3-1.諸君は、大正を創る立場に置かれているのだ
抜刀隊の官舎、煉瓦館の会議室兼応接間に、私は直立不動の姿勢でいた。
既に陽は沈んだため、ひとつしかない窓は上品な窓帷で鎖されている。天井から垂れる四つの電燈が、九尺四方の洋室を照らしている。タングステン製の繊条から発せられる赤橙の人工色である。
重厚な洋卓と、洋卓を囲む黒革の安楽椅子、壁掛けの四四式騎兵銃、波斯製の絨毯――温い光に撫でられた諸々の調度品は物々しい凄味を放ち、空間を大いに停滞させていた。
洋卓を挟み、一人掛けの椅子に腰掛けているのは内務省特務課課長、後藤実篤である。
舶来品の葉巻を銜え、天板の灰皿に視線を落としている。
光源が真上に在るため、双眸の下に影が生まれ表情を窺い知ることはできない。
帝都抜刀隊隊長、黒澤馨が得体の知れぬ闖入者に誘拐された翌日。
改めて部隊の上長である実篤に、事の経緯を報告したところであった。
「長々と説明をしてもらって済まないがね、坂ノ上君」
漸く、実篤が重い口を開いた。
「判然としないな。サッパリだよ」
「何がでしょうか」
「全部だよ。いや、黒澤君が誘拐されてしまったことも、諸君が懸命に捜査をしていることも、警察に応援を頼んだがゆえ多大な借りを作って僕の立場が少しばかり拙いことになってしまったことも――重々承知している。だが、僕がどうにも掴めないのは」
実篤は葉巻を口から離し、私を見遣る。怨敵を睨む禽獣宛らの眼であった。
「過程だよ、過程。無論、鬼女紅葉という女が何故君の妹御を騙ることができたのかについても不明だが――まあそれは後にしよう。僕が分からないのは、何故彼女が現場に残ってしまったのかということだ。そして何故君達もそれを承諾してしまったのだ。当初の計画では、彼女は官舎で電話番でもさせておけという話だったじゃないか。そうだろう?」
「――仰る通りです」
「二十歳そこいらの箱入り娘にしては見所があると買っていたし、周りの君達も彼女のお目付役として機能していると思っていたのだ。故に十分過ぎる権限を与えていたのだが――その結果がこれだ。如何ともしがたい愚行だよ、これは。これで彼女が殺されでもしたら――そうだな、その時は代役捜しを君にも手伝ってもらおうじゃないか。うん、それがいい」
代役?
「課長。失礼ながら、仰る意味が分かりません」
「意味が分からないって――おい、君まで莫迦になったらこの隊は終わりだぜ。本当に頼むよ」
「代役というと、黒澤隊長の代わりに、新たな人員を募るということですか」
「他に何があるんだね」
実篤は笑った。
「我が隊の指揮者となるに相応しい娘をどこからか引っ張ってくる算段だ。実はこれが案外手間な仕事でね。見識に優れ、武術や法術を修め、おまけに麗しい外見であるなら満点だ。ところが、当然そんな才媛は中々いない。学識があって陰陽術に覚えがあっても醜女じゃ駄目だ。かといって容姿だけの白痴じゃ尚のこと駄目だ。いやはや、黒澤君を喪うとは惜しいことをしたものだな。――ああ、勿論仮定の話だ。まだ彼女は死んじゃいないからね」
実篤の軽薄な口調が癪に障った。もしこの場に彪がいたら、今頃この男は叩きのめされ、ただの肉塊に成り果てていただろう。だが、そんなことよりも。
「課長、ひとつ宜しいでしょうか」
釈然としないことがあった。
「隊長という役職は女性でなくてはならないのですか」
「そりゃあ君、そうだろう。それとも何だい、君自ら隊長に名乗り出るつもりだったのかい。野心家には見えないのだがね」
「違いますよ。私はそのような器ではありません」
「まあ、君は誰かに使われてこそ真価を発揮する類型だろうからね」
「私のことはいいでしょう。それより何故女性に拘泥するのですか」
「象徴だからだ」
実篤は即答した。
「象徴、ですか」
「そんな意外そうにしなくたっていいじゃないか。もしかすると君は妙な勘繰りをしていたのかい? 生憎、僕は黒澤君とは何もないよ。新しく連れてくる隊長見習い君ともだ。そんなことはあってはならない」
実篤に対しては勿論、馨に対してもそこまでの興味はないため黙殺する。
「象徴というのはどういう意味ですか」
「そのまま受け取ってくれて構わない。――少し考えてくれ給え。君達に課せられる職務というのは些か特殊過ぎるのだ。その構成員だって、陸軍出身の君をはじめ、鷲尾君も栖鳳さんも、俸給労働者のような社会の歯車にはまるで収まらぬ者達だ。そんな諸君を先導する役目は凡夫には務まらない。仮に相応の出自と能力を持った者がいても、風采が冴えなければ格好がつかない。担ぐ輿は軽ければ軽い程良いなんて言葉もあるが――それでは駄目なのだ。いいかい、坂ノ上君」
