、官舎の留守を栖鳳に任せ、彪と共に徹夜であちこちを奔走していたのだ。
そのまま一睡もせず、本日の勤務に至ったのである。布団で眠るのは二日振りであった。
「乙女の勘か。それはまた恐ろしい」
「なによ笑っちゃって。本気になれば百発百中なのに」
「まるで千里眼だな」
「もしかして本気にしてないでしょ。本当なのにな」
頬を膨らませた紗枝は、洋卓の上に盆を置き、自分はその対面に座る。私も紗枝に促されるまま着座して温かい食事を摂る。紗枝は、握り飯を頬張る私を満足そうに眺めていた。
食後は湯を浴び、地階の病室に戻った。
制帽と外套を脱ぎ捨て、軍刀と共に長持に納める。麻の入院着に着替えた時である。
扉が三度叩かれた。
「坂ノ上さん。起きていますか」
紗枝の声である。起きているよ、と応じれば、扉が辷るように開けられる。廊下の暗がりの中、神妙な顔をした紗枝が立っている。
「ちょっとだけ、いいかしら」
そう云うと、紗枝は此方の返事も聞かぬまま敷居を跨ぎ、後手で扉を閉める。寝台の縁に腰掛けた。明朗な紗枝にしては珍しい態度であった。
込み入った相談があるのだろうかと、紗枝が口を開くのを待っていれば、紗枝もまた口を閉ざして私を見詰めていた。
「あのね、坂ノ上さん。多分だけれども、私にお手伝いできること、あると思う」
少々の沈黙ののち、紗枝が云った。
「手伝い? 何のことだい」
「坂ノ上さんのお仕事のことよ。今、とっても忙しいんでしょう?」
「お嬢さん。気持ちはありがたいのだが、君の力を借りることはできないよ」
暗殺に拷問など、後ろ暗い我々の職務は公にしていいものではない。その上、隊を率いる上長が誘拐されたとなっては沽券にも関わってくる。
尤も、紗枝自身は唯物科学に侵された東京人ではなく、嘗て酒呑童子に攫われた怪異を知る者ゆえに全くの無関係とは云えないのだが――。
待て。
攫われたことがある?
紗枝は帝都を震撼させたあの事件の数少ない生存者である。また犯されても狂ってもいない。殺されても喰われてもいない。
当時、官憲に重箱の隅を楊枝で洗うが如く聴取されるのも忍びないと思い、紗枝だけは自宅の場所を訊き、直接そこに――××瘋癲病院に送り届けたのだ。以来、私が事件について尋ねた事は只の一度もない。
紗枝が如何にして連れ去れたかを訊けば、女学生連続誘拐殺人事件の手がかりも見つかるのではないか。
「本当に? 手伝えることは本当に何もないの」
紗枝はずいと間合いを詰める。
こちらの心情を見透かすような瞳をして――過去の古傷を詰られているようで、視線を逸らしてしまった。
「降参だ。実は、お嬢さんにひとつ伺いたいことがあるのだ。しかし、よく分かったな。これも勘なのかい」
「それも含めて説明するわ。それで、坂ノ上さんは何を訊きたいの?」
「少し長くなってもいいかい。勿論、簡潔には話すが」
「遠慮なんていらないって前にも云ったでしょ。明日は学校も創立記念日でお休みだし、もし私がここにいることが父さんにバレたとしても――坂ノ上さんならきっと許してくれるわ」
「勘弁してくれ。ここを叩き出されたら根無草だ」
「そうなったら私が監禁してお世話してあげるから大丈夫」
「何が大丈夫かは分からないが――聞いてくれ」
私は今迄の経緯を述べた。
帝都で少女達が挙って行方を晦ましていること。その幾人が屍となって発見されたこと。その事件が、嘗て帝都で起きた事件――酒呑童子の変と酷似していること。同時期に、酒呑童子の娘を名乗る者による精神病院襲撃事件が発生していること。帝都抜刀隊に、二つの事件の調査命令が下ったこと。これら事件を看破するため、酒呑童子と深く関わる紗枝に話を聞こうと思い立ったことを――。
紗枝は相槌を打ちながら、最後まで話を聞いてくれた。
