2-4.お前は大正と心中しようとしている、自分ではそうと気付かずに
「なぁ、龍臣さんよ」
彪に声を掛けられた。
意識を現在――大正十年の××瘋癲病院に引き戻す。
目を開ければ、長椅子の背凭れに上体を預けた彪がこちらを見ている。
帽子を浅く被り、詰め襟の第二釦までを外している姿は、まるで帝大の不良学生である。
椅子に立て掛けた護拳刀は体躯に合わせた大型の特注製であり、纏う外套も余裕ある寸法のものである。
「つい先刻、馨様と話していた約束とは何のことだい? 詳しく聞かせやがれ」
「大したことじゃない。私が抜刀隊に勧誘された時に頼まれたのだ。復讐のため一緒に戦ってくれ、とな」
「復讐、ねえ」
彪は云うでもなく呟いた。
「どうしたのだ」
「いや、なに。こんなことを云うとまた拗ねちまうんだろうが、ちと不憫に感じたのさ。あんな細い躰に、重いモノを背負い込んでると思うとな。まったく世知辛い世になったものだぜ」
「血腥い任務ばかりだ。誰しもがそれ相応の事情を抱えているのだろう。残念なことだが」
「でも、良かったぜ」
「む? 何がだ」
「馨様もそうだが、手前にも人並みの事情ってやつがあるんだろう」
彪はそう云って皮肉そうに口を歪める。
「事情がなければ何だと云うのだ」
「そりゃお前、気狂いだろ。誰が好き好んで妖怪狩りなんかするかよ。そんな奴がいるなら何処かの癲狂院にでもブチ込んで一生飼い殺されるべきだぜ。――あん? そういや前もこんな話をしたな」
「相馬事件のことか」
「それだそれ。その相馬何某といえば、結構な騒ぎじゃねえか」
「何の話だ」
「だからその相馬何某を忘れるべからずとか書いたビラ紙よ。今じゃもう東京の至る処に、相馬何某がどうとか、瘋癲院や精神病院がどうとかいう怪文書がバラ撒かれているぜ。知らなかったのか?」
「初耳だな」
慥かに以前、紗枝が在籍する女学校の塀や上野署の壁面に、同様の貼紙がされた事案はあったが、それ以来目にしていない。
「情報通な手前が珍しいじゃねえか。いや、手前だからかもな」
「どういう意味だ」
「そりゃ、お前が取締まる側の人間だからだよ。これ見よがしに得物を引提げて、狼のような目でぎょろぎょろと周りを睨んでる奴に誰が寄りつくんだよ」
「否定はしないが、それは貴様だって同じだろう」
「いんや、俺は違うぜ。市民から親しまれるように振る舞ってるんだ。昼間は喫茶店で帝大の餓鬼共と歌って騒いで、日が暮れたらカッフェーの女給と宜しくやってるんだ。そうやって肩肘張らずに東京の風に溶け込んでしまえば、聞きたいことは向こうからひょっこり来てくれるってもんだ。という訳で今夜お前もどうだい。いい店があるんだ」
力説した彪は、酒杯を呷る仕草をしてみせる。任務前だというのに緊張感の欠片もない。
「折角だが遠慮させてもらう。隊長が何か云いたそうだったからな」
「色男め。手前なんぞいっぺん死に腐れ」
「縁起でもないことを云うな。私と隊長は貴様が想像するような仲じゃない。所詮、部隊長と一兵卒の関係だ。それよりも怪文書についてだ。東京中にばら撒かれているなら、貼った者が捕まってもいい気もするが」
「調査中らしい。単独なのか複数なのかも分からんそうだ」
「それなら内容どうだ」
「はて、何だっけな――」
彪は少々考えたのち。