ここからが本番だ、とでも云うように実篤は上体を前傾させる。
「前にも云ったが、君の任務はこの大正という治世を終わらせることだ。その為には、次なる時代に引き継いではならぬ雑多で不可解なものを殲滅しなければならない。その目的が達成された暁には――抜刀隊の功績は後世の人間に大いに語り継がれることだろう。その時、抜刀隊の指導者たる者が凡愚であったらどうだ。憚られる容姿であったらどうだ。きっと後ろ指を差され、無責任な市民に未来永劫貶められるだろう。では逆に尽善尽美で無垢なる娘であったらどうだ。そして智略と武勇を如何なく発揮してくれたならば――先刻とは真逆の意味で語られるだろう。その称賛こそ、大正とは如何なる時代であったか、という問いに対する解のひとつになると僕は考えている。詰まるところ、大正を終わらせるのが君達の使命であるが――それだけではない。諸君らは同時に、大正を創る立場に置かれているのだ。別に、僕の作った部隊だから汚点を認めないと云いたい訳じゃない。我国に対する溶岩の如し熱い忠誠と、帝都への清らかで際限ない憧憬が僕を駆り立てていることをどうか理解してほしい」
そのように結び、実篤はまたしても葉巻を喫いはじめる。どこか満ち足りた表情であった。
「これは済まない。喋るのに少々夢中になってしまった。火が消えてしまうところだったよ」
君もひとつどうだい結構美味いぜ、と実篤は対面の椅子を勧めたが、辞退する。
実篤とは対照的に、私の心は冷え切っていた。
「課長。意見具申願います」
「うん? まあ、そう固くならずとも構わない。ここは小煩い軍隊とは違うからね。それで、何だね」
「先程、課長が仰った疑問――黒澤隊長が何故、現場に残ったのかについて、私なりの解が見付かりましたので申し上げます」
「ああ、そうか。そういう話だったね。いいだろう、後学の為に聞かせてくれ」
「課長のそのような態度が、黒澤隊長を追い込んだのではありませんか」
「僕の態度?」
実篤は眉を顰める。自分が非難されるとは思わなかったのだろう。一度は弛緩した空気がまた張り詰めていく。
「そのような、とはどんなものだい。具体的に頼むよ」
「率直に申し上げます。黒澤隊長を、見栄えの良い人形として扱っている点です。御言葉を借りるなら、象徴としてしか見ていないことです。いや、象徴であることのみを強要していると云うべきでしょうか」
「折角の意見だが――分からんな。慥かに、僕は君の云う通り黒澤君を――抜刀隊の隊長に象徴たらんことを求めている。強制していることも認める。象徴と云えば恰好を付けているように聞こえてしまうから――偶像とか御飾りと云うべきかもしれないな。だが、それの何が悪いというんだね」
「課長の仰る象徴とは、換言すれば女であると云うことです。黒澤隊長に、女であることを強制していることが問題なのです」
「やはり分からないな。女であることを強いている――それの何が悪いんだね」
「黒澤隊長は、作戦実施前、課長を始めとする内務省の上役共に詰責されたと嘆いておりました。具体的には――女だてらに身分不相応なことをするから云々、更には、この隊が解体されたらどこかに嫁いでしまえ――などといったものです。実際はもっと心無い罵倒をされたと推測致しますが――これでは象徴以下だ。このような無意味な罵詈雑言を浴びせられたが故、黒澤隊長は自ら現場に残りたいと、虚仮にされたまま黙ってなどいられないと我々に訴えたのです。他の者が止めるにも拘らず」
そこで実篤を見下してやる。少し眼光に威圧を込めるだけで、呑んでやるのは簡単であった。
「成程。つまり君は、黒澤君が無謀な真似をしたのは僕の所為でもある、と云いたいわけだ」
「仰る通りです」
「残念だが、それは君の心得違いだ」
「何が違うのですか。課長の追求があったからこそ、このような窮状に陥っているのです」
「それはあんまりじゃないか。慥かに、彼女の判断材料のひとつにはなったのかもしれないが、それでも決定を下したのは彼女だ。責任の所在は、やはり彼女にも、そして君達にもある筈だ。――ああ、そうとも。これは現場の責任だろう」
「御冗談を。曖昧な言葉で逃げないで戴きたい」
