2-2.私も馨も、いつまでも過去を引き摺っているのだ
不意に受付裏手の戸口が開く音がした。次いで、敷畳を靴で叩く規則的な跫が近付く。どうやら馨が到着したようである。
振り向けば、憤慨した表情の馨と、その半歩後ろにひとりの少女が控えている。
娘の外見は十五よりも下、若いというより幼い印象である。鳶色の髪を今流行りの耳隠しに整え、同じく流行である納戸色の小袖という恰好である。
彼女は小雪である。馨の世話ないし護衛をするため、猫から人に変化した姿である。
初めて変化の瞬間を目にした時は己が目を疑いもしたが、今ではもう驚きもしない。
馨曰く、法術に長けた者が、動植物や妖怪を使役するのはそう珍しくもないらしい。慥かに、かの高名な陰陽師である安倍清明にも、鬼を調服させたという逸話が残っている。
「これは馨様。本庁での会議お疲れ様でございます。お偉方が何か云っていましたかい」
「黙りなさい。あなた達、また喫ってくれたのね」
平生よりも低い音吐であった。私達を一瞥した後、馨は大きく息を吐いた。
馨にしては珍しい態度である。彼女は、彪や私には兎も角、栖鳳に対して不機嫌を露わにすることは滅多にない。この様子から察するに、出張先で槍玉に上げられでもしたのだろう。
「そりゃ俺だけじゃないです。龍臣と爺様も共犯でございます」
「おい虎ノ字。往生際が悪すぎやせんか」
「仲間なら一緒に怒られてくれよ」
「厭なこった。お前、その下手糞な喋り方はどうにかならんのか」
何やら云い合いを始めた栖鳳と彪を無視し、私は空を見上げた。曇天を鳶が旋回しており、病院の屋根には鴉が肩を寄せ合うように並んでいる。
「龍臣君。どこを見てるの」
我関せずを決め込んでいた私の前に馨が立った。
「失敬。何でもありませんよ。今度からは隊長を見るように致しますよ」
掌を胸に当て恭しく一礼する。分かりやすい追従である。馨を上手く怒らせるのは専ら彪の担当であり、私の役柄ではない。
私を睨んでいた馨は、何を思ったのか私の襟首を掴むと強引に引き寄せる。
接吻でもするのかと思う程に、私の口許に鼻先を近付けて。
「ピースの香りね。嫌いじゃないわ」
と云った。
「お褒めに与り光栄です。何せ記念品ですので」
欧州大戦の終息を記念して製造された銘柄である。今年の三月に製造が打ち切られたものの、極楽鳥が描かれた鮮やかな外装が気に入り、半年程前に背嚢一杯分を買い占めたのだ。
「そう。一本戴ける?」
「勿論。ですが、解放していただけなければ取り出せませんよ」
「気にしなくていいわ。勝手に貰うもの。珍しく手が届くところにあるからね」
当て擦るように云い、馨は私の制服の釦を器用に外して懐から小さな紙箱を抜き取る。中から出した最後の一本を、紅を塗った唇で銜えた。
「火を頂戴」
「どうぞ御随意に」
私が喫うつもりだったのに――という恨み言を抑えて燐寸で火を点けてやれば、もう用は済んだと云わんばかりに、馨は空箱を懐に戻して私を突き放す。
「随分濃厚な煙ね。甘い芳香がするけど苦みと辛さで枠と格をつけて――とっても上品ね」
嫌煙家にしては珍しい好評価である。香道をされていたのですか、と訊けば、これくらい乙女の嗜みよ、と洒落気を交えた答えが返ってくる。
「隊長。煙草が嫌いだったのではありませんか」
「嫌いに決まってるじゃない」
「では何故喫ったのです」
「もっと悪いことがあったからよ」
間髪入れずに馨は云った。
「でも偶にはいいわね。美味しいものもあると分かったし、何よりあなたの狼狽える顔を見ることができたからね」
そう云い、馨は悪戯を成功させた童女の如し顔をする。幾分か照れの混じった年相応の微笑みであった。そこで漸く私は己が間抜け面を晒していることを自覚する。