「『狂人を憐れむ歌』とかいう小説みたいなものだったぜ」
と云った。
「狂人を憐れむ歌?」
何処かで似た文句を聞いた覚えがあった。
慥か――九州の医者か教授が、精神病患者達の窮状を主題とした怪文書否、告発文を記したと聞いたことがある。『キチガイ地獄外道祭文』という題だっただろうか。あまりに赤裸々な暴露であったため、却って世間から黙殺されてしまったらしいが――まあ、これは置いておこう。これは私達には一切関係のない物語であり、余談でしかない。
「歌なのに小説なのか」
「掌編小説って云うのかね。これがなかなか面白いらしくて、評論家気取りの学生連中には好評なんだぜ。やれ続きはこうなるとか、やれ作者は女性に違いないとかな」
「貴様は読んだのか」
「ああ。読んだには読んだが――俺にはてんで面白さが分からねえ」
「成る程。難しい話なのか」
「手前こら。人を莫迦にすんじゃねえ」
「うん? 失敬、違ったのか」
「中身はそれ程でもねえんだ。寧ろ平易に読み進められるもんだろうが――何というかな、とにかく鬼魅が悪いんだよ。支離滅裂で悲惨で、作者が何を云いたいのかサッパリ掴めねえ。だから読む奴によって感想がころころ変わるし、解釈の余地ってもんが文章に残ってるんだ」
「ふむ。それは任務を抜きにして興味を惹かれるが――貴様の云う通り、世知辛い世の中になったものだな」
狂人を憐れむ歌――。
未だ見ぬ散文の題名は、形容し難い感傷を与えてくれた。
どこかの誰かに慰められているような、或いは侮辱されているような――。
「どうしたよ? そんな顰めっ面をして」
「いや、なに。憐れみを受ける狂人の心境とは果たしてどのようなものかと思ってな」
「そりゃお前、いくら考えても分かるわけないだろ。きっと、俺達が想像できないことを考えてんだろ。それか何も考えていないのかのどっちかだ。だから狂人なんて呼ばれて、こんな監獄みたいな場所に閉じ込められてるんだろ」
「それもそうだな」
「なんだよ。手前が云い出したことじゃねえか」
「それなら、狂人じゃなかったら想像できるということか」
「相変わらず理屈屋だな手前は。考えるだけ無駄だぜ。人間、神や仏じゃねえんだ。人様が考えていることなんてどうやったって分かりやしねえ。そう思えば、人間皆狂人なのかもな。特に俺や手前のような裏側の人間は、大なり小なりどこか狂ってるに違いねえ。ここは俺達にとってお誂えの戦場なのかもな」
彪は立ち上がり、傍らに置いた護拳刀を腰帯に差した。
腕時計を見れば十一時三十分、頃合いである。
「龍臣。頭のネジをどこかにやった者同士、一仕事といこうぜ。まあ、お前の方がひどい狂人だけどな」
ああ、そうだな――と私も腰を上げようとした時である。
階上から乾いた炸裂音が響いた。続いて硝子が破砕する音も。
銃声である。もっと云えば――馨が携帯している十六年式大型拳銃の発砲音である。
「敵襲か!」
彪が叫んだ。
結界の完成前に侵入されたか、或いは栖鳳が無力化されたか。いずれにせよ現場に急行するしかない。
「院長室からだ。彪、貴様は翁の安否を確認しろ。院長室にはそれから来い」
見上げれば、院長室の窓硝子は粉々に飛散していた。室内の様子は窓帳に遮られて窺えない。
「手前はどうすんだ」
「先に向かってる。行くぞ」
中庭から屋内に戻れば、館外にいた警官隊が正門から雪崩こんできたところであった。