「曖昧だと? 現場は現場だ。こうなることが少しでも分かっていたのなら何故もっと強く止めなかった。諫めたが阻止できなかった、では何の意味もない。彼女が悪くないと云うのならその前に自省するべきだ。聞けば、君だけは彼女が残ることに賛同したそうじゃないか」
余程、私に指摘されたのが悔しかったのだろう。実篤は捲し立てるが、私が動じることはなかった。寧ろ、侮蔑が一層強いものになる。
「我々に落ち度がないとは云いません。ですが、黒澤隊長の権限を承認したのはあなたです」
「だから何だと云うのだ」
「宜しいですか。承認するということは、下々に丸投げすることではありません。我々の上官として相応しい振る舞いを何卒お願い致します」
「相応しい振る舞い、だと――」
実篤はさも不思議そうに呟いた。
これ以上の議論は無意味である。また、既に報告は終え、仕事は山ほどに残している。
潮時であった。
「今後の方針につきましては、所管署の助力を求めることになりますが――目撃証言がないか訊き込みを進めて参ります。また我々独自の方法による近辺の監視と警戒の強化、過去の案件を洗い直します」
「過去の案件――酒呑童子の変かね」
掠れた声で実篤は訊いた。流石に真正面から云いくるめられたのは堪えたのかもしれない。
「そうです。幸い陸軍には伝手がありますので、調査資料を漁るくらいは容易でしょう」
「慥かに、鬼女紅葉という女が酒呑童子の娘を名乗った以上、そいつと彼の大事件との繋がりを調査せざるを得ない。まあ、当事者の君がいれば話は早そうだね。だが、精神病院襲撃も勿論重要だが、女学生連続誘拐殺人事件についても留意してくれ給え」
「そちらの事件については所管署の調査待ちという話だったはずですが」
私が言外に難色を示せば、黒澤君が心配なのは承知しているが――と実篤は苦々しく零す。
「酒呑童子の変と女学生連続誘拐殺人事件が類似していることは君も分かっているだろう」
「それはそうですが――」
酒呑童子の変――別名、帝都十八人事件。
事の始まりは大正五年、寺内正毅内閣――通称ビリケン内閣が成立した頃である。東京にいる若年女性の失踪が立て続けに発生したのだ。数にすれば同年で十二人。人身売買だ奇怪な魔術の贄にされた、朝鮮人の仕業だ、殺人鬼が現れた――などといった流言飛語が行き交う大騒ぎとなり、警察も血眼になって捜査をしたが、失踪者の毛髪一本すら発見に至らず。翌年大正六年にも、後を追うようにぽつりぽつりと六人の娘が姿を消して――それからである。
最初に行方不明となった娘の屍が上野公園で見付かったのだ。
全身を完膚なきまでに殴打された惨たらしい骸であった。それを皮切りに屍体が二つ三つと 道端や田畑の中で見付かり――大正七年の秋である。とある山村の駐在に、一糸纏わぬ少女が助けを求めて――そこで漸く警察は犯人の居城を掴んだのだ。そこからは迅速であった。陸軍の歩兵に加え、各隊から剣術ないし武術に秀でた決死の志願者を募り――白兵戦で決着を付けようとしたのだ。帝都だけではない。国中から狼藉者を赦すなという声が上がったのだ。
その時だけは、米騒動も沈静化して、騎馬に乗り行軍する軍隊が英雄の如し扱いであった。
そして開戦したのが酒呑童子の変である。結局、陸軍は多大なる犠牲のもと、首謀者及び配下の滅殺と、囚われた少女達の救出に成功するが――如何にしてその少女達を攫ったかについては今も解らぬ儘であった。
被害者曰く――気がついたら山城に居た、まるで夢でも見ていたかのようだった、と口を揃えて証言にもならぬ証言をするのだから、当時の刑事連中は途方にくれたという話がある。
以上が帝都十八人事件の概要である。
実篤の云う通り、似ているのだ。女学生連続誘拐殺人事件と酒呑童子の変は。
未だ判明しない誘拐手段も、若い女性が標的となっていることも、見つかった骸は皆惨たらしい様相であることも――。
「二つの事件は、必ずしも無関係とは云い切れない。そんな折りに、今度は紅葉とかいう酒呑童子の娘を名乗る者が出たんだ。しかもそいつが攫ったのは黒澤君という若いお嬢さんだ。関連を疑うなと云う方がどうかしている。これは僕の直感なのだがね」
実篤は葉巻の先端を灰皿に擦り、一寸ばかりの灰を折るように落とした。
「鬼女紅葉さえふん縛ってしまえば、僕らを悩ませる事件は立ちどころに霧消してくれると思うんだ。根拠などないが――人間の直感も莫迦にはできないものだろう? いやなに、君の方針に口を挟むつもりなどないから安心してくれ給え。僕が云いたいのは、頭の片隅に女学生さん達の事件を置いてくれれば十分だということだからね」