「ひとつ覚えておいて。女であるからと見下されるの当然厭だけれど、だからと云って傅かれ、蝶よ花よともてはやされるのも不快なのよ。貴方は、そんなことなんか気にせずに不遜でいてくれた方がよく似合っている。小雪、あなたもそう思うでしょう?」
「よく分からないわ。だってあの人に興味なんてないもの」
同意を求められた小雪は困惑したように小首を傾げた。
小さく笑った馨が小雪の頬に触れると、その瞬間に小雪は人から猫の姿に戻る。周囲を見回して少々の彷徨をした後、彪の膝に跳び乗って香箱座りをした。
理由については釈然としないが、馨の機嫌も少しは直ったようである。
「馨。今からここ一帯に結界を敷く。お主も手伝ってくれ」
切り出す頃合いを見計らっていたのだろう。栖鳳が云った。
「今からですか? それは構いませんが――手紙の予定時間には終わりますか」
「終わらせるためにお主の助力が必要なのだ。場所は――そうだな。屋上がいい。龍ノ字、屋上にはどうやって行ける」
「受付横の階段をそのまま上ればいい。しかし施錠されているから雑役夫に鍵を借りるか開けてもらうかしないと上がれない。今の時間なら詰所にでもいるかと」
「分かった。急ぐぞ、悠長にしていられないからな」
歩き出した栖鳳を、馨が呼び止める。
「お待ちください。私は下準備で抜けさせてもらいます。今日は私も現場に残ります」
「お主が残る?」
怪訝な顔をしたのは栖鳳だけではない。彪も太い眉を顰めていた。
事前の打ち合わせでは、万一の事態に備えて、馨は煉瓦館に待機する手筈となっている。
「お主、それが何を意味するのか分かっておるのか。今回ばかりは戦闘になるだろう。お主がここに居ることで、現場の足を引張ることになりかねん」
「慥かにそうかもしれません。ですが、もう決めたことです」
「それだけはならぬ。前々から話していたことだろうに。こう云ってはなんだが、虎ノ字や龍ノ字の代わりは探せばいるだろう。だが、お主の代わりはいない。此の世に絶対なんてありやせんのだ」
「撤回してください。それはふたりに失礼です。それに私のことなら心配無用です。だって皆がいるもの。当然、ただ護られているつもりはないけれど、万が一がないように先生が助けてくださるのでしょう? 期待しておりますわ」
「分かった。邪魔はしてはならんぞ」
納得こそしていないだろうが先に折れたのは栖鳳であった。説得にかかる時間と準備に費やす時間を天秤にかけたのかもしれない。
「そういうことだから二人とも。今日はよろしくね。私のことは気にしなくていいわ。自分の身くらいは守れますもの」
馨は不敵に笑い、腰に下げた短刀と拳銃嚢を指先で撫でた。
「そいつは困りますよ」
苦言を呈したのは彪であった。
「どうして? 邪魔にはならないつもりよ」
「そういうことじゃないんですわ。馨様にゃ、俺達が人を斬るところも、逆に斬られるところも見られたくないんです。俺達を顎で使って、ご自分は官舎でどっしり構えててほしいんです。隊長ってそういうもんじゃないですか。俺にとっては、その方が仕え甲斐があるってもんです」
「ありがたい申し出だけれど、却下ね。お姫様扱いはごめんだもの」
「しかし、ひとりくらいは官舎に残った方がよろしいのではありませんか」
「待機する人員がほしいなら小雪に任せるわ。私である必要なんてないわ」
「俺にとってはあるんですがね」
「だから云ったでしょう。お姫様扱いは止して頂戴」
私は隊長であってお飾りなんかじゃない、と馨はにべもなく彪を切り捨てる。案の定黙り込んだ彪はこちらを睨むと、顎だけで、行け、と示す。私が止めろと云いたいのだろう。
「今度はあなたが止めてくれるの?」
馨は私に流し目を遣り、挑戦的な笑みを作る。
「いえ。そのつもりは一切ありませんよ。上官が現場に残ると云うなら私は従うだけです。それが命令なら尚更です。寧ろ嬉しく思います」
「嬉しい?」
今度は馨が怪訝な顔をする番であった。