「以上がこちらの事情だ。どんな些細なことでもいい。君が体験した出来事を教えてほしい。嫌なことを思い出させてしまうだろうが、どうか力を貸してほしい」
「構わないわ。だって、攫われた私を助けてくれたのは坂ノ上さんなんだから」
私が頭を下げれば、紗枝は快く承諾してくれた。
「でも、私のことだけでいいの。お父さんから聞いたわ。坂ノ上さんの上司だったあの人、さらわれてしまったんでしょう?」
「それは、慥かにそうだが――私達の失態だ。調査を進めるうちに、きっと隊長にも辿り着けるだろう。たとえそれがどんな形であれ、な」
「助け出せる、とは云わないのね」
「何せ相手が酒呑童子の血縁を名乗っているからな。期待するだけ虚しいことは、既に知っているのだ」
私が言外に込めた、隊長の生存を望めないという失意を察したのだろう。紗枝は淋しそうに肩を落としてから。
「私になら、視えるかもしれない」
と云った。
「視える? それは一体どういう意味だい」
「先に話してもいいけれど――まずは私の話を聞いて。たぶん、その方が分かりやすいから」
紗枝は頬に手を添え、考える仕草をしてから紗枝は云った。
「私は鬼に攫われて山にいたころ、同じ境遇の子たちの面倒を看ていたの。幼い子供たちの話を聞いてあげたり、ご飯を作ったり、身の回りの世話をしたり――いつか必ず助けが来るから、それまで頑張って待っていようねって励まし合ったり、家に帰れたら誰に会ってどんなことをしたいって話したり、良い縁はあるのか、それは素敵な殿方ね、なんてことを云ったり――」
ぽつりぽつりと紗枝は忌まわしい過去を語っていく。
「ある日、監視の目を盗んで逃げだそうとした二人がいたの。彼女たちが捕まって、私たちの目の前で見せしめに殺されて――夜に、男たちに酷いことをされて泣いている子を慰めても、あんたは穢されてないから他人事でいいよね、清い躰で羨ましいわ、なんて取りつく島もなくて――。そんな時に、みんなに訊いたことがあるの。このお屋敷までどうやって連れて来られたのって。そしたら――みんな一様に分からないって云ったのよ。おかしいよね。私だって分からなかったから訊いたのに」
分からない?
「お嬢さん。分からないとは」
「そのままよ。例えば――学校に行く途中、誰かに声を掛けられたと思ったらここにいたって云う子もいたし、朝起きたらここにいたって子もいた。他にも、お使いの途中、誰かに手を引かれたような気もするって云う子もいた。みんな色々だったけど、殴られたり叩かれたりっていう乱暴なことはされていないのよ」
呼び止められたり手を引かれたり――。
その誰かとは何者なのだ?
「お嬢さん。君の場合はどうだった。答えたくないのなら無理にとは云わないが」
「私の場合は――女学校一年生のときだったわ。先生のお話が終わって、級長だった私が立って、おじゃんですと云って――他の皆が拍手したことまでははっきり覚えているわ。でも――それからは曖昧なの」
女学校において、授業の終了時に学級長がオジャンです――と云って、周囲が歓迎の拍手をして放課を迎えるという形式美が存在する。規模こそ違うが、己の配属先が決まった士官学校予科の生徒達が、百日宴と称して歌ったり騒いだりするのと同じ心境なのだろう。尤も、不人気の極みであった輜重隊に配属された私には関係無い話であるのだが――。
「気が付けば、私はお座敷に座っていて、目の前には大きな大きな鬼がいて、他にもたくさんの男たちに囲まれていて――そのじろじろ見る目付きが気持ち悪くて――本当にびっくりしちゃった。そのときは何もされなかったけど――今になって、気になることがあるの」
そこで紗枝は伏せていた顔を上げて、私の顔をじっと見詰める。
「あのお座敷で、鬼の隣に、女の人が座っていたの。赤い派手な洋装を着た、とてもきれいな人だった。鬼が本当にいることにも驚いたけれど、それ以上に、あの人のお顔があまりにも整って、まるで人形のようで――その人だけは宴に混じるわけでもなくて、ただただ退屈そうにしていたのを覚えているわ」