先頭にいるのは先刻すれ違った現場指揮官である。
「き、君。今の銃声は――」
「院長室からだ。私が先導する。来るのは少数でいい。病院の包囲は決して緩めるな」
「勝手に命令するんじゃない。責任者はこの私――」
指揮官は反論するが、無視して階段を駆け上る。一拍子遅れて数名の警官隊が続く。
院長室の分厚い扉は半開きになっていた。
突入すれば――。
部屋の中央に女がいた。
二十歳程度の若い娘である。
鴉の濡羽の如し黒髪に、服飾模型の如し白い貌、臙脂の洋装を纏う姿は良家の令嬢宛らである。
女の傍らには男が立っている。
戦闘服らしき黒装束を着た血色の悪い男である。両手に大小異なる抜き身の二刀を下げていることから察するに敵の一味――否、女の護衛なのだろう。
扉の側には銃を構えた馨がいる。銃身は男に向けられ、銃口からは一筋の硝煙が伸びている。
藤島院長は――無事である。奥の椅子に座って、私達を驚いたように見ている。
「隊長。状況は」
「あの男が院長を襲っているところに出会したのよ」
こちらを見ずに馨は答えた。
「龍臣君。彼らを生け捕りにして頂戴。それが無理なら――私が許可するわ。殺しなさい」
「承知」
命令が下ると同時に、私は抜刀して男の顔面に片手突きを放っていた。
殺すつもりの一撃である。
だが、私の刀は、男の右手の小太刀によって逸らされてしまう。
男は、硬直する私に左の太刀を振り下ろすが。
――温いな。
右手で外套を掴み、厚手の生地越しに白刃を受け止める。
「死ね」
逆手に持ち替えた軍刀で男の首を貫くが、当たらなかった。
男は、太刀を手放し、身を伏せて躱したのだ。続けて後方に翻り距離を取る。縁を切り、体勢を立て直そうというのだろうが。
――愚か者め。
得物を手放すことも、死合いおいて退がることも、護るべき対象から離れてしまうことも三流のすることである。
間髪入れずに奪った太刀を投擲すれば、白刃は男の肩を貫き、男を本棚に縫い付けた。
遅れて突入した五六名の屈強な警官達が男を捕らえに掛かる。
あとは女の始末だが。
女は、男に一瞥もくれず、怪訝そうに小首を傾げながら私を見つめていた。その態度に違和を抱く。少なくとも、命の危機に瀕した際の表情ではない。
「貴様が、帝都の精神病院を襲撃して回っている紅葉という鬼か」
女を殺す覚悟は決めていた。無論、好き好んで女性を嬲る趣味などないし、生きて捕縛するのが最善である。だが相手が鬼を名乗った以上、手加減はできそうにない。ましてそれが酒呑童子の娘というなら尚更である。
「――兄様? もしかして――龍臣兄様ですか」
女の顔に喜色が溢れる。
まるで、再会を希っていた者と偶然相見えたかように。
「――今、何と云った?」
聞き捨てならぬ言葉であった。
私を兄と呼んでいいのは、この世でただ一人だけである。
「その声――やっぱり兄様ですね。妾は兄様のタッタひとりの妹――茜です。嗚呼、お会いしとうございました――」
「貴様が、茜だと?」
慥かに、妹は麗しい容姿に、紅色の衣装を好む性質をしていた。
だが、それでは辻褄が合わない。茜は三年前の月夜、椛の絨毯の上で――。
「莫迦なことを云うな。私の妹はもう死んでいる。俺は、妹が心臓を喰われて死んでいるのを明瞭と覚えている」
「生き返ったんですよ」
生き返った?