「失敬、こちらの話です。ただ、ひとつ訊いても宜しいですか」
「どうぞ。何を訊きたいの」
「その様子ですと、本庁で散々苛められたようですね」
「ええ、そうね。その通りよ。これ以上被害者が出たら私のせいだ。その時は特務課に存在意義はない。解体したらどこかに嫁いでしまえ。女だてらに身分不相応なことをするから――という具合に散々詰り倒されたわ。しかも、内務省の役人だけじゃなくて隣に立つ課長にも、ね。あまりの理不尽な仕打ちで腹が立ったし、恥ずかしくて顔から火が出るかと思ったわ。だからというわけではないけれど、私は黙ってなどいられないの」
瞳に強い意志を宿して、馨は云った。
「私にも譲れないものがあるのよ。理解してほしいとは云わないわ。でも、肩を並べるくらいは許して頂戴」
「分かっております。隊長がそういう御方だと、私は既に知っております」
「どういうことかしら」
「約束したじゃありませんか。私は覚えておりますよ」
私が云えば、何かを思い出したように馨は目を少しだけ見開いた。
「恥ずかしいわ。随分昔のことを持ち出してくれるのね」
「昔といってもたかだか二年前のことですよ。話を戻しますが、私の戦う理由のひとつに隊長がいるのです。共に戦うと云ってくれて嬉しいのですよ。どうぞそれをお忘れなく」
「ありがとう。あなたにそう云ってもらえるなんて、救われた気がするわ」
「止してください。まだ始まってすらおりません」
「それもそうね。ああ、そうだ。ところで、今夜予定はあるかしら?」
唐突な問いであった。
特段予定は入っていない。強いて挙げるなら装備の手入れと、藤島院長に精神病者を取り巻く環境改善の持論を伺おうとしていたくらいである。
「当直の交代ですか」
「違うわよ。私的なことなのだけれど、今日の任務が終わったら――」
馨が云い終わらぬうちに、私は彪に蹴り飛ばされ、長椅子から派手に転げ落ちてしまう。
受け身を取って彪を睨めば、彪は腹の立つ笑みを浮かべていた。
「彪。貴様、何故押した?」
「いやあ悪いな。蚊がとまってたもんだからな。つい足加減を間違えちまったぜ」
彪は嘲笑する。どうやら私は喧嘩を売られているらしい。
「ちょっと彪君。どうしちゃったの?」
「まあまあ。そう怒らずにお待ちくださいませ」
私を助け起こそうとする馨を、彪は手で制する。
「お言葉ですが、馨様は俺達がいるってことを忘れちゃおりませんか。二人だけの世界に浸るってのも結構ですが、時と場合ってのも考えてくださいよ」
「二人だけって、そんなことは――」
「そんなことあるから云ってるんですよ。小雪もそう思ってますよ。なあそうだろう?」
彪が膝の上の小雪を撫でると、小雪は同調するように小さく鳴いた。
「――そうね、ごめんなさい」
「そこで転がってる奴なんかひとまず放っておきましょうや。それこそ全て片付けてから決めたら宜しいでしょう。そんなことよりも水くさいじゃありませんか」
「え?」
「課長連中に苛められたんならそう云ってくださいよ。そういう事情があるんなら俺達だって協力を惜しみませんよ。馨様への侮辱は俺達への侮辱でもあるんです。爺様もそうだろ」
彪が話を振れば、栖鳳も渋々ながら首肯する。
「皆、ありがとう。何事もないに越したことはないけれど――それでも、今日はよろしくね」
「いいってことですよ。それで、馨様が結界を敷いたあとは、俺達はどう動けばいいんで?」
「彪君と龍臣君は、十二時前までに院長室に来て。それ以降は診察終了まで部屋の前で立哨。それまではここで待機。先生は結界の展開と維持。場所は屋上になるのかしら。私は院長と共に院長室にいるから、何かがあったら報告をお願い。院長室が本作戦の本部と考えていいわ。小雪は官舎に戻って電話番をお願い」
そこで馨は今度こそ私を助け起こす。
「龍臣君。あなたには正門で頑張っているあの人達との情報共有と調整を任せるわ」