「お嬢さん。君は、そいつが何者なのか知っているのか」
「きっと、鬼の娘だと思う。私よりも先に攫われた女の子たちがそう云っていたし、配下の男たちもみんな紅葉さまと呼んで――ううん、崇拝すらしていたわ」
「鬼女、紅葉――」
奴が酒呑童子の娘だというのは本当だったのか
「だから、私はあの封筒が届けられたとき、不安で仕方なかった。紅葉なんて名前、知っているのはあの事件の被害者以外にいないんですもの。患者を苛めているとか、ご家族からお金を巻き上げているとか、手紙の内容はまったくの嘘だったけれど――本物の鬼が、お父さんの命を狙ってるだなんて信じたくなかった」
「どうしてそれを」
もっと早く云わなかったのだ、と云いたかった。だが、事前に云われたところで何かが変わったとも思えない。それに、紗枝の中であの事件は忌まわしき過去のものであり、好き好んで証言したいものでもないだろう。何より、紗枝を事件から遠ざけていたのは私の方なのだ。私に、彼女を責めていい道理などない。
「――何でもない。お嬢さんは、紅葉と話したことはあるのかい」
「いいえ。直接的に関わったことはないわ。遠巻きに眺めていただけ。庭の椛を愛でていたり、連れてこられた私たちを気遣ってくれたりするような情の深い方だったらしいけれど――女の子たちはみんな関わるべからずと云っていた」
「なぜ、紅葉には近づいてならぬのだ」
「だって――知りもしない鬼の仲間が見せる優しさなんて偽りでしょう。飴と鞭っていう言葉もあるくらいだし、絆されることなんてあってはならないことだもの。女の子がひとりまたひとりと姿を消してしまうような環境なら尚更。距離を置くことが私たちには必要だった。ただ、それだけのこと」
「ただ、それだけのことか」
「それに――あの女に捕まったら、食べられてしまいそうだったから。実際に、あの人が誰かを食べているところなんて見てもいないけれど、彼女なら人を食べていてもおかしくない――そう思ってしまうとうな不思議な恐ろしさがあった」
紗枝はそこで言葉を切った。
整った顔立ちの、赤い洋装の女――。
私があの山城に攻め込んだ時、そんな娘はいただろうか。事後官憲の調査が入ったが、生き残った少女達の中にも、殺された少女達の中にも、そんな恰好の娘がいたとは聞いていない。
私が知っているのは、和服を開させ、心臓を穿たれて死んだ妹だけである。
ともすれば――逃亡したのだ。
鬼女紅葉とやらに何があったのかは分からない。精神病院を狙う動機こそ不明だが、今もどこかに潜伏して、虎視眈々と機を窺っているのだ。次の獲物は、父親である酒呑童子を殺した私というのは考えすぎだろうか。
「坂ノ上さん?」
今の今まで、ずっと解らぬ事があった。
誰が妹を――茜を殺したのか。
最初は、酒呑童子が喰らったものと思っていた。だが、奴の口振りからしてそれは違うだろう。では賊かと云えばそれも違う。妹の裂傷は怪力で抉じ開けたものである。人間が道具を用いてする上品な解剖とはかけ離れている。
やはり、鬼の仕業であろう。鬼は人を喰らうものだ。
妹は――鬼に喰われたのだ。
「坂ノ上さんったら。聞いてるの、ねえ」
紗枝の呼声で、思考が先走っていたことを自覚する。
「――ああ、済まない。少し、昔のことを考えていた」
「妹さんのこと?」
控え目に紗枝が尋ねた。
「何故、お嬢さんがそれを知っているんだい」
「なぜって、私もそこにいたじゃない」
そうであった。当時、酒呑童子の横に侍っていた女房装束の娘こそ、この紗枝だったのだ。
「私、坂ノ上さんにずっと黙っていたことがあるの。妹さんのこと、知っているかもしれない」
「え?」