「訳が分からない。もう一度云ってくれ」
狼狽する私に、女は場にそぐわぬ柔和な笑みを浮かべる。
「ですから――兄様の仰る通り、私は慥かに死んじゃいました。頸を斬られて、臓腑を抉り取られて――痛くて悲しくて虚しくて――ドウしてこんな目に遭うのか、妾はタッタひとりで死んでしまうのかと恨めしくて――本当に気が狂ってしまうかと思ったけれど――でも、妾はこうして黄泉返りましたのよ。それがどうしてか、お兄様にはお分かりになりますか」
茜と名乗った女は饒舌に語り出す。
「あなたに逢いたかったからですよ。もっとも、こんなところで再会できるなんて思いもしていなかったけれど」
「そんな事が」
在り得るのか。
損壊著しい屍人が蘇るなどということが。
「にわかには信じられないかもしれませんが紛れもない事実です。妾はあなたの妹です。分かっていただけるまで何度でも云って差し上げましょう。ところで、兄様は、こんなところで何をなさってているのです。その格好――もしかして、まだ兵隊さんをされているのですか」
「待て。待ってくれ」
遮られずにはいられなかった。
全身が冷や汗に塗れ、立っているのもやっとであった。
「いかがなさいました。そんなに怖いお顔をなさって」
「貴様、何が目的だ」
「え?」
「仮にだ。仮に、お前が俺の妹だとして――何らかの術で蘇ったとして――ここで何をしようというのだ。何のために精神病院を襲撃している」
「なァんだ。そんなことですか。そんなの決まってるじゃない」
女が何か云おうとした時である。
「龍臣君。何をそんなに怯えているの?」
間に入ったのは馨であった。依然として拳銃を構えたままである。
「あら? 折角の逢瀬なんだから、水を差さないで戴ける?」
女は馨を睨み付けるが、対する馨は歯牙にも掛けない。
「龍臣君、よく聞きなさい。いかなる術を用いても、生と死の境界だけは踏み越えてはならないの。それが自然の摂理というもの。縦しんば踏破したとしてもろくなことになりやしないわ。花は散るし、木は朽ちる。人は――そうね。腐って溶けるか、乾涸らびて木乃伊にでもなるのでしょう。だから、ね」
馨は射殺すような視線を女に向けた。
「あの女は決して貴方の捜している妹なんかじゃない。何らかの仕掛があるはずよ」
「仕掛?」
「そうよ。死人は絶対に生き返りなんてしない。たとえ、どれだけ会いたいと希っても。そもそも、封筒の宛名にも書いてあったでしょう。あれは紅葉という名の鬼よ。しかもあの酒呑童子の娘。あなたの怨敵なのよ」
己に云い聞かせるような響きをもった馨の言葉は、何の抵抗もなく腑に落ちていった。
慥かに、この女は妹に似てこそいるが、所詮それだけである。女の存在は他人の空似という範疇に収まり、血の繋がった肉親だという直感を齎しはしなかったのだ。
そこまで考えて――漸く、委縮した精神に活力が宿るのを感じた。同時に、妹を騙った女への際限ない怒りも。
だが、女は余裕を崩さなかった。
徐に自らの左袖を捲り上げ、細い手首が露わになり――。
女の手首に見覚えのある腕時計が巻かれていた。
焦茶色の革帯に白い文字盤、十二時だけが朱に塗られた洒落たアラビア数字、円盤の外周に施された久慈琥珀の装飾――日本初の国産腕時計、ローレックの特注品であった。私が愛用している物と全く同じ意匠である――。
「何故だ。何故、貴様がそれをつけている」
声が震えていた。
その時計は、兄妹の証として、私が茜に贈った貴重な一品である。
「なぜって――あなたが妾の為に買ってくれたんじゃありませんか。いやですわ、お忘れになったのですか」
「茜から奪って、茜の振りをしているのか」
「違いますわ。兄様、あなたはいつからそんな分からず屋になってしまわれたのですか」
「貴様が茜だと云い張るのならその証拠を見せてみろ」
「そこまで仰るのなら。私の生まれ育った経緯と、この時計の思い出話をしてさしあげましょう。それで宜しくて?」
「話せるものならな」
私が頷けば、何からお話し致しましょうか、と女は呟く。