「調整、ですか?」
面倒臭い注文だな、というのが態度に表れたのだろう。馨は苦笑いをしてみせる。
「ついさっき向こうの責任者らしき人に話し掛けたけど無視されちゃったんですもの。伝達役は鬼殺しの異名を持つあなたが適任でしょう。きっと誰もあなたには逆らえないわ」
鬼殺し――。
過去の惨めな渾名である。馨には悪気などなく、寧ろある種の羨望すら抱いてくれているのだろうが、私にとっては忌避すべき称号であった。
「皆。他に質問はあるかしら?」
「馨様。俺とこの野郎が行くのは十二時前ってちと遅いのでは? 十二時に扉を開けたら院長サマがおっ死んでおりましたじゃ笑えませんぜ」
「それくらい考えているわ。でも、ね。犯人は前もって手紙を出すような気位の高い人物よ。己の正義を疑わない自尊心の塊のような者が、指定した時刻前に来るようなだまし討ちはしないはず。事実、前二件は測ったように時刻ぴったりに襲撃したんですもの」
「隊長。推察を過信してはいけません。予断は禁物ですよ」
彪の代わりに注進すれば、それも分かっているわ、と馨は反論する。
「予断なんかじゃないわ。院長は健在よ。あれをご覧なさい」
馨は本館の二階を見上げた。視線の先、ある一室の硝子越しに、私達を見下している白衣の男がいた。藤島院長である。
馨が深々と一例して、後程ご挨拶に伺いますわ――と云えば、聞こえずとも察したのだろう。藤島院長は頷いて部屋の奥に下がっていった。
「ほら。あなたも見たでしょう? 院長のお姿を」
「隊長。それは詭弁ですよ。隠れてしまったら分からないでしょう」
「下準備を終えたらすぐに行くからそんなに怖い顔をしないで」
去りかけた馨は、何かを思い出したように足を止める。
「龍臣君。院長への挨拶だけれど、あなたも一緒に来てくれないかしら。ここで世話になっているんでしょう」
「いや、行くなら隊長おひとりの方がよろしいでしょう。今、院長殿は論文と格闘中である故、できるだけ刺激したくないのです。私達まで出入禁止にされかねません」
先刻、窓越しに見た機嫌の良さそうな姿は気紛れのようなものだろう。
「私ひとり、ね。正直、気は進まないけれど行くしかないわね」
「心配無用ですよ。院長殿は人格者です。男女の別どころか、狂人と常識人の区別すらもない――隊長をひとりの人間として扱ってくれるでしょう。おそらく隊長が思っているようなことにはならないでしょう」
「ありがとう。少しだけ気分が軽くなったわ」
馨は安堵したように僅かに口角を上げた。
その時、時計塔の鐘が鳴動した。庭園からでは文字盤が見えないが、十時を回ったらしい。
あと二時間も経てば、会敵し、否応にも斬合いが始まるのだ。
虚しさと侘しさが胸に押し寄せ、今にも自害してしまいたくなったが、それと同等以上の高揚感も慥かに存在して――結局、平生と同じ、殺し合う前の心持ちである。
酒呑童子と名乗る鬼を殺した時も同じ心境だった。
「先生。お待たせしました。参りましょうか」
「うむ。あまり猶予もないゆえ手早く済ませてしまうぞ」
馨は栖鳳と連れだって歩き出すが――馨はまたも立ち止まる。
肩越しに、私の方へ振り向いて。
「龍臣君。貴方のこと、信じているからね」
と云った。
その呟くような声は、何かを訴えるような切実な響きを孕んでいて。
初めて馨と会った時と、全く変わらぬ声色であった。
私が返事をする前に、馨は今度こそ庭園を去っていった。
――滑稽である。
私も馨も、いつまでも過去を引き摺っているのだ。
軍隊から所属を変え、業物の軍刀と華美な外套で着飾り、どれだけ屍を積み重ねたところで、私は妹と死別してから、何ひとつ進歩していないのだ。そしておそらく、未来永劫それは変わらないのだろう。
だとすれば、私達の在り方はどこまでも滑稽かつ悲惨なものでしかないのだが、それが悪しきこととはどうしても思えなかった。