「紅葉さんといつも一緒にいる女の子がいたの。年齢は私と同じくらいで、最初は私たちと同じようにどこからか連れてこられたかわいそうな子だと思っていたけれど――紅葉さんとはまるで双子のように仲がよさそうで、もしかしたら、お気に入りというか特別扱いだったのかもしれない」
「――茜は、虐げられはいなかったのだな。口に出すのも憚られるような環境にいたとずっと思っていたのだが」
「茜さんというのね。安心して。会って話をしたこともなかったけれど、彼女は幸せそうに見えたわ。少なくとも、軟禁されているような私たちとはずいぶんと待遇が違ったわ」
私たちがいつ死ぬか怯えていたのを彼女は知りもしないでしょうね、紗枝はぽつりと恨み言を呟いた。慰める言葉を持ち合わせぬ私には、黙殺するしかなかった。
「誘拐されたあとの、妹の様子は初めて聞いたよ。しかし、君はどうして、私の妹だと分かったのだ。別人という可能性もあるだろう」
「それはありえないわ。だって、本当によく似ているもの。涼しげな目元も、西洋人みたいに高い鼻も、少しだけ細身な背格好も。二枚目俳優みたいで、私はあなたのこと好きよ」
「ありがとう。仮令、世辞でも嬉しいよ。だが、滅多なことは云うものじゃない」
壁に耳あり障子に目ありだ、と私が咎めれば、紗枝はばつの悪そうに目を伏せた。
「ごめんなさい。それよりも、紅葉さんが茜さんのふりをしていたことだけれど」
「待ってくれ。それも院長が喋ったのか。口外せぬように幾度も頼んだのだが」
「お父さんは悪くないの。私が無理に聞き出したのよ。それよりさっきの話だけれど、坂ノ上さんは、どうして紅葉さんがそんなことをできたのか分かる?」
「いや、皆目見当もつかないのだ」
それが分からなかったから、私はあの鬼女を殺すことができなかった。それだけじゃない。藤島院長を危険に晒し、果てには馨を攫われてしまったのだ。申し開きのしようがない大失態である。畢竟、私には修羅道を歩む覚悟が足りなかったのだ。
「まさか、お嬢さんは何か知っているのか」
私が訊けば、そのまさかよ、と紗枝は頷いた。
「今から、残酷で、とても嫌なことを云うわ。私のこと、嫌いにならないでくれる?」
「云ってくれ。もう、覚悟はできている」
「鬼という生き物は――ううん、鬼だけじゃなくて人間もだけれど――食らった者の魂を、その躰の内に留めることができるの。多分、茜さんは食べられてしまったのよ」
「――どうして、君がそんなことを知っているのだ。酒呑童子がそう云っていたのか」
「それもあるけど」
紗枝は、少々の間を置いたのち。
「私は、黄泉戸喫を済ませてしまったから」
と自虐的な笑みを浮かべながら云った。
その痛ましい表情と、重圧を秘めた言葉、そして何より突如訪れた強烈な睡魔に、私は何も云うことができなくなってしまった。
何だこの眠気は。
黄泉戸喫とは、如何なる意味なのだ――。
「さすがに、もう限界みたいね」
「お嬢さん?」
「夕食のお茶に盛らせてもらったわ。睡眠薬と栄養剤を少しだけ。お父さんには内緒よ。勝手にお薬を処方したと知られたら、こっぴどく怒られてしまうもの」
「どうしてそんなことを。まだ、話は終わっていない」
「最近の坂ノ上さん、とても見ていられてないんですもの。心配はいらないわ。明日、ちゃんと説明してあげるから。あの隊長さんも、私がきっと見つけて差し上げますから。だから、今は寝なきゃだめ」
紗枝は私寝台に寝かしつける。
薬の回りが早いのか、最早まともに躰も動かず、抵抗する気勢も削がれてしまった。
意識が凄まじい速度で深みに落ちていく――。
「おやすみなさい。せめて今日だけでも、よい夢を見てくださいね」
私を見下ろしながら紗枝が云った。
気絶するように眠れるなど、士官学校時代のようだ――と思った時には、私の自我は溶けて消えてしまった。