「妾は幼い時分より、家族や世間から狐憑きだ物狂いだなんて蔑まれて、わけも分からぬまま窮屈な毎日を送っておりました。尋常小学校を卒業したあとは、女学校にでも行けと云われるのかしらんと思っていたら、あろうことか座敷牢に放り込まれてしまいました。食事だけは飢えない程度にくれたけれど、蚤や壁蝨で躰は痒くなるし、冬は指が千切れるくらい寒かった。文机に乗って、格子窓から外を眺めて過ごすだけの可哀想な妾だったけれど――兄様だけは違った。父様や母様に向かって妾は狂っていないと必死に仰ってくれた。厳しい厳しい兵隊さんの学校にいるはずなのに、いつも週に一ペンは帰ってくれて、妾の相手をしてくれました。狭くて汚い牢屋だったけれど、何をするでもなく兄様と寄り添っている時間が私を癒してくれました。あの時だけは、私は幸せでした」
そこで女の言葉は途切れる。瞑目しながら口角を僅かに持ち上げている顔は、妹によく似て――私にはどうしても反駁ができなかった。
「この時計は、妾がお外に行きたい、帝都を見て廻りたいと我儘を云って――百貨店というところに連れて行ってもらった時のものよ。『今日は帝劇明日は三越』なんて惹句も流行って久しいし、もうみんな飽きた頃かしらと思っていたけれど、全く違いましたね。あんまりにも人が多いものだから、はぐれないようにと兄様が御手を繋いでくれたのだけど――ほら、新舎の自動階段に乗った時よ。通りすがりのお爺様に、ホレホレ新婚さん、これはエスカレーターという装置でな、スエズ運河以東最大の建築だなんて云われているんだよ――なんて教えられたじゃない。兄様は真面目な顔で聞いていたけれど、妾はお兄様と恋仲に見てもらえたことが嬉しくて、でも同時に妾なんかじゃ恥ずかしい思いをさせてしまうだろうと悲しくなって、どうにも堪らなくなって、胸がイッパイになって――結局手を繋げなくなってしまったのよ。その時のこと、覚えておりますか」
「――覚えている」
「よかった。忘れていたなら殺してやろうと思いましたわ」
女は愉快そうに笑った。
「でも、手を放したのはいいけれど、やっぱり落ち着かなくて――兄様を御側に感じたくて、これを強請りました。服部時計店の出張所だったかしら。陳列台の中、この子達が夫婦のように寄り添っているものですから――欲しくて欲しくて我慢がなりませんでした。この時計をあなたに巻いてもらって、妾は初めて、産まれてよかったと思ったんですよ? 仮令兄様のお側におらずとも、飢えた気分にならなくて、すがすがしくて、でもフワフワと落ち着かなくて――顔が赤くなっていると自分でも分かったものですから、恥ずかしくて、見られたくなくて、兄様の後ろを一生懸命歩いておりました。他にも竹久夢二の画集や絵葉書を見て、それから洋食というものを初めて食べて、あまりの美味しさに吃驚しましたけれど――でも一番はこの時計ですわ」
女は愛おしそうに己の腕時計に頬を寄せる。
女の語る内容は、私の記憶と寸分違わぬものであった。
「兄様は三越を出たあと、人込みを掻き分け掻き分け、浅草の活動写真や凌雲閣に行こうと仰ってくれましたけど――結局叶いませんでしたね。だって妾は、あの日、日本橋で鬼に攫われてしまったんですもの」
そこで女は喋るのを止めた。私を見詰めて、もう十分ではありませんか、と云った。
「ここまで云えば、妾があなたの妹であることは分かっていただけるかと。この気持ち――あなたをお慕いする想いは妾だけのものです。誰かの振りでどうしてここまで云えるのですか」
口振りこそ穏やかであるものの、女の言葉には怒気が含まれていた。
反論の余地はどこにもなかった。
私が両親の赦しを得て、茜を観光に連れ出したことも。茜に色々な物を贈り、普段できない贅沢をさせてやろうとしたことも。琥珀の腕時計を付けてやった時の恥じらう表情も、繋いだ手から伝わる温かい感触も、私が目を離した所為で居なくなってしまった事も――。
「そうだな。認めてやっても」
いいのかもしれないな。
「龍臣君、しっかりなさい!」
馨が鋭い呼び声が耳を劈く。
「惑わされては駄目、貴方の目的を思い出して」
目的?