「承知しました。進捗などあれば速やかに報告致します」
「頼むよ。ところで先刻の話なのだが――何故、鬼女紅葉は君の妹御の真似をしたのだろうか。そもそも、真似をできたということが疑わしいのだ。改めて訊くが――君の妹御は既に死んでいたのは間違いないのだろう」
「――ええ、間違いありません」
「そして、鬼女紅葉という女の容姿は、他人の空似である可能性が高い、と」
「それも、間違いありません」
「にもかかわらず、紅葉は君の記憶にある妹御を演じて見せた、と」
私が頷けば、警官隊の口止めも必要になるだろうな、実篤は独りごちる。
「一応訊くが、君には、女の正体に心当たりがないということでいいんだろうな」
「一切ありません」
「本来であれば、君が鬼女紅葉と内通しているのではないかと疑って掛かるべきだろう。実のところ、必要なら尋問するようにと上役からも云われているし、事故死として処理してもよいとも云われてもいるのだが――安心してくれ給え。僕だけは君を信じよう。君が今まで積み重ねてきた骸の数を思えば、疑う気にもなれないからね。第一、ここで君を喪えば抜刀隊の維持は不可能だ。いいかね? くどいようだが、僕は君という同志に信を置いているのだ。この信頼には応えてくれなきゃ困るぜ」
「お任せください」
「よし。もう戻ってくれて構わない。僕も考えを纏めたら帰るとするよ。まだ葉巻も半分は残っていることだからね」
「では、私はこれで。車夫を玄関先に待たせておりますから、帰りはそれを御使いください」
「――一寸待ち給え」
踵を返し退室しようとすれば、君が云った先刻のことだが、と実篤が蒸し返しにかかる。
「君はこの僕に啖呵を切ってくれたわけだが――私に相応しい振る舞いとは如何なるものだね。私が持ち得る権限を、部下である黒澤君に渡すのは間違っているとでもいうのかい」
「明確な失策とは云えませんが――課長のそれは責任転嫁です。少なくとも、権限というものは皇族や爵位といった身分、或いは元帥や連隊長といった職位に付随するものではありません。上から下へと流れるものではなく、寧ろ真逆――私のような木端の雑兵が、この御方の為なら命を捨ててもいいと容認して初めて成立するものです。移すものではなく委ねるものです」
移譲と委譲は、同音ではあるが、意義はまるで異なる。権限とは、命令の受容によって初めて成立するものである。
「黒澤隊長への非難は、私に対する非難でもあります。故に――私は怒っているのです」
私の発言に、とうとう実篤は口を噤んでしまう。三秒間待っても、反論はなかった。
形式だけの謝罪を済ませ、今度こそ退室する。
事務室に戻れば、電燈の灯る部屋に彪はいた。机に広げた帝都の大地図を睨んでいる。
「まだ居たのか。そろそろ帰れ。明日も早いんだろう」
「莫迦、こんな時に寝てられるかよ」
彪は此方を見ずに答えた。
昨日から一睡もしていないせいか、目の下には隈があり血色も悪い。
「おい龍臣。手前はどうして特高に入った? 元々は陸軍様だったんだろ。だったらそのまま軍に居座っていれば良かったじゃねえか」
「復讐の為だ」
「復讐だあ?」
そこで彪は此方を怪訝そうに見遣る。
「彪。そういう貴様はどうなんだ」
「俺は――護りてえんだよ」
目的語を欠いた曖昧な言葉であった。
何をだ、と訊けば、色々だよ莫迦野郎、という乱雑な返答を寄越す。
「自惚れるつもりはねえがよ、他人様と比べて俺にはちょいとばかりできることが多いんだ。その力で役に立ちてえんだ。馨様のために、この帝都のためにもな。だから」
彪はそこで台詞を探すかのように口を閉ざした。また口を開く。
「大正を終わらせるとか、その反対に創るとか――そんなのは考えたこともねえ。少なくとも、こんな糞みてえな不甲斐ない思いをするために入ったんじゃねえんだよ」
「課長との話を聞いていたのか」
「聞こえてくるんだよ莫迦。それで、手前はどうなんだ」
「私も同じだ。このまま大正が終わってしまっては」
私は生涯後悔するだろう。
「終わったら何だよ」
「赦すことができない」
「はっ。手前ならそう云ってくれると思ったぜ」
私の返答に満足したのか、彪は口許だけで笑った。
それから二言三言交わした後、私は先に帰路についた。