――君は君だけの弔い合戦をしたらどうだい――。
実篤の言葉が蘇る。
馨の云う通りである。
妹の復讐に奔走した結果、妹と思わしき女と相見えるとは奇妙な因果であるが――事情ならあとで聞けよう。女の本懐も、悪行に走った原因も。
そうだ。私は立ち止まるわけにはいかないのだ。
もう、私は引き返せぬところまで来てしまったのだから。
「また邪魔をするのね。惑わすだなんて人聞きの悪い。妾の云うことは真実ですのに」
「鬼女紅葉。この病院は包囲されている。貴女のお供も動けないでしょう。抵抗は無駄よ。命が惜しくば投降しなさい」
「無駄? 何を云っているのかしら」
さも不思議そうに女は目を瞬かせる。
「貴女が鬼とは雖も、撃たれたらただでは済まないでしょう。まして、ここにいる龍臣君はあの酒呑童子を討った英雄よ。貴女が彼に叶うとは思えない」
「――そう。やっぱり、兄様は妾のために戦ってくれたのですね。それなら、今度は妾が応える番ね」
お邪魔虫は潰さなきゃね、と呟いた女は馨を見遣る。その口元は依然として笑みをつくっていたが、恐ろしい嗜虐の色が垣間見えた。
嫌な予感がした。
女の標的が、私から馨に移ったのだ。
「隊長、お下がりください。ここは私が――」
「羨ましい。あなたには護ってくれる殿方がいるのね。もしかして見せつけているのかしら。このまま退散しようと思っていたけれど――駄目ね。あなただけは見逃すわけにはいかない。兄様への想いにかけて。妾自身の憎しみにかけて」
歯を剥き出しにして女は云った。
「鏡。いつまで寝ているの? 起きてそちらのお嬢さんを攫ってしまいなさい」
女が叫んだ瞬間である。
「どけッ!」
警官隊に囲われた男が吠えた。同時に、誰かの血飛沫が上がり、取り押さえていた隊員達が飛び退いた。男が、自身の肩を貫く太刀を引き抜いて暴れ出したのだ。刀が命中したらしい一名は昏倒したまま動かない――。
男は警官隊に目もくれず、私に向かって跳躍して双刀を薙ぎ払う。
馨の隣まで下がることで回避する。
睨み合ったまま互いに微動だにしない。
互いの間合いは歩数にして三歩。斬り合うには十分な間合いである。
「肩を穿たれてよくそこまで動けるものだな」
「忠義の前では痛みなど無意味なものだ。それよりも、先刻、目的がどうと云っていたな。お前の目的とは何だ?」
「死んだ妹の復讐だ。あとは――この大正を創ることだ」
男の質問に応じてやる。
「創る? 創るとはどういうことを云うのだ」
「大正を終わらせることだ」
「解らんな。禅問答か」
「違う。後の世に引き継いではならぬものを斬り捨てる。それだけだ」
私も男もそれきり喋らない。馨も、女も動かない。警官隊も固唾を飲んで様子を窺っている。
男が唇を歪めて――笑った。
隙を認めた刹那、私は刀を振り下ろす。
一太刀目で顔面を割り、返す刀で首を落とす筈だったが、そのどちらも男を捉えはしなかった。私の軍刀は、振り落とされたまま宙で静止している。
一瞬、顔から血を流す影が網膜に映るが――幻視である。
何故当たらぬ、と思った時には、私の攻撃を躱した男に顔面を殴られていた。
あまりの衝撃に吹き飛ばされた。太刀を手放すことこそしないが、額に中ったせいで視界が歪み立つ事ができない。
「君、大丈夫か!」
私を受け止めたのは警官隊の指揮官である。
「私のことはいい。それよりも」
拙い、馨を護らなくては――。
「全員動くなッ!」
顔を上げれば、男が馨を拘束したところであった。
馨も拳銃と短刀を装備してはいるが、腕を捻られ、首に白刃を添えられ、身動きがとれずにいる。
私も警官隊も、奥にいる院長も、全員が凍て付いたように動かない。
「龍臣君――」
馨がうめき声を上げる。
「私のことなど放って戦いなさい」
「少し黙ってもらおう。ここで死にたくはあるまい」
男が刀の背で拘束を強める。馨の表情に恐怖の色が混じる。
男は、未だ立てずにいる私を見下し満足そうに頷いている。
その態度が癪であった。
「どうした。なぜかかってこない。私を殺す絶好の機会ではないか」
「お前が紅葉様の兄だというなら殺すわけにもいくまい。それに、俺はお前を一発殴れたらそれでいい。三年前の仕返しというやつだ」
三年前?
「お前は莫迦だな」
言葉の意味を理解する前に、男は嘲った。
「随分と安い挑発だな」
「挑発ではない。お前らの役目を察するに、国に仇なす者を抹殺する秘密警察といったところだろう。時代を区切ろうとするのは大いに結構だが――果たして、切り捨てて残ったものをかき集めた世に、お前達の居場所は残されているのかな」
「何が云いたい」
「お前は大正という世と心中しようとしているのだ。しかも、自分ではそうと気付かずにだ」
男は喉を鳴らして笑う。
「成程。慥かにそこまで考えたことはなかったが――」
漸く目の焦点が定まる。
殴り飛ばされ、虚仮にされたまま黙ってなどいられなかった。まして、上官を――共に戦うと約束した娘を人質にされるなど、断じて認める訳にはいかない。
「それはその時に考えるとしよう。今重要なのは、貴様等が帝都に不要な塵芥だという事だ」
「塵芥とは大きく出たな。何を云おうが、この状況を覆せはできんぞ」
男は不敵に笑う。
「貴様、名は?」
「鏡凛太郎」
「そうか。鏡よ、人質をとったところで貴様らは逃げられんぞ」
「兄様。それは勘違いというものですわ。このお嬢さんは人質なんかじゃないわ」
応えたのは女であった。
「妾が、この子に聞きたいことがあるだけ。少し借りるわ。場合によっては命の保証はしてあげられないけれどね。そもそも、兄様はともかく、他の人に私の足止めなんてできっこないわ」
さぁもう行きましょう――と女は私達に背を向ける。鏡と名乗った男もそれに続く。
窓から逃げるつもりなのだろう。
「藤島先生。こちらの早とちりで殺してしまいそうになってすみませんでした。あなたの気高い志と優れた学識、そして兄様のお顔に免じて今回ばかりは見逃してあげましょう。今後とも、あなたの医学を、狂人と呼ばれた者のために発揮してくださいな」
女が、肩越しに振り向く。
「兄様。今度は二人ボッチでお話しいたしましょう。場所は追って伝えるわ」
女が窓に手を掛けた時、扉が勢いよく開かれた。
「手前、馨様に何してやがる!」
見れば、護拳刀を抜いた彪である。やや遅れて栖鳳も入室する。
「逃すな! 奴等が首謀者だ。できるなら生け捕りだ!」
私の一喝に、真先に動いたのは彪であった。豹の如し身のこなしで凛太郎に飛び掛かるが、凛太郎はそれを避け、馨を連れて窓へと駆け出した。
「逃した。爺様、頼む!」
「小童共。巻き込まれるんじゃないぞ」
栖鳳が懐から数枚の呪符を取り出し――投げ放つ。呪符は矢のような速度で男女に迫ると、凄まじい熱量を持った青い炎へと姿を変える。生命体だけを炭にする、秘術の炎であるらしい。
「莫迦、これじゃ骨も残らねえ。馨様まで燃えちまう!」
彪の喚き声が聞こえる。
私は外套で身を庇いながら前方を見るが、炎は見る見る内に小さくなり、消えていった。
「あの小娘、それなりの術が使えるようだな」
栖鳳が苦々しく零す。
「だから云ったでしょう。私達を止めることなんてできやしないって」
他の連中など眼中にないと云わんばかりに、女は私だけを見て云った。
女は窓からするりと抜け出してしまう。凛太郎も私に一瞥をくれた後、馨を担いだまま飛び降りていった。
「待て!」
私が窓から中庭を見下ろした時には、すでに彼らの姿は消えていた。
あまりの怒りに眩暈がして、立っているのがやっとであった。
過去と現在の境界がどろりと溶解して混じり合った――気がした。